今宵、仮初めを卒業したく。
時は明治三十年--。

和服の着流しに海老茶色の袴を身につけるときゅっと気持ちが引き締まる。女学校に向かうため朝の身支度を整えた奈津は「いってまいります」と告げると玄関を出た。だがすぐに父親に呼ばれ足を止めた。

「待ちなさい、奈津」

「はい?」

「今日は桐ヶ崎様がいらっしゃる。戻って着替えなさい」

「桐ヶ崎様?」

聞いたことのない名前に奈津は首を傾げた。

「お前の結婚相手だ」

そう告げられたとたん、奈津はカッと頭に血が上った。

「お父様、何度も言っていますが私はまだ結婚するつもりはありません」

「ふざけるな。女学生のうちに結婚するのが女の幸せだろう。今までも何度か見合い話をいただいたのに断りよって」

「私は結婚よりも勉学に励みたいのです。卒業後は師範学校に行くつもりです。だからお断りを」

「お前、世間から老嬢と呼ばれてもいいのか」

「言いたい者には言わせておけばよいのです」

大学教授の娘に生まれた奈津は、小さい頃から勉強が好きだった。女は家庭での役割を求められ学問は不要だと言われていた時代。それが文明開化によって徐々に女子の教育が広まってきた。だが平田家にとってはまだまだその考えは浸透していない。現に母親は父親の言いなりであり、今も半歩後ろで意見もせず頷いている。

「お見合いの話など持ってこないでください」

ピシャリと言い放つ奈津だったが、次に父親の口から出た言葉は衝撃の一言だった。

「今回はお見合いではない。結婚だ」

「ですから……え、結婚?」

「そうだ。もう決まった話なのだ」

「……は?」

いまいち話が噛み合わず奈津は目をぱちくりさせる。

「え、嫌です。お断りします」

「断ることは許されん。これは平田家と桐ヶ崎家で決まった話なのだ。お前の意見など聞かん」

強引に話を進める父親に、奈津はギリっと奥歯を噛んだ。自由恋愛などあってないようなもの。大抵は親が持ってきた縁談を受けて結婚し、それに伴って女学校を辞めていく者ばかりだ。そうして売れ残った女子のことを世間では老嬢と呼んでいることを当然奈津も知っている。

「ふざけないでください」

「ふざけているのはどっちだ」

父親の怒号と共に手が振り上げられ、反射的に目を閉じた。
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