住めば都の最下層 ~彩花荘の人々~
8、秀男さんの絶望
先日の温泉デビューもあり、私も少しずつ裏御神楽町の町の地理を覚えてきた。
あと行ったことがないのは運動公園だけど、これも機会をみて行ってみたいなと思っている。そんな私は今頭を抱えていた。
というのも、新しく白菜の塩もみも作ったのだが、これでは塩分だらけである。
「とりあえず、一度に食べる量に気を付けて貰って……秀男さんとくに注意しないと」
とはいえほかに何もない彩花荘では、漬物や浅漬け、ごま油のあえ物のようなものしか作り用がない。なんとも苦しい台所事情だ。
「こんなに滞在するなら、最初に思い切ってフライパンくらい買っておけばよかったなぁ」
小さな手間と出費を惜しんで大きな健康を損なっては意味がない。
私は本格的にフライパンの導入を検討していると、廊下を秀男さんが通りかかった。
「おう、響子。今日の夜飲みに行けるか?」
「今日? 午後の一時から八時までは都子さんのところでバイトするから、その後なら行けなくもないですけど……珍しいですね」
「いやぁ、なんなとくちょっとな。蓮人、お前も居酒屋どうだ?」
ドアをノックして、秀男さんにしては静かな声で呼びかける。蓮人くんは部屋から出てくることもなく「ネトゲ」と短く返事をした。
「たまには……いや、いい、そうか。じゃあ響子。八時過ぎに居酒屋だな。よろしく」
「はーい、じゃあ私は支度してバイト行ってきますね!」
秀男さんも外で飲みたくなるときがあるのかな? なんて思いながらバイトへ向かう。
バイトはいつも通り平和に終わり、都子さんが気を利かせてくれた日給制のお給料を受け取って無事終了。
彩花荘に戻ると、台所のテーブルで冷やした水を飲みながら秀男さんが待っていた。
「おう、響子お疲れ! お帰り」
「秀男さん、お待たせしました。ちょっと荷物置いてくるんで待っててくださいね!」
なんだかんだで滅多にない外食で気分があがる。
着替えていこうか悩んだけれど、秀男さんがそんなに気取ったお店に入るイメージもない。このままで良いか、と部屋を出る。
再び台所に戻ると、秀男さんが腰をあげた。秀男さんはえんじ色のシャツにグレーの短パン。気楽な服装である。
「おっし、いくか。蓮人ー! 行ってくるからなー!」
「蓮人くーん! いってきまーす!」
蓮人くんの部屋から「はーい」とも「あーい」ともつかない生返事を背に受け、私たちは夜の裏御神楽町に繰り出した。
夜に町を出歩くのはせいぜいお祭りをしている中央公園、あとはバイト先の往復の道くらいだ。秀男さんの案内を受けながら、楽しい気持ちで夜道を歩く。
中央公園を東口から入って、お祭りの型付けを始めている公園を抜けて南口から出た。こっちのほうは温泉もあった通りだ。住宅街が多い裏御神楽町のなかでは、お店屋さんが並ぶ通りなのかもしれない。
公園から少し歩いて、秀男さんが足を止めた。
「ここだ」
秀男さんが指し示した場所には『定食屋 転々』と看板が置かれていた。
「ここって……定食屋さんで飲むんですか?」
「なぁに、昼間は定食屋だが、夜は定食屋兼居酒屋だ。結構皆飲んでる。入るぞ」
秀男さんが慣れたように店の戸をくぐる。私もそれに続いた。
「あらぁ秀男ちゃん、いらっしゃい。なぁに今日は若い女の子連れちゃって、デート?」
「デートじゃないよおばちゃん! この子、彩花荘にいっしょに住んでる子だから」
「どうも、三島響子です! 今月から彩花荘に住み始めました!」
「あらご丁寧にありがとう。秀男ちゃんにはよく来てもらってるのよ。昔は食器洗いのバイトとかしてもらったりねぇ」
「おばちゃん、昔の話は良いから!」
照れたように言った秀男さんと私を、おばさんが店内のテーブル席に案内した。
確かに、そこかしこで飲んでいるのか楽しそうな話声が聞こえる。
「オレはビール。お前は?」
「えっと、この夏みかんサワーノンアルコールを」
「はいはい、ちょっと待っててねぇ」
おばさんが注文を取って去っていくと、秀男さんがメニューを指していった。
「夜はつまみメニューも豊富だ。好きなの頼めよ、今日はおごりだ」
「えっ、秀男さんのおごり!? い、いいんですか?」
大家さんに家賃を催促されるような秀男さんがおごりとは、どういう風の吹き回しだろう。
「たまには大人に任せとけってんだ。ほれ、焼き鳥もあるぞ、食え食え。タレか、それとも塩か?」
「うーん、じゃあお言葉に甘えて……焼き鳥はタレがいいな。あとは秀男さんにおつまみはおまかせで。私、好き嫌いほとんどないので!」
「そりゃあ結構なことだ。お、来たな」
メニューを見ていた私たちのテーブルの脇に、ジョッキと大きめのグラスが置かれた。
「はい、ビールと夏みかんサワーノンアルね、お待たせ」
「おばちゃん、つまみ良いかな?」
「いいわよ、どんどん注文してちょうだい!」
結局秀男さんは焼き鳥のほかに冷ややっこ、枝豆、ゲソの唐揚げ、フライドポテトなどを頼んだ。フライドポテトかぁ、揚げたて熱々のポテトは私の好物のひとつ。ジャンクフードも久しぶりだなぁ、楽しみ!
「それじゃあ、今日は蓮人が欠席だけど……彩花荘に、かんぱい!」
「はーい! 彩花荘にかんぱーい!」
私と秀男さんは軽くジョッキとグラスを重ね合って、グイっと飲み物を口に運んだ。
夏みかんサワーノンアルコールはみかんの果汁がたっぷり、粒も浮かんでいるからしぼりたてだろう。甘みと酸味が美味しくって、いくらでも飲めちゃいそう。
秀男さんも一息でジョッキの半分近くを飲んで「ぷはぁ!」と息を吐いた。
「どうだ響子。ここでの暮らしには慣れたか?」
「うん。秀男さんや蓮人くん、それに都子さんや灯里さんがとっても親切にしてくれたから、馴染めてます。今私しあわせ!」
「しあわせか、そいつはいいこった」
しみじみと言う秀男さんに、私は問う。
「秀男さんは? 秀男さんは今の生活はしあわせじゃないんですか?」
「どうなんだろうなぁ、悠々自適に自由に過ごしているんだ。しあわせって言わないとバチが当たるかもな」
「そういえば、蓮人くんは普段はネットゲームをやっているみたいですけど、秀男さんは部屋で何してらっしゃるんですか?」
「んー、ゴロゴロしたり本読んだり、またゴロゴロしたり……まぁ、祭りのお囃子聞いてぼうっとしてることも多いかなぁ」
「あ、それはなんだかわかります。お囃子聞いていると、なんだかこれって言うのも考えるワケじゃないんだけど、ぼーっと物思いにふけっちゃいますよね」
毎日開かれているとはいっても、やっぱりどこかお祭りの音と雰囲気は幻想的だ。
私もよく部屋で音を聞いてはぼんやりと今までのことを考えたりしていた。
秀男さんはジョッキを飲み干し「おばちゃん、生ひとつ追加!」と声を張っている。
「秀男さん、ペースはやくないですか? だいじょうぶ?」
「いいんだよ、どうせ今日は酔うつもりで来てるんだ」
「あれ、そうだったんですか。でもたしかに、そうじゃなきゃわざわざ飲みに来ないか」
「っていうかアレだ、ホレ、アレ!」
秀男さんは運ばれてきた新しいジョッキに口をつけたあと、言いにくそうに告げた。
「その、もういっしょに住んで長いだろ。お前がここに来た理由をたずねてみても良いかって聞こうと思ってな」
「秀男さん、そんなことわざわざ酔っぱらわないでも聞いてくれたらいいのに」
裏御神楽町に来たという事は、何か絶望を抱えていたということだ。繊細な話題になると思ったのだろう。秀男さんが少しでもその雰囲気をやわらかくしようと今日の飲み会をセッティングしてくれたのか。
秀男さんの不器用だけど優しい心配りに、胸があたたかくなる。
「その、お前はここに来た時顔に傷がついてたよな? それが原因か?」
秀男さんが照れながら枝豆をつまむ。私もポテトをつまんで食べた。
「はい、そうですね。それが原因といえば原因です」
そうして私は、先日都子さんに話したようにお父さんの置かれた状況と暴力の話をした。
秀男さんは、目に涙をたたえて話を聞いてくれていた。
「そうか、そんなことがなぁ……」
「でも、不思議です。秀男さんがこうやって飲みに誘ってくれたから、辛かった話なのに、私今お酒を飲んで、ポテトや焼き鳥を食べながら話すことが出来てます」
「アルコールは気持ちを和らげてくれるし、この店は雰囲気も良いからな。だけど、そりゃあ辛い、お前がここに来た理由がわかる気がするよ」
いつの間にか、お酒の席で話せるまでになっている出来事。
時が解決してくれたのか、この町とひとびとが重荷をそっとどけてくれたのか。
私は自分の変わりように内心驚いていた。
だけど、私にはまだ言えないでいることがある。心の色が見えること。
都子さんには伏せた話だけど――いっしょに暮らす秀男さんには話した方がいいのかもしれない。
「実は……もう一個、あるんです」
「もう一個? お前が何か抱えていることが、もうひとつあるってのか?」
私が姿勢を伸ばして息を大きく吸うと、秀男さんも居ずまいを正した。
「私、ひとの心の色が見えるんです」
「心の色が、見える?」
「はい……。それで小さなころからいろいろ見えちゃって、考えることや悩むことも多くて、いろんな感情が混ざってて……お父さんの暴力は、私の絶望が爆発するスイッチだったんじゃないかなって……」
「つまり、爆発する前からその燃料になっちまうような思いが積っていたってことか」
「たぶん……」
そう、きっとそうなんだ。自分でも自信はないけれど――。
ひとの心の色が見えることでどれだけ自分が委縮して世の中を生きてきたか……。
目の前のひとのウソが丸見えで、心にもないことを言っているのがバレバレで、だけどこんな思い誰にも言えなくて……。ずっと、私の中で心に澱のように溜まったていた想い。
心の色が見えることがどんなに自分を追い込んでいくか、私はポツリポツリと秀男さんに語るのであった。
「ひとの、心の色が見える……ウソも愛想笑いも全部筒抜けの世界か。そりゃあ……絶望して当たり前だぁな」
秀男さんがやりきれない、と言った感じで大きく息を吐いた。
そして私の顔をじっと見て、真っ直ぐな目でたずねてくる。
「オレは、どうだ? オレの心の色はどうなってる? お前を傷つけていないか響子?」
「秀男さんの心の色は、快晴の青空のような青ですよ。このひとなら信用できるって思って、私がこのことを初めて話したくらいですもん。純粋ですてき。でも、真ん中のほうに、とっても悲しい色を抱えてるんです」
悲しい色か、秀男さんが苦笑してジョッキをあおった。「飲め、響子」静かな声で促されて、私もしゃべってすっかり乾いた喉にサワーを流し込む。
「オレが、そしてきっと蓮人も、お前の見える色の中で傷つけるものがなかったんだな。だから、お前は彩花荘に住むようになったんだな」
「うん、今の楽しいときがあるのは、秀男さんたちのおかげです」
「そうか、良かった。うん、良かった」
何度も言い聞かせるようにして、また秀男さんがジョッキを傾ける。
冷め始めたポテトを口に運び、だけど私は少しだけスッキリしていた。
今まで誰にも言えなかったことを、ようやく言えたことに。言えるひとに、巡り会えたことに。
「秀男さん、私の心にわだかまっていたこと、聞いてくださってありがとうございました」
「そんなお礼を言われるような、大げさなことしていない。お前こそ、よく話してくれたな。ありがとうよ、辛かっただろうに。ほら、料理もさめちますぞ、食え食え!」
ふたりで黙々とおつまみを平らげる。その箸の動きも鈍くなってきたころを見計らって、私は秀男さんに聞いた。
「秀男さんは、どうしてこの町にたどり着いたんですか?」
「オレか、オレはなぁ……説明しずらいなぁ……」
秀男さんが一度ボサボサ髪をかいて、続けた。
「オレはさ、見ての通りの風来坊でダメ男だ、結婚したり、家族を持つべき人間じゃない。それはだいぶ若いころから思っていたことでよ」
「確かに秀男さんは自由なひとだとは思うけど、そんな思い詰めなくても……」
「いやまぁ、オレが勝手に思ったことさ。でもな、自分はひとりなんだって思ったときに社会を見てみると、なんだかいろんなものが見えてきたんだ」
秀男さんの心の悲しい紺色が、さぁっと胸の中に広がっていく。
「毎日インターネットに自分の孤独を呟くやつ、誰かの声を求める人間、クスリを使うことでしか自分の存在意義を見つけられないはみ出し者、血反吐を吐く思いで働いて内臓を壊しながらろうそくの残り火のように燃えているやつ……」
秀男さんの指が、こつんとテーブルを叩いた。
「国は、誰も救わない。それは政府がどうのって問題じゃなくって、社会からはみ出してしまっているからだ。世の中は大多数を救うために、少数を犠牲にして成り立っているんだ。そして、そんな奴らはオレが思った以上に数え切れないほどいて、オレはそいつらに手を差し伸べることさえ出来ない。テレビじゃ毎日悲しいニュースが流れ残酷な世界の『結果』だけを報道する。誰もその過程にあるひとたちを見ようとしない」
秀男さんが、今まで見た事もないような真剣な顔で語る。
「そんな社会全体に、オレは絶望したんだ。同時に、そんな社会の中でなんにも出来ない自分にもな」
「それで秀男さんは、ここに来たの?」
「そうだ。何もかも嫌になったオレは、旅をした。小さな集落でも村でもなんでも良かった。絵にかいたような平和で幸せな場所を探して、日本中旅をした。そうしてある時、提灯の輝く、祭りで彩られた町についたんだ」
秀男さんは、この世の中すべてに絶望していたのか。空のように輝く青色は、きっと秀男さんが求める理想の世界の色なんだ。だけど純粋過ぎるその光はどこにもなくて――。
それで、この裏御神楽町に流れてきたのか。ここが、秀男さんの旅の終着点だった……。
「とにかくだ、そんなこんなで流れてきたってことさ! でもって今のオレはただの日雇いのプーってことさ! これでいいんだ。これでいい、これでいいんだよ」
秀男さんがおどけて、だけど寂しそうに笑う。
「少しだけ、オレはお前が心配なんだ。ここはな、オレが思うにひとつのゴールなんだよ。悲しい思いを抱いた人間がたどり着く、ゴールだ。それはそれでいい。だけど、ゴールの先には何もありゃしねぇのさ。そう思うと、お前はまだ……いや、なんでもない」
「この町は、ゴールで……その先には何もない? でも、こんなに楽しい日々があるのに?」
「そうだな、でもそれだけだ。楽しい日々があるだけだ。言うなれば毎日が日曜日なんだ、どこか歪んだ世界なんだよ」
お祭りの絶えない町。それは毎日が日曜日の世界。
わかるような、私にはまだ難しいような――。
沈黙してしまった私に、秀男さんが大きな声で笑って言った。
「でもな、ここで飲むビールはうまいし、ここのつまみは最高だ! ほれ、食い物も飲み物もオカワリするぞ! 話したいことは話した。聞きたいことは聞いた。それだけで今日は充分だ、飲め響子!」
「私、十八歳になったばっかりだからまだ飲めないですよ!」
「いざとなったらおんぶして帰ってやるよ! 我らが彩花荘にかんぱいだ、がっはっは!」
すっかりいつもの調子に戻っていく秀男さん。
「オレたちは生まれも育ちも世代も全部、かすっちゃいねぇ! それでも同じ酒を飲んで、一緒に笑うことは出来る! それで十分じゃねーか」
「ありがとう、秀男さん。私いろいろ迷っているけれど、本当に話せて良かったです」
「迷うことの何が悪い? 迷えるだけの選択肢があることを、喜べよ!」
ありがとう、秀男さん。心の奥にあった悲しい紺色の欠片を、私に見せてくれたんだね。
話を聞いてもらえた。そして聞くことが出来た。私もそれで充分だって思う。迷えるだけのことがあることを、素直に喜ぶことにする。
「夏みかんサワーノンアルコール、オカワリお願いします!」
私は元気よく、おばちゃんにオカワリの注文をした。
私はこの日初めて、思いっきり酔うという体験をしたのであった。
先日の温泉デビューもあり、私も少しずつ裏御神楽町の町の地理を覚えてきた。
あと行ったことがないのは運動公園だけど、これも機会をみて行ってみたいなと思っている。そんな私は今頭を抱えていた。
というのも、新しく白菜の塩もみも作ったのだが、これでは塩分だらけである。
「とりあえず、一度に食べる量に気を付けて貰って……秀男さんとくに注意しないと」
とはいえほかに何もない彩花荘では、漬物や浅漬け、ごま油のあえ物のようなものしか作り用がない。なんとも苦しい台所事情だ。
「こんなに滞在するなら、最初に思い切ってフライパンくらい買っておけばよかったなぁ」
小さな手間と出費を惜しんで大きな健康を損なっては意味がない。
私は本格的にフライパンの導入を検討していると、廊下を秀男さんが通りかかった。
「おう、響子。今日の夜飲みに行けるか?」
「今日? 午後の一時から八時までは都子さんのところでバイトするから、その後なら行けなくもないですけど……珍しいですね」
「いやぁ、なんなとくちょっとな。蓮人、お前も居酒屋どうだ?」
ドアをノックして、秀男さんにしては静かな声で呼びかける。蓮人くんは部屋から出てくることもなく「ネトゲ」と短く返事をした。
「たまには……いや、いい、そうか。じゃあ響子。八時過ぎに居酒屋だな。よろしく」
「はーい、じゃあ私は支度してバイト行ってきますね!」
秀男さんも外で飲みたくなるときがあるのかな? なんて思いながらバイトへ向かう。
バイトはいつも通り平和に終わり、都子さんが気を利かせてくれた日給制のお給料を受け取って無事終了。
彩花荘に戻ると、台所のテーブルで冷やした水を飲みながら秀男さんが待っていた。
「おう、響子お疲れ! お帰り」
「秀男さん、お待たせしました。ちょっと荷物置いてくるんで待っててくださいね!」
なんだかんだで滅多にない外食で気分があがる。
着替えていこうか悩んだけれど、秀男さんがそんなに気取ったお店に入るイメージもない。このままで良いか、と部屋を出る。
再び台所に戻ると、秀男さんが腰をあげた。秀男さんはえんじ色のシャツにグレーの短パン。気楽な服装である。
「おっし、いくか。蓮人ー! 行ってくるからなー!」
「蓮人くーん! いってきまーす!」
蓮人くんの部屋から「はーい」とも「あーい」ともつかない生返事を背に受け、私たちは夜の裏御神楽町に繰り出した。
夜に町を出歩くのはせいぜいお祭りをしている中央公園、あとはバイト先の往復の道くらいだ。秀男さんの案内を受けながら、楽しい気持ちで夜道を歩く。
中央公園を東口から入って、お祭りの型付けを始めている公園を抜けて南口から出た。こっちのほうは温泉もあった通りだ。住宅街が多い裏御神楽町のなかでは、お店屋さんが並ぶ通りなのかもしれない。
公園から少し歩いて、秀男さんが足を止めた。
「ここだ」
秀男さんが指し示した場所には『定食屋 転々』と看板が置かれていた。
「ここって……定食屋さんで飲むんですか?」
「なぁに、昼間は定食屋だが、夜は定食屋兼居酒屋だ。結構皆飲んでる。入るぞ」
秀男さんが慣れたように店の戸をくぐる。私もそれに続いた。
「あらぁ秀男ちゃん、いらっしゃい。なぁに今日は若い女の子連れちゃって、デート?」
「デートじゃないよおばちゃん! この子、彩花荘にいっしょに住んでる子だから」
「どうも、三島響子です! 今月から彩花荘に住み始めました!」
「あらご丁寧にありがとう。秀男ちゃんにはよく来てもらってるのよ。昔は食器洗いのバイトとかしてもらったりねぇ」
「おばちゃん、昔の話は良いから!」
照れたように言った秀男さんと私を、おばさんが店内のテーブル席に案内した。
確かに、そこかしこで飲んでいるのか楽しそうな話声が聞こえる。
「オレはビール。お前は?」
「えっと、この夏みかんサワーノンアルコールを」
「はいはい、ちょっと待っててねぇ」
おばさんが注文を取って去っていくと、秀男さんがメニューを指していった。
「夜はつまみメニューも豊富だ。好きなの頼めよ、今日はおごりだ」
「えっ、秀男さんのおごり!? い、いいんですか?」
大家さんに家賃を催促されるような秀男さんがおごりとは、どういう風の吹き回しだろう。
「たまには大人に任せとけってんだ。ほれ、焼き鳥もあるぞ、食え食え。タレか、それとも塩か?」
「うーん、じゃあお言葉に甘えて……焼き鳥はタレがいいな。あとは秀男さんにおつまみはおまかせで。私、好き嫌いほとんどないので!」
「そりゃあ結構なことだ。お、来たな」
メニューを見ていた私たちのテーブルの脇に、ジョッキと大きめのグラスが置かれた。
「はい、ビールと夏みかんサワーノンアルね、お待たせ」
「おばちゃん、つまみ良いかな?」
「いいわよ、どんどん注文してちょうだい!」
結局秀男さんは焼き鳥のほかに冷ややっこ、枝豆、ゲソの唐揚げ、フライドポテトなどを頼んだ。フライドポテトかぁ、揚げたて熱々のポテトは私の好物のひとつ。ジャンクフードも久しぶりだなぁ、楽しみ!
「それじゃあ、今日は蓮人が欠席だけど……彩花荘に、かんぱい!」
「はーい! 彩花荘にかんぱーい!」
私と秀男さんは軽くジョッキとグラスを重ね合って、グイっと飲み物を口に運んだ。
夏みかんサワーノンアルコールはみかんの果汁がたっぷり、粒も浮かんでいるからしぼりたてだろう。甘みと酸味が美味しくって、いくらでも飲めちゃいそう。
秀男さんも一息でジョッキの半分近くを飲んで「ぷはぁ!」と息を吐いた。
「どうだ響子。ここでの暮らしには慣れたか?」
「うん。秀男さんや蓮人くん、それに都子さんや灯里さんがとっても親切にしてくれたから、馴染めてます。今私しあわせ!」
「しあわせか、そいつはいいこった」
しみじみと言う秀男さんに、私は問う。
「秀男さんは? 秀男さんは今の生活はしあわせじゃないんですか?」
「どうなんだろうなぁ、悠々自適に自由に過ごしているんだ。しあわせって言わないとバチが当たるかもな」
「そういえば、蓮人くんは普段はネットゲームをやっているみたいですけど、秀男さんは部屋で何してらっしゃるんですか?」
「んー、ゴロゴロしたり本読んだり、またゴロゴロしたり……まぁ、祭りのお囃子聞いてぼうっとしてることも多いかなぁ」
「あ、それはなんだかわかります。お囃子聞いていると、なんだかこれって言うのも考えるワケじゃないんだけど、ぼーっと物思いにふけっちゃいますよね」
毎日開かれているとはいっても、やっぱりどこかお祭りの音と雰囲気は幻想的だ。
私もよく部屋で音を聞いてはぼんやりと今までのことを考えたりしていた。
秀男さんはジョッキを飲み干し「おばちゃん、生ひとつ追加!」と声を張っている。
「秀男さん、ペースはやくないですか? だいじょうぶ?」
「いいんだよ、どうせ今日は酔うつもりで来てるんだ」
「あれ、そうだったんですか。でもたしかに、そうじゃなきゃわざわざ飲みに来ないか」
「っていうかアレだ、ホレ、アレ!」
秀男さんは運ばれてきた新しいジョッキに口をつけたあと、言いにくそうに告げた。
「その、もういっしょに住んで長いだろ。お前がここに来た理由をたずねてみても良いかって聞こうと思ってな」
「秀男さん、そんなことわざわざ酔っぱらわないでも聞いてくれたらいいのに」
裏御神楽町に来たという事は、何か絶望を抱えていたということだ。繊細な話題になると思ったのだろう。秀男さんが少しでもその雰囲気をやわらかくしようと今日の飲み会をセッティングしてくれたのか。
秀男さんの不器用だけど優しい心配りに、胸があたたかくなる。
「その、お前はここに来た時顔に傷がついてたよな? それが原因か?」
秀男さんが照れながら枝豆をつまむ。私もポテトをつまんで食べた。
「はい、そうですね。それが原因といえば原因です」
そうして私は、先日都子さんに話したようにお父さんの置かれた状況と暴力の話をした。
秀男さんは、目に涙をたたえて話を聞いてくれていた。
「そうか、そんなことがなぁ……」
「でも、不思議です。秀男さんがこうやって飲みに誘ってくれたから、辛かった話なのに、私今お酒を飲んで、ポテトや焼き鳥を食べながら話すことが出来てます」
「アルコールは気持ちを和らげてくれるし、この店は雰囲気も良いからな。だけど、そりゃあ辛い、お前がここに来た理由がわかる気がするよ」
いつの間にか、お酒の席で話せるまでになっている出来事。
時が解決してくれたのか、この町とひとびとが重荷をそっとどけてくれたのか。
私は自分の変わりように内心驚いていた。
だけど、私にはまだ言えないでいることがある。心の色が見えること。
都子さんには伏せた話だけど――いっしょに暮らす秀男さんには話した方がいいのかもしれない。
「実は……もう一個、あるんです」
「もう一個? お前が何か抱えていることが、もうひとつあるってのか?」
私が姿勢を伸ばして息を大きく吸うと、秀男さんも居ずまいを正した。
「私、ひとの心の色が見えるんです」
「心の色が、見える?」
「はい……。それで小さなころからいろいろ見えちゃって、考えることや悩むことも多くて、いろんな感情が混ざってて……お父さんの暴力は、私の絶望が爆発するスイッチだったんじゃないかなって……」
「つまり、爆発する前からその燃料になっちまうような思いが積っていたってことか」
「たぶん……」
そう、きっとそうなんだ。自分でも自信はないけれど――。
ひとの心の色が見えることでどれだけ自分が委縮して世の中を生きてきたか……。
目の前のひとのウソが丸見えで、心にもないことを言っているのがバレバレで、だけどこんな思い誰にも言えなくて……。ずっと、私の中で心に澱のように溜まったていた想い。
心の色が見えることがどんなに自分を追い込んでいくか、私はポツリポツリと秀男さんに語るのであった。
「ひとの、心の色が見える……ウソも愛想笑いも全部筒抜けの世界か。そりゃあ……絶望して当たり前だぁな」
秀男さんがやりきれない、と言った感じで大きく息を吐いた。
そして私の顔をじっと見て、真っ直ぐな目でたずねてくる。
「オレは、どうだ? オレの心の色はどうなってる? お前を傷つけていないか響子?」
「秀男さんの心の色は、快晴の青空のような青ですよ。このひとなら信用できるって思って、私がこのことを初めて話したくらいですもん。純粋ですてき。でも、真ん中のほうに、とっても悲しい色を抱えてるんです」
悲しい色か、秀男さんが苦笑してジョッキをあおった。「飲め、響子」静かな声で促されて、私もしゃべってすっかり乾いた喉にサワーを流し込む。
「オレが、そしてきっと蓮人も、お前の見える色の中で傷つけるものがなかったんだな。だから、お前は彩花荘に住むようになったんだな」
「うん、今の楽しいときがあるのは、秀男さんたちのおかげです」
「そうか、良かった。うん、良かった」
何度も言い聞かせるようにして、また秀男さんがジョッキを傾ける。
冷め始めたポテトを口に運び、だけど私は少しだけスッキリしていた。
今まで誰にも言えなかったことを、ようやく言えたことに。言えるひとに、巡り会えたことに。
「秀男さん、私の心にわだかまっていたこと、聞いてくださってありがとうございました」
「そんなお礼を言われるような、大げさなことしていない。お前こそ、よく話してくれたな。ありがとうよ、辛かっただろうに。ほら、料理もさめちますぞ、食え食え!」
ふたりで黙々とおつまみを平らげる。その箸の動きも鈍くなってきたころを見計らって、私は秀男さんに聞いた。
「秀男さんは、どうしてこの町にたどり着いたんですか?」
「オレか、オレはなぁ……説明しずらいなぁ……」
秀男さんが一度ボサボサ髪をかいて、続けた。
「オレはさ、見ての通りの風来坊でダメ男だ、結婚したり、家族を持つべき人間じゃない。それはだいぶ若いころから思っていたことでよ」
「確かに秀男さんは自由なひとだとは思うけど、そんな思い詰めなくても……」
「いやまぁ、オレが勝手に思ったことさ。でもな、自分はひとりなんだって思ったときに社会を見てみると、なんだかいろんなものが見えてきたんだ」
秀男さんの心の悲しい紺色が、さぁっと胸の中に広がっていく。
「毎日インターネットに自分の孤独を呟くやつ、誰かの声を求める人間、クスリを使うことでしか自分の存在意義を見つけられないはみ出し者、血反吐を吐く思いで働いて内臓を壊しながらろうそくの残り火のように燃えているやつ……」
秀男さんの指が、こつんとテーブルを叩いた。
「国は、誰も救わない。それは政府がどうのって問題じゃなくって、社会からはみ出してしまっているからだ。世の中は大多数を救うために、少数を犠牲にして成り立っているんだ。そして、そんな奴らはオレが思った以上に数え切れないほどいて、オレはそいつらに手を差し伸べることさえ出来ない。テレビじゃ毎日悲しいニュースが流れ残酷な世界の『結果』だけを報道する。誰もその過程にあるひとたちを見ようとしない」
秀男さんが、今まで見た事もないような真剣な顔で語る。
「そんな社会全体に、オレは絶望したんだ。同時に、そんな社会の中でなんにも出来ない自分にもな」
「それで秀男さんは、ここに来たの?」
「そうだ。何もかも嫌になったオレは、旅をした。小さな集落でも村でもなんでも良かった。絵にかいたような平和で幸せな場所を探して、日本中旅をした。そうしてある時、提灯の輝く、祭りで彩られた町についたんだ」
秀男さんは、この世の中すべてに絶望していたのか。空のように輝く青色は、きっと秀男さんが求める理想の世界の色なんだ。だけど純粋過ぎるその光はどこにもなくて――。
それで、この裏御神楽町に流れてきたのか。ここが、秀男さんの旅の終着点だった……。
「とにかくだ、そんなこんなで流れてきたってことさ! でもって今のオレはただの日雇いのプーってことさ! これでいいんだ。これでいい、これでいいんだよ」
秀男さんがおどけて、だけど寂しそうに笑う。
「少しだけ、オレはお前が心配なんだ。ここはな、オレが思うにひとつのゴールなんだよ。悲しい思いを抱いた人間がたどり着く、ゴールだ。それはそれでいい。だけど、ゴールの先には何もありゃしねぇのさ。そう思うと、お前はまだ……いや、なんでもない」
「この町は、ゴールで……その先には何もない? でも、こんなに楽しい日々があるのに?」
「そうだな、でもそれだけだ。楽しい日々があるだけだ。言うなれば毎日が日曜日なんだ、どこか歪んだ世界なんだよ」
お祭りの絶えない町。それは毎日が日曜日の世界。
わかるような、私にはまだ難しいような――。
沈黙してしまった私に、秀男さんが大きな声で笑って言った。
「でもな、ここで飲むビールはうまいし、ここのつまみは最高だ! ほれ、食い物も飲み物もオカワリするぞ! 話したいことは話した。聞きたいことは聞いた。それだけで今日は充分だ、飲め響子!」
「私、十八歳になったばっかりだからまだ飲めないですよ!」
「いざとなったらおんぶして帰ってやるよ! 我らが彩花荘にかんぱいだ、がっはっは!」
すっかりいつもの調子に戻っていく秀男さん。
「オレたちは生まれも育ちも世代も全部、かすっちゃいねぇ! それでも同じ酒を飲んで、一緒に笑うことは出来る! それで十分じゃねーか」
「ありがとう、秀男さん。私いろいろ迷っているけれど、本当に話せて良かったです」
「迷うことの何が悪い? 迷えるだけの選択肢があることを、喜べよ!」
ありがとう、秀男さん。心の奥にあった悲しい紺色の欠片を、私に見せてくれたんだね。
話を聞いてもらえた。そして聞くことが出来た。私もそれで充分だって思う。迷えるだけのことがあることを、素直に喜ぶことにする。
「夏みかんサワーノンアルコール、オカワリお願いします!」
私は元気よく、おばちゃんにオカワリの注文をした。
私はこの日初めて、思いっきり酔うという体験をしたのであった。