聖女の身代わりとして皇帝に嫁ぐことになりました
 ※※※


 さて、クリスティーナの部屋で司祭たちが万能薬に沸いていたころ。



(変な女だ)



 皇帝マクシミリアンは難しい顔で、朝食後の腹ごなしに庭を散歩していた。

 変な女。そして、失礼な女。



 口をへの字に曲げるマクシミリアンの左右には、クリスティーナが植えた野菜たちが元気いっぱいに緑色の葉を茂らせている。

 どこもかしこも野菜だらけ。使用人が竹かごを持ってトマトやらキュウリやらパプリカやらを収穫しているのを見て、いつからこいつらは農家になったんだろうかと呆れてしまう。

 しかも、クリスティーナの命令で嫌々している様子はなく、誰も彼もがとても楽しそうな様子が不可解だった。



 ソヴェルト帝国において聖女とは「傲慢」の代名詞のような存在だ。

 マクシミリアンは特に聖女を毛嫌いしているけれど、マクシミリアンでなくとも聖女にいい感情を抱いていない人間は多い。

 今は亡き先々帝――祖父の妃、聖女セラフィーナの暮らしている離宮で働く人間はいつも死んだような目をしているというし、精神を病んで職を辞す人間も後を絶たない。

 古城で働くことが決まった人間たちも、セラフィーナの離宮で働いている使用人のことを知っているからか、聖女に対して歓迎ムードではなかったはずである。

 それなのに、どうしてこんなに楽しそうなのだろう。



「おはようございます、陛下」



 マクシミリアンが畑と畑の間に作られた小道を歩いていると、野菜の収穫をしている人間が手を止めて頭を下げる。



「お前たちも本来しなくていい仕事までやらされて大変だな」



 顔に出していないだけで内心では思うところもあるだろうと思って訊ねると、彼らは目を丸くして首を横に振った。



「まさか、とても楽しいですよ」

「とれたての野菜は美味しいですし」

「なによりクリスティーナ様が喜びますからね」



 クリスティーナが喜ぶことの何が嬉しいのか、マクシミリアンには理解できない。だが、少なくとも彼らが聖女クリスティーナに悪い感情を抱いていないということだけはわかった。



(なぜだ?)



 解せないなと思いながら庭を一周し、城の横の小屋へ向かう。そちらに足が向いたのは、使っていなかったはずの薄汚れていたはずの小屋が妙に小ぎれいになっていたからだ。

 ちょうど小屋の前に差しかかったところで、中から四十代だろうと思われる一人の女が出てきた。その手には、青々とした葉がこんもりと乗った籠がある。



「何をしているんだ?」



 葉っぱなんて持ち歩いてどうするんだと思って訊ねると、女は足を止めて頭を下げた。



「おはようございます陛下。これは、蚕の餌の桑を入れ替えているです」

「蚕? 餌?」



 聞けば、この小屋の中で蚕を育てているらしい。まだなぜそのようなことをしているのかと訊ねれば、クリスティーナが蚕を育てて絹を作ると言い出したという。



(また聖女か! あの女はここをいったいどうしたいんだ⁉)



 畑を作ってみたり貯水池を作ってみたり、蚕まで育てて――あの女の目的は何だろう。



「……そうか、頑張ってくれ」



 やめろとは言えないので適当な返事をして、マクシミリアンは次に城の裏手に回ることにした。

 セバスチャンによると、城の裏手で聖女が鶏を飼っているらしい。聖女の目的はわからないが、あのオムレツは確かに美味かった。マクシミリアンは鶏を飼ったことがないので、どのようにして育てているのだろうかと気になったのだ。

 歩いて行くと、馬や牛の鳴き声に交じって、コケーッと騒がしい声が聞こえてくる。



(……ん? 牛?)



 いや待てよ、とマクシミリアンは足を止めた。

 鶏がいるのは聞いている。馬車があるのだから馬もいるだろう。だが何故牛の鳴き声がするのだろう。さらに言えば何かメーメーという別の動物の鳴き声もしてきた。

 不審に思って厩舎小屋まで急げば、ちょうど乾草の入れ替え作業をしていた厩舎係が、マクシミリアンの姿を見て作業を止めた。



「これは陛下。おはようございます。このようなところにどうされました?」

「い、いや……そう、貯水池を見に行くついでに寄ってみたんだ」



 まさか鶏を見に来たとも言えず適当に誤魔化して、それからちらりと厩舎小屋を覗き込む。そこには栗毛の馬が四頭ほどいた。



「……先ほど妙な鳴き声がしたのだが、ここには馬のほかに何か飼っているのか? 鶏がいるというのはセバスチャンから聞いたが……」

「ええ、牛とヤギがおりますよ」

「牛にヤギ⁉」

「はい。陛下も朝お飲みになったのでは? 新鮮なミルクのお味はいかがでしたでしょうか?」

「……待て」



 マクシミリアンはこめかみを押さえた。



「朝に出てきたミルクは、ここで飼っている牛のものだったのか?」

「ええ、もちろんでございます」

(卵だけでなくミルクまで⁉)



 確かに美味かった。それは認める。だがいったいどうしてこのような状況になっているのだろうか。

 嫌な予感を覚えつつも、マクシミリアンは勇気を振り絞って訊ねてみた。



「何故……牛やヤギを?」

「クリスティーナ様のご希望でして」

(ほらきた! クリスティーナ!)



 やはり犯人はあの女だった。いや、もうここで起こる異質な現象は全部あの女の仕業だ。そうに違いない。

 なんだかぐったりと疲れてきて、マクシミリアン歩いてきた道を戻ろうとしたが、厩舎係に呼び止められる。



「陛下、貯水池はそちらではありませんよ」



 そうだった。貯水池を見に来たと適当な言い訳をしたのだった。

 精神的にくたびれていたが、ここで帰れば不審に思われるだろう。仕方なく、マクシミリアンは貯水池まで足を伸ばすことにした。

 厩舎小屋から十五分ほど歩いた先に、クリスティーナが魔術で作ったという貯水池がある。

 にわかには信じがたいが、一朝一夕で貯水池など掘れるはずがないから、魔術と言うのは嘘ではないのだろう。



 歩いて行くと、昨日も見た湖のように大きな貯水池が見えてくる。

 日差しを反射して水面がキラキラと輝いていた。

 貯水池の縁では、何人もの男たちがせっせと水を汲んでいる。

 何をしているのかと訊ねると、男たちは村や町から来たらしく、ここで水を汲んで持って帰るらしい。



「聖女様が自由に使っていいとおっしゃったんで、こうして水をいただきに来たんです」



 満面の笑みでそう説明されて、マクシミリアンは何も言えなくなった。

 貯水池を作り、その水を村や町の人間に無償で提供している。そう言えば、セバスチャンが、クリスティーナが用水路を作って貯水池とつなげるつもりらしいとも話していた。



(……なぜ?)



 そんなことをして、クリスティーナに何の得があるのだろう。

 自分のことしか考えない聖女が、ただ他人のために動いているはずがない。きっと裏があるはずだ。

 ただ結婚誓約書にサインをしてもらうためだけに来たのだが、これは早急にクリスティーナの腹の内を探る必要があるかもしれない。

 マクシミリアンは来たときよりも急ぎ足で古城に戻り、側近のブライトにどのようにしてクリスティーナの化けの皮をはがすか相談しようと思ったのだが――玄関に足を踏み入れて、唖然とした。



「ああ、ちょうどよかったです陛下。これ、うまいですよ」



 なぜか玄関回りにブライトと騎士たちがいて、そしてなぜか誰も彼もがイチゴの入った籠を持って一心不乱に食べている。



「………………何をしているんだ?」



 たっぷり沈黙した後で訊ねれば、どうやら、水を提供された村人が、クリスティーナに大量のイチゴの差し入れを持って来たらしい。

 クリスティーナがみんなに分けて食べればいいと言ったそうで、こうして相伴にあずかっているのだそうだ。

 マクシミリアンが軽い頭痛を覚えていると、ダイニングからセバスチャンが顔を出した。



「陛下、もしよろしければこちらでイチゴはいかがですか?」

「………………。……もらおう」



 イチゴは、マクシミリアンの大好物の一つだ。

 聖女からもらったものを食べるのは、あとあとそれを理由に脅されそうで嫌だったけれど、誘惑には勝てなかった。なぜならブライトがとても美味しそうにイチゴを頬張っていたからだ。



(くそ、絶対に本性を暴いてやるからな!)



 ぶすっとした顔のままダイニングに座って、差し出されるイチゴを一つ口の中に入れたマクシミリアンは、思わず「美味いな」と口に出した。

 軽く散歩した後だろうか、いつも食べるイチゴより美味しい気がする。

 もぐもぐと一心不乱にイチゴを食べていたら、玄関の奥にある大階段から司祭が駆け下りてくるのが見えた。



「陛下!」



 もう年寄りと呼ばれる年齢に差しかかっているくせに、あんなに走って大丈夫だろうか。階段から転がり落ちないかと冷や冷やしながら見守っていると、司祭はマクシミリアンのそばまで走って来て、肩で息をしながら興奮した様子でまくしたてた。



「大変ですよ陛下! 神具が! 万能薬が! クリスティーナ様が古代の秘薬を復活なさったのです‼」

「……すまない。何のことかさっぱりわからないんだが」



 訳がわからないが、クリスティーナがらみだということだけはわかった。あのおかしな聖女はまた何かをやらかしたらしい。

 司祭は呼吸を整えると、もう一度言う。



「ですから、クリスティーナ様が万能薬をお作りになりました!」

「だからその万能薬とはいったいなんだ?」



 名前からして胡散臭かった。

 司祭が身振り手振りで説明することには、何でも貯水池を作った際に四百年以上前に紛失していた神具の「聖王シュバルツアの壺」とかいう怪しいものが出土したらしく、クリスティーナがそれを使って万能薬を作ったという。

 万能薬とはその名のとおり、あらゆる事象に効く薬なのだそうだ。傷や病を癒すのはもとより、汚染された水や土、枯れかけた植物まで復活させるという、世の中の理を完全に無視したとんでもない薬だという。唯一不可能なことは、死んだものを蘇生することだけだそうだが、当たりまえだ。そんなことができればこの世の中から死という概念が消えてしまう。



「本当にそんなものができたのか?」

「ええ、この目でしかと見ました! 先ほどクリスティーナ様がお作りになった万能薬が少しだけ残っておりますからご覧にいれましょう。さあさあ、こちらへどうぞ!」



 これは断れそうにない雰囲気だった。

 まだ興奮が冷めない司祭に連れていかれたのは庭だった。バケツに泥水が用意してある。こんなものをどうするのかと思えば、司祭はもったいぶるように小瓶を取り出すと、それを開けてマクシミリアンに見せる。



(……水?)



 どう見てもただの水にしか見えなかった。無色透明で無臭。味は舐めてないからわからない。

 マクシミリアンが胡散臭そうな顔をして万能薬だというそれとバケツの泥水を見ていると、司祭はやおらその万能薬をバケツの中に注ぎ入れた。

 マクシミリアンは目を見開いた。

 司祭がバケツに万能薬を注ぎ入れた瞬間、茶色く濁っていた泥水が、無色透明に変化したのだ。

 何の手品だと思っていると、司祭がメイドにコップを一つ持ってくるように頼んだ。

 メイドがコップを持ってやってくると、バケツの水をコップに汲んで、何の躊躇もなく口に入れる。



「おい、腹を壊すぞ!」



 いくら透明になろうとも泥水だったのだ。マクシミリアンは慌てたが、司祭はコップの水を飲み干すと、にこにこと笑った。



「どうですか? すばらしいでしょう⁉」



 陛下もいかがですかと勧められたが、さすがに躊躇していると、そばで成り行きを見守っていたブライトが司祭からコップを受け取った。ブライトは茶色く濁った泥水が一瞬で透明になったことに興味津々で、司祭に進められるままにバケツの水を口に含んで、目をぱちぱちとしばたたく。



「美味いですよ、陛下。本当に水です。井戸の水より美味いかも」



 そんな馬鹿なと思いつつも、ここで嫌がれば小心者だと思われる。

 マクシミリアンは渋々ブライトからコップを受け取った。

 そして司祭とブライトの視線を一心に浴びながら水をあおり、愕然とする。

 雑味のない、美味い水だった。確かに泥水だったのに、泥臭さも何もない。



 しかし、だからこそ焦った。これが本当に万能薬なら、それこそ扱いには注意しなくてはならない。

 ちゃっかりしている司祭は、一日一回だけ作れるというこの万能薬をクリスティーナから買い取る約束を取り付けてしまっているらしい。

 マクシミリアンは慌てて、司祭に、買い取りを許可する量は司祭がここに滞在している間の分だけだと念を押して、ブライトに、急いで城に残してきた側近のベンジャミンに連絡を取らせた。王都の城に戻ったら可及的速やかにこの万能薬の扱いについて話し合わねばならない。



 司祭にも、くれぐれもこのことは内密にしてくれと頼めば、さすがに彼も心得ているもので。このことは教皇の耳にしか入れないと約束してくれた。

 今の教皇は信用できるので、万能薬とそれを生み出したクリスティーナを使ってどうこうしようなどとは考えないだろう。



(万能薬とやらは絶対に市場に出さないようにしないと。……はあ、なんて扱いにくいものを作ってくれたんだ)



 できないことは死の概念を覆すことだけで、それ以外は何でもできるらしい万能薬が本物なら、その薬の価値は計り知れない。



(聖女の力は……眉唾じゃなかったんだな)



 マクシミリアンははーっと大きなため息をついた。



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