13歩よりも近い距離
 クノイチの如く、のそりのそりと歩を進める。暗く静かな廊下には、岳の部屋からの灯りが僅かに漏れていた。

「岳」

 ノックをすれば、返事はあった。「はい」でも「うん」でも「なに」でもなくて、聞き逃してしまいそうな「ん」がひとつ。

「岳、入るよ」

 そう言って扉を開けた先、まず目に飛び込んできたのはいつもと違うベッドだった。岳はそれを手元のリモコンで操作して、背面をゆっくりと持ち上げる。

「あ、すずじゃん」

 知っている声、知っている笑顔。だけどこんな姿の彼は知らない。
 鎖骨が浮き上がっていた。頬は痩け、目の下が窪んでいた。半袖から覗く白い腕はそこら辺の女性よりも華奢で、肘が鋭く尖っていた。一目で分かってしまうのは、彼が健康体ではないということだ。
 私は崖にでも立たされた気分になった。

「岳、どうしたの……?」

 一歩一歩歩み寄り岳の側、ぺたんと尻が床に落ちる。

「な、なんかの真似ごと……?昔時々やってた、お医者さんごっこ……?」

 半笑いでそう聞いた。岳が患者役ならば、私は医者役だ。見えぬ聴診器を耳にあてる。

「じゃ、じゃあいくよ。あらあら岳ちゃん、今日はどうしたんですか?」

 (かく)ばった笑顔を貼り付けて、ごっこ遊びをし始めた私に、岳は何も言わなかった。

「あ、頭が痛いんですか?それともお腹ですか?お薬を出しておきましょうねえ……」

 サラサラと右手を動かして、カルテを書く仕草。

「はい、これで大丈夫ですからね……どうぞ、お大事に──」
「すず」

 岳の力ない細い手が、私の手首を緩く包む。彼の瞳の中に映る私は、笑っているのに、今にも泣いてしまいそうだった。

「すず、飴とって」
「あ、飴……?」
「すずが買ってきてくれたやつ。ソルトキャンディ」

 岳は顎でクイと学習机をさした。そこには開封された一袋と、未開封のままの飴が二袋置かれていた。
 おもむろに立ち上がり、そこから一粒取って岳に渡そうとすれば、彼はまた顎を動かした。

「そこに、トンカチあるだろ」
「トンカチ?」

 飴の横。小ぶりな槌。

「あるけど?」
「それで、その飴を砕いて欲しいんだ」
「え……」
「そのひとカケラをちょうだい」

 こんな小さな飴玉ひとつ舐めるのも、岳は困難になってしまったのだろうか。

「分かった……」

 どうして砕くの?だなんて聞けなかった。きっとその答えを知れば、絶望するって知っているから。

 包装の上から槌で二、三回飴玉を叩き、何個かに分断されたそれをティッシュに広げて岳の元へと運ぶと、彼はその中でも一番小さなものを選んでいた。
 ころんころん。そんな音はもうしない。
 崩れた飴玉を机に戻し、私はベッドの傍へ腰を下ろす。

「岳、どうして言ってくれなかったの……?」

 岳が学校に行かないなんて、おかしいとずっと思っていた。でもそれを、彼は私のせいにした。彼の『本当』を、教えてくれなかった。

「岳が病気だって知ってたら私……私もっとっ……」

 あなたに優しく接したのに。
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