聖女の身代わりとして皇帝に嫁ぐことになりました
あれはわたしが八歳、アンジェリカが六歳のころのことだ。
フィサリア国では、聖女であるかそうでないかを判ずるために、フィサリア国で生まれた貴族の女の子は六歳の時に「聖王の泉」を訪れることが義務づけられている。
平民の女の子にはその義務がないのは、一説によると平民からは聖女が誕生した試しがないからだというが、詳しいところはよくわからない。
第一、義務と言ってもいい加減なもので、本当に貴族令嬢の全員が「聖王の泉」を訪れているのかは甚だ怪しかった。証明書を提出するわけでもないからいくらでも誤魔化せるのである。実際わたしも、六歳の誕生日の日に「聖王の泉」にはいかなかった。否、行く必要がないと父と義母が判断した。わたしは父にとって望まれた子供ではなかったため、わざわざ入場料のかかる国立公園の最奥に存在する泉に連れていく必要もないと判断されたのだろう。
アンジェリカが六歳の時にわたしがついて行ったのは、アンジェリカの我儘があったからで、それがなければ、あの日わたしがあの泉に行くこともなかっただろう。
「聖王の泉」には泉を管理する司祭と、十歳未満の子どもしか中に入れないという決まりがある。
好き勝手に人が立ち入れる状況にしておくと、人でごった返して、聖女判定を行う際に邪魔になるかららしい。
両親にべったりの甘えん坊だったアンジェリカは、たった一人で泉に向かうことを嫌がって、困った父が、わたしを付き人につけることに決めたのだ。
アンジェリカはそれでも不服そうだったが、一人きりでないならと、最終的に諦めた。
そしてアンジェリカとともに向かった国立公園の最奥。直径二メートルほどの小さな「聖王の泉」はそこにあった。
一見したところ、変哲もない大きな水たまりに見えた。
聖女は「聖王の泉」が選ぶというが、どうにも胡散臭いと、八歳ながらに思ったものだ。
付き人の司祭がアンジェリカに、泉に近づいて覗き込むようにと言った。
「先に行ってよ!」
臆病な子供だったアンジェリカはわたしの背をぐいぐい押して、わたしの背に隠れるようにしながら泉に近づいた。
仕方なくアンジェリカを背後に張り付かせたまま泉に近づいて、そっと中を覗き込んだ――その瞬間。
あの時の光景は今も鮮明に覚えている。
泉が、金色に輝いたのだ。
あれはとても神聖な光景だった。
泉からあふれた光が空に上るようにして立ち上がる。
思わずその光に見入っていると、背後で司祭が大声で叫んだ。
「聖女様です! 本物の聖女様です‼」
どうやら、聖女が覗き込むと「聖王の泉」が輝くのだそうだ。
アンジェリカは興奮して泉の入口の前で待っている両親のところに一目散に駆けて行った。
「わたしが聖女よ!」
アンジェリカの興奮した大声が響いた。
「聖王の泉」が光る光景はいつまでも見ていたいような気にさせたけれど、早く戻らなければ義母に怒鳴られる。
ゆっくりと泉の入口まで歩いて行くと、父がアンジェリカを抱き上げて、満面の笑みを浮かべていた。
「さすが私の娘だ!」
もう一人の娘のことなど、その存在ごと消し去ったように扱う父は、わたしが近づいて来たのにも気が付かなかった。
アンジェリカは、父と義母とともに、そのまま城へ向かって、すっかり忘れられたわたしは一人、とぼとぼと公爵家へ帰って――そう言えば、はじめて魔術が使えたのも、あの日だった気がする。
国立公園から公爵家までそれなりに距離がある。子供の足でとぼとぼと歩いて戻ったわたしは靴擦れを作ってしまって、それが泣くほど痛かった。
帰ったわたしは、足にできた靴擦れを見つめながら、早く治ればいいのにと思ったのだ。その次の瞬間、かかとにできていた靴擦れが、何もなかったかのように治ったのである。
茫然として、しばらくの間、何が起こったのかわからなかった。
そばでそれを見ていた乳母は興奮したように、わたしには魔術の才能があると言い出した。魔術の才能はとても稀有な才能で、それこそ一万人に一人ほどの確率でしか誕生しないのだそうだ。
乳母はとても喜んだが、同時にこのことは秘密にしておくべきだと言った。父たちに知られたら悪用される可能性があるから、決して家族の前で力を使ってはいけないと。
乳母の言うことはよく理解できたので、わたしは彼女がわたしのもとから去ったあとも言いつけを守って、魔術が使えることは内緒にしていた。
わたしが使える魔術が、噂に聞く魔導士のそれよりもはるかにレベルが高かったので、もしかしたら自分も聖女かなと思ったのは前世の記憶を取り戻してからになるが、フィサリア国にいる間、人前では魔術を封印していたわたしは、聖女認定どころか魔導士認定もされていない。
「アンジェリカがマクシミリアン陛下に嫁ぐ予定でしたが、アンジェリカ本人の遺志により、アンジェリカではなくわたしが身代わりとして嫁ぐこととなりました。……その、今まで黙っていてすみませんでした」
投獄かなあと覚悟しながら頭を下げる。わたしは断れる状況ではなかったとはいえ、騙していたことには変わりない。
わたしの話を聞いたみんなは一様に沈黙していた。
それはそうだよね。フィサリア国はわたしのことを「聖女」認定していない。だからフィサリア国側としては帝国を謀って偽物の聖女を嫁がせたということになる。あきれるのも当然だ。わたしもよくそんな強気なことができたと思うもの。聖女を差し出す代わりに独立が許されているんだって、フィサリア国王、きちんと理解できていないのかな。
マクシミリアンは顎に手を当てて、それからぽつりと言った。
「……なるほど、お前は身代わりか」
「はい、そうなります。すみません」
「だが、聖女なのだろう?」
「たぶん、ですけど」
一般に魔導士と呼ばれる人たちが使える魔術は、わたしの十分の――いや、百分の一以下。これだけの魔術が使えるのだから、さすがに聖女でなければ説明がつかない。「聖王シュバルツアの壺」とやらも使えちゃったし、間違いないだろう。
しかし、フィサリア国ではわたしは聖女認定されていないから、本物の聖女が指す存在はアンジェリカしかいない。わたしが頷くと、マクシミリアンはますます解せない顔をしたが、わかったと一つ頷いた。
「現状は理解した。これで疑問の一つは片づいたが……それでもまだこの手紙に書かれていることはよくわからないな」
あれ? おとがめなし?
もっと怒られると思ったのにマクシミリアンはわたしを怒ることなく、再び手紙に視線を落とす。
「指示があるまで、とありますから、今後何らかの指示がクリスティーナ様に届くのは間違いないでしょうね」
ブライトが言えば、マクシミリアンも頷く。
「そうだな。せっかくの機会だ、このままセラフィーナの狙いやフィサリア国の意思とやらも確信しておきたい」
マクシミリアンは手紙から顔をあげて、綺麗な菫色の瞳をわたしに向けた。
「クリスティーナ。俺に協力するならお前の罪は不問にしてやるがどうする?」
え、まじですか⁉ 俗にいう恩赦ってやつ? するするしますとも。牢獄生活なんて嫌ですからね。
一瞬の躊躇もなくうんうんと頷くと、マクシミリアンはちょっぴりあきれ顔をした。
「俺が言うのもなんだが……お前には愛国心と言うものがないのか?」
「ありません」
わたしは即答した。
もしかしたら、前世の記憶を取り戻さないままでいたら、多少なりとも躊躇ったのかもしれない。前世の記憶と人格が融合した今のわたしは家族や国に未練などこれっぽっちもないけれど、もともとの「クリスティーナ・アシュバートン」は家族や婚約者に愛されたくて仕方がなかった。口では諦めたようなそぶりをしつつも、心の中では誰かに愛されることを切に望んでいたのだから。
まあ、今のわたしは、父や義母、異母妹はそもそも「家族」ですらなかったと切り捨てることができるけどね。前世の夏希の両親は、本当にわたしのことを大切にしてくれたから。その記憶があるから、わたしを虐げていたあの「家族」のことは「家族」と認めないし、わたしには必要ない。
「いい思い出はないんで」
わたしが言いきれば、マクシミリアンが眉をひそめた。けれどそれについては何も訊かず、わかったと首を縦に振る。
マクシミリアンはちょっと考えて、そして言った。
「では、お前はこのまま、素知らぬふりをしてセラフィーナからの連絡を待て。そして、何かあればすぐに報告するように」
了解です!
わたしが大きく頷けば、マクシミリアンは苦笑して、この手紙は俺が預かっておくと言って立ち上がった。