【一部】倉敷柚子葉の浮世事情【完結】
壱ー六
「意味が分かんねえよ。なんなんだよ合図って!」と俺は叫んだ。
大声で。それも屋敷にまで届くかもしれない大声でだ。
それに反応した志恩は、しどろもどろになりながら返答。
「ほら、窓ガラスを小突く音が、モールス信号みたいだったろ? あれを仕込むのには、何年も掛かったんだぞ!」
確かにヤタ君の突き方には一定の間隔があった。
だけど、それがモールス信号だなんて理解できるか!
”モールス信号”それは光や音を用いて連絡を取る手段の一つである。
主に軍事目的で使用され、アマチュア無線の方や漁業関係者の方も使っているというアレだ。
俺が”モールス信号”と聞いて真っ先に想像したのは、某錬金術漫画と二人の女性が密室に閉じ込められるという映画。
両者とも光と音を駆使して外部の人間と連絡を取ろうと奮闘する。しかし、一方は失敗に終わり、もう片方は運よく連絡がついた。
本題に戻そう。
少年や少女、幼子や老人がモールス信号を使うのならわかる、百歩譲ってもだ。
偶然、それらの人間たちがモールス信号の使い方を知っているのなら理解できる。尚のことだ。
だが、俺にだって譲れないことがある。
鴉が。ただの鴉が。いや、ただの鴉ではない。
コイツは鴉の”式神”であり、ヤタ君と名付けられている。
式神がモールス信号なんて理解できるのか! と俺は脳内で叫ぶ。
俺は屋敷へと続く庭園を歩き続ける。そして、抱きかかえた鴉に視線を送った。
「なあヤタ君。もしかして、窓を突く音。あれがモールス信号のつもりだって言いたいのか?」
抱えたヤタ君と目が合う。その直後、ヤタ君が明後日の方向を向いた気がした。
それでも俺はヤタ君を目で追う。
そこには、つばを飲み込み、肩をビクッとさせ、クチバシをカタカタと震わせる彼の姿があった。
視線をそらし続ける鴉を握りしめる。もちろん、彼の体が傷つかない程度に。
「なあヤタ君。志恩から聞いたけど、お前、式神なんだろ? 本当は話せるんじゃないのか?」
「カ……カー!」
「おい柚子葉。さっさと戻るぞ!」
たじろぐヤタ君は、俺の腕から這い出たかと思えば、志恩の肩に飛んで行った。
不意に発せられた志恩の言葉に反応できなかった。
俺は、ただただ庭園を歩き続ける。
数分も掛からずに縁側へと到着した。俺はすかさず縁側の縁に腰を下ろす。
視線をそっと横に向けた。その先には十年前に消えたであろう志恩の姿がある。
幽霊なんかじゃないのか、俺はまた夢をみてるんじゃないか、暑さで頭がおかしくなってるんじゃないか。
等と考え続ける。
数分前の出来事。たったの数分前である。
シゲシゲの姿を装った葉月兄さん――いや、謎の男。
謎の男に掴まれた俺の足首には、いまだに手のひらの感触が残っている。
掴まれた足の感覚が浮世であったと証明していた。
それだけではない。
右隣数十センチの先から漂う香りに気づき、顔を伏せていた俺は、再び横目で彼のことを見た。
そこには山伏衣装をもろ肌脱ぎしている志恩の姿があった。
上半身をさらけ出し、山伏衣装を腰まで下げ、うちわで顔を扇ぐ。紛れもなく十年前に消えた志恩の姿が存在していた。
「なあ柚子葉。お前も暑いんなら、さっさとジャージなんか脱いじまえよ」
と志恩が言った。
俺はコクリと頷き、緊張で体が震えながらも、ジャージを脱ぎ始めた。
ジャージのジッパーを腰まで下ろし、ジャージの袖から腕を引き抜き、死人のような青白い肌をさらし、タンクトップ一枚になろうとした。
「今日はやけに暑いな」
等と言い、平然を装いながら、志恩を横目で見る。
その直後、何の拍子か分らないが、慌てふためく志恩の姿が目に入った。
「待て、柚子葉。お前、今年で何歳になったんだ?」
「ああ。志恩が消えてから、もうすぐ十年が経つし、今年で十七歳になるよ。それがどうした?」
「こっちにこい柚子葉」
「ったく、面倒くさいな」
縁側から立ち上がり、踏み石の上に足を置き、志恩の真横に座った。
志恩の匂いが漂ってくる。
甘酸っぱい香水の匂いと汗が入り混じった匂い。
十年前に志恩が被せた甚平の香りと一緒だった。
こちらをじっと見つめる志恩を見返した。
「なんなんだよ。言いたいことがあるなら、はっきり言えよ!」
「いや、なんだ。お前、かなり大きくなったな」
なんだ。そんなことか。
緊張で喉が渇き、おでこに張り付く前髪をいじった。
「十年だよ。十年も経てば、俺だって大人になるよ」
「まあそうだな。なんか不思議だなーって思ってさ」
「そんなに不思議か?」
「不思議だよ。あんなに小さかったお前が、こんなにデカくなるとは思ってもなかったからな」
「なんだ。そんなことか。でも俺、小学生にも馬鹿にされるぐらい、背が小さな方なんだぜ」
「身長の話じゃねえよ。中身の話だ。お前は立派に育ったよ」
「中身?」
彼が言った言葉の意味が理解できなかった。
志恩が言うには、中身とは人間的な成長の意味であるらしい。
彼がそう言ったけど。
俺は、自分が成長してるかどうかなんて理解できなかった。
保健室登校ではあるが高校には通い、死人という体でありながら、平然を装って生活に紛れる。
そんな退屈な常世が、俺の人生のすべてだった。
俺は本当に成長したんだろうか。
上っ面だけの言葉を並べて、俺を褒めてるだけなんじゃないか。と思った。
「なあ、志恩。お前が消えていた十年間を教えろよ」
「そうだったな。まず、どこから話せば――いいんだか」
座布団の上であぐらをかき、腕を組み始め、首を傾げた志恩の姿が目に入る。
志恩は悩ましそうな表情を浮かべていた。
「信じられねえと思うが、俺と葉月は平安時代に行ってた」
「ふーん」
志恩の言葉は予想できた。
だけど、志恩の口からハッキリと言われるまでは、俺は信じられなかった。
「平安時代って知ってるだろ?」
「それぐらい知ってるよ」
「そりゃあ、そうだよな。まあ平安時代の”桑都”っていう都にタイムスリップしてたんだ」
「それってさ。十年前に言ってた、”俺の霊魂を奪い返す”って理由で?」
「まあな」
「じゃあさ。俺の霊魂は奪え返せたの?」
腕を組んでいた志恩は、体を前後に動かし、ぶつぶつと呟き始めた。
「いんや、無理だった」
「ふーん」
先ほどと同様に、志恩の言葉は予想できた。
志恩がトウモロコシ畑で俺をかばってくれた時。
彼の表情が、どこか曇っているようにも見えたからだ。
諦めというよりは、懸念を抱いたような何かを感じた。
「じゃあ、もう一つだけ質問していい?」
「おう! なんでも答えてやるわ!」
志恩の両眼をじっと見つめる。
「あのさ”葉月兄”は何処に行ったの?」
「ああ、そのことなんだが……」
「なあ志恩。その話は今度にしておけ」
志恩の話に夢中だった俺は、背後に佇んでいたシゲシゲに気が付かなかった。
シゲシゲの話によると、風呂の準備や晩飯が出来たようだ。
既にシゲシゲはお風呂を済ませたらしく、部屋着に着替えていた。
「すまねえな柚子葉。話の続きは夜にでもしてやるよ」
「ったく、シゲシゲはいつも空気が読めねえんだから」
座布団の上に立ち上がった俺は、縁側から庭園を覗き込んだ。
いつの間にか夕日は沈みかけており、トウモロコシ畑や庭園の池は、オレンジ色の夕日に照らされている。
あれから何時間ぐらい話したんだろう。
志恩と一緒に過ごす時間は、いつだってあっという間に感じるきがする。
――
晩飯を食べ終えた。
昼間にあんな出来事があったというのに。
三人とも本当の家族のように見えた気がした。
食卓を囲んでいた志恩とシゲシゲ、千代子お祖母ちゃんを居間に残し、俺は廊下を進む。
二階に続く廊下とは真逆の方に進んでいき、部屋部屋を通り抜ける。
その途中で、屋敷の中にある中庭へと目を向けた。
そこには、ヤタ君の姿があった。
「なあヤタ君。お前、本当は喋れるんだろう? 違うのか?」
「か、カーッ!」
たじろぐヤタ君を目で追い、そのまま廊下を進んでいった。
ピカピカに磨かれた木の廊下の突き当りには、既視感のある渡り廊下があった。
外の空気を味わえる渡り廊下。そこから見える景色は、何の変哲もない綺麗な中庭だ。
倉敷家の母屋から十数メートル先にある離れ座敷には、風呂場が設置してある。
本来ならば、母屋の屋敷内に風呂場を設置すべきだが、倉敷家の屋敷を受け継いだシゲシゲは、今のままがいいらしい。
俺にはシゲシゲの考えが理解できない。
別に理解しようとも思わない。
シゲシゲには考えがある。そう思ったからだ。
倉敷家の当主であるシゲシゲがそう望むのなら、そうあるべきであるのだから。
「蒸し暑い。さっさと風呂に入ろう」
木板でできた渡り廊下を進んでいき、離れ座敷の玄関の戸を開けた。
部屋中を見渡す。そこには男女共用の更衣室があった。
色褪せたジャージを脱ぎ落し、タンクトップに手をかけた。
そこからのことは、言うまでもない。
巨大とまでは言えないが、広大ではある露天風呂へと飛び込んだ。
「ああ久しぶりの露天風呂。やっぱりお風呂は最高だなー」
お湯から立ちのぼる湯気を手で払い、漂うヒノキの香りを味わい、夜空を見上げた。
木々の葉の隙間から月の光が漏れ出ている。
真っ裸でいたことが俺の野性的な本能を呼び覚ました。
月の方へと手を伸ばす。
「真ん丸なお月様かあ」
月の表面にはウサギが住んでいるという。
あくまで噂の話だ。
月にいるウサギたちはどんな生活をしているんだろう。
独自の文明を築き、近未来的な文明の中で生きているのだろうか。
もし、そうだとしたら。
ウサギが住んでいる月という惑星は、ウサギという生物が頂点に君臨しているのだろうか。
だとすれば。
ウサギは大都会のような場所に住んでいるに違いない。
そうであれば。
車を走らせ、家族を作り、いとおかしげな様をしているのだろうか。
色んな妄想が頭の中をグルグルと駆け巡る。
それでも俺は、立ち上がったまま月を見上げていた。
「いつか。私も月に行ってみたい」
あれ? 何かがおかしい。
今のは俺の声じゃない。
そう。確か――。
考えに考え抜いた。だけど、何も浮かばなかった。
夜風にあてられ続けたせいなのか、俺の指先は死人のように冷たくなっていた。
「長風呂しすぎたな?」
まあ、長風呂といっても。
ほとんどの時間は棒立ちして月を見上げただけだが。
バカ……アホな自問自答を繰り返す。
その時。ポカーン、という音と共に風呂桶の落ちる音がした。
その音が、風呂桶が落ちたものだと理解できたのは、転がり続ける風呂桶が湯船に入ったのが見えたからだ。
恐る恐る、風呂桶が落ちただろう場所に目を向ける。
「「あ……」」
あ。という言葉だけが、露天風呂に響き渡った。
俺と成人男性は目が合った。
夜風が体にあたる感覚、足先から頭までが熱くなっていく感覚。顔が真っ赤になっていく感覚。などなど。
敵ではないだろう成人男性の視線が、俺の胸部へと移ったのが分かった。
時間だけが止まったような気がした。
俺と志恩を囲むようにできた空間だけが、常世から浮世へと変わった気がした。
右手を振り上げた俺は、浮世離れした能力の”幽体化”を使い、お湯に浮かんでいた風呂桶へと手を伸ばす。
ギリギリだったかは分からないが、股を隠すことはできた。
「志恩。お前、やっぱりシゲシゲと一緒だったんだな!」
「なんだよ柚子葉! シゲシゲと一緒って!」
「言い訳したって無駄だぞ! 俺は分かってるんだよ! 男はみんな”ボイン”が好きだってことをな!」
「十六歳の裸なんてみても興奮なんてしねえよ!」
「は? 今なんつった?」
「いや、だから……」
裸を見られた。
シゲシゲにも見せたことがないのに。
よりによって、志恩に裸を見られた。
いや、そういうことじゃない。
今はそんなことを考える時じゃない。
志恩はなんて言った?
俺の裸を見ても興奮しないって言ったよな?
それって、俺を女として見てないってこと?
それとも、俺の体が成人男性の心をくすぐるような体ではないこと?
否。そんなことはないはず。
引きこもり生活やや十年余り。
そのうちの数年は、保健室登校だったのだ。
だが、一般的な女子高生に比べても、さほどは変わらないはず。
まあ、同年代の女の子の裸を見たことがないから、確証はないが。
胸だって膨らんでるし、おしりも丸くなってる。
金髪が目立たないように、髪は短く切ってるけど。
それらの考慮すべき肉体を精査しても。
男性にとっては、魅力的な女子高生であるはずなのだ。
「なあ志恩」
「こ、こっちに近づくな!」
「待て志恩」
「だから、こっちに近づくなって言ってるだろ!」
ひざ下まで浸かっていた露天風呂のお湯をかき分ける。
片手で胸を隠し、風呂桶で股を隠して進み続ける。
何を思ったのか、志恩は露天風呂に飛び込みやがった。
「逃がすか!」
「マジで勘弁しろって!」
別に”今”は女として見られなくてもいい。
興奮だってしてもらわなくてもいい。
ただ。これだけは言える。
「俺は、俺はお前の妹じゃねえ!」
「クソっ垂れ。柚子葉のやろう、どこに行きやがったんだ」
「お前の後ろだ! 馬鹿垂れ!」
浮世離れした”幽体化”の能力を使用した俺は、志恩の背後から彼を抱きしめた。
「どうだ志恩! 女子高生の体だぞ! これでも興奮しないってのか!」
「柚子葉! お前――そんな力を」
「志恩がいない間に色々あったんだよ! 縁側で訊かせてもらえなかった話、全部ゲロってもらうからな!」
「分かった! だから、離れろっての!」
ひと悶着あったが、俺と志恩は露天風呂に浸かり続けた。
「なあ志恩。平安時代って、どんなところだ?」
「どんなところも何も。お前、いつまで”幽体化”してるつもりなんだよ」
俺は志恩に裸を見られぬよう、肩まで露天風呂に浸かっていた。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「いいから話を続けろよ」
「そんなに焦んなよ。まあ俺と葉月がいた平安時代はな。妖怪と人間が共存する時代だったんだよ」
妖怪と共存。そんな時代が日本にあったんだ。
それから志恩は、平安時代で過ごした十年間の出来事を聞かせてくれた。