聖女の身代わりとして皇帝に嫁ぐことになりました
夜になって、マクシミリアンと一緒に向かったのは、古城の裏手に作った貯水池のほとりだった。
銀色の月が池の水面に移りこんで、何とも神秘的だ。
わたしはロマンチストではないけれど、鏡花水月なんて洒落た四字熟語が存在する意味を知った気がした。確か中国の明の時代の謝榛しゃしんという詩人の読んだ詩が元だった気がするけど、ずっと昔に古典の授業で習った気がする程度の記憶なのでちょっぴりあやふや。
空気が綺麗だからかな。こっちの世界の夜空はとても澄んでいて、星が多い。キラキラと輝く星に、大きくて明るい月。実際のところあの「月」は前世で見ていた「月」とは違うのだけど、細かいことはどうでもいい。綺麗なものは綺麗だ。
貯水池のほとりに二人並んで座る。
皇帝のくせに、護衛を一人も連れてきていないの。いいのかなと思ったけど、それを聞くのはなんだか無粋な気がして、不用意なことは言わないことにした。
聖女嫌いの皇帝陛下。
わたしが偽物だって知られてからかな? なんだかちょっぴり距離が近い。
大嫌いな聖女でないから、仲良くしてくれる気になったのかな。
マクシミリアンはじっと貯水池の水面を見つめている。
その横顔の綺麗なこと。今更だけど、初対面の時に枕でぼかすか殴りつけたことを後悔した。……この綺麗な顔を容赦なく殴ったなんて、なんて恐れ多いことをしたんだろう。
水面に移った月と同じ、綺麗な銀色の髪。
話って何なのかなってじっと見つめていたら、マクシミリアンはちらりとわたしを見て、それから ちいさく笑った。
「お前に話したいことがある。……が、その前に少し昔話につき合え」
まあ、夏の夜は長いから、無駄話の一つや二つ、別にいいけどね。
むしろ、無駄話をするくらいに仲良くなったのかなって、ちょっとだけ嬉しかったりもする。
いいですよ、と頷けば、マクシミリアンはまた貯水池に浮かぶ月に視線を戻して、口を開いた。
「俺は聖女が嫌いだ」
知っていたけど、マクシミリアンにそれを直接言われたのははじめてだった。
「……どうしてですか?」
まるでその横顔が、訊ねてほしそうに見えたから、わたしは小さく訊ねてみる。
マクシミリアンは、近くにあった小石を、貯水池の中に放った。
放物線を描いて、小石は見事に月の影の上に落ちる。ゆらりと水面が揺れて、月の輪郭が崩れた。
「……父は――前皇帝は、聖女に殺された」
ぽつりと、無感動に落とされた一言の重みに、わたしは息を呑む。
「証拠はない。だが俺は、聖女が――セラフィーナが父を殺したのだと思っている。祖母を殺したときのように、な」
ぽつぽつと、感情と切り離したように淡々と語られるマクシミリアンの話を、わたしは黙って聞くことしかできなかった。
それは、あまりに衝撃すぎて――、大変でしたね、とか、おつらかったですね、とか、そんな言葉を挟むことすら憚られるような気がしたから、何も言えなかったのだ。
聖女セラフィーナは、マクシミリアンのおじいさまに嫁いですぐに、自分を正妃にするように要求したという。
その時すでにマクシミリアンのおじいさまには正妃と、それから正妃の産んだ息子――マクシミリアンの父がいたけれど、聖女の要望を突っぱねることもできずに、正妃の身分だった妃を側妃に下げて、セラフィーナを正妃にしたらしい。
けれども、地位が正妃から側妃に落とされたからと言って、マクシミリアンのおじい様の妃に対する寵愛は変わらなかった。
セラフィーナは身分こそ与えられたけれど、夫から顧みられないことにひどく怒り、ことあるごとに側妃につらく当たりはじめたという。
穏やかな気性の側妃は、セラフィーナの嫌がらせに体調を崩し、寝込みがちになって行った。
そしてそんな日々が五年ほど続いたある日。悲劇が起こった。
セラフィーナが、側妃を毒殺したという。
側妃の薬に毒を混入したのは城で働くメイドの一人だった。セラフィーナの指示によるものだと彼女は言ったが、当然セラフィーナは否認した。
メイドの証言以外の確たる証拠が出なかったことで、セラフィーナが直接罪に問われることはなかったけれど、事態を重く見たマクシミリアンのおじいさまは、セラフィーナを城から離れたところにある離宮に移したという。
これで少しはおとなしくなれば、そんな思いがあったのかもしれない。
しかしセラフィーナは離宮に押し込められたことに憤り、ますます我儘になっていった。
マクシミリアンのおじいさまが崩御し、お父様が皇帝になったあとも、セラフィーナの横暴は止まらなかった。
マクシミリアンのお父様はセラフィーナに皇太后の地位を与えなかったそうだが、まるで自分が皇太后のようにふるまい、政治にまで口を出すようになったらしい。
マクシミリアンのお父様は相手にしなかったそうだけど、彼女の周りには帝国内の不穏分子が集まっていたこともあり、完全に無視できる状況ではなかったそうだ。
そしてマクシミリアンのお父様が皇帝の座について十年――、ちょうど今から三年前のことだった。
マクシミリアンのお父様が北にある領地に視察に行っていた際、悲劇が起こった。
北にある地は、帝国が支配下に置いた小国の元王族が治めている領地で、その領主は、以前からセラフィーナと通じているのではないかと疑われていた男だった。
領地を視察し、王都へ戻る道中――マクシミリアンのお父様を乗せた馬車が、何者かに襲われた。
襲われた場所は崖の近くで、お父様を乗せた馬車は、襲撃を受けて崖下へ転落――即死だったという。
賊は結局捕まらず、真実はわからず仕舞い。
けれどもマクシミリアンは、それがセラフィーナの企みによるものだったと確信しているらしい。
「思えばおかしかったんだ。急に北に不穏な動きが見られると報告が上がった。そう報告したのがセラフィーナの周囲の人間だったんだ。……父を北に誘い込むのが狙いだったのだと、俺は考えている」
マクシミリアンが、もうひとつ小石を水面に投げた。
「あの女はどこまでも我儘で傲慢なんだ。まるで自分が女王か何かだと、勘違いしているように」
その一言に、わたしはふとアンジェリカを思い出した。
――わたしは女王になるの。その時に召使にならしてあげてもいいわよ。
アンジェリカは、帝国に嫁いで女帝になるのだと、さも当然のように語っていた。その姿が、マクシミリアンの語るセラフィーナと重なって見える。
……何かがおかしい。
皇帝に嫁いだからと言って、女帝になれるわけではない。
アンジェリカは昔から少々夢見がちというか、勘違いの激しい子だったけれど、だからといって、皇帝の妃を女帝と勘違いするだろうか。
このあたりに、手紙にあった「国の意思」とやらのヒントがないかしら。
わたしが考え込んでいると、いつの間にかマクシミリアンの視線が、貯水池からわたしに移っていた。じっとまるで食い入るようにこちらを見つめてくるから、わたしは思わずドキリとする。
「だから、俺は聖女が嫌いなんだ」
まあ、それだけつらい思いをしたら、当然かもしれない。
セラフィーナの過去の聖女も我儘で傲慢だったそうだから、それだけのことがあれば「聖女」を嫌いになる理由としては充分だろう。
だから極力関わりたくないと、わたしを古城に押し込めたのも頷ける。
どうしてマクシミリアンがそのことを話してくれる気になったかはわからないけれど、教えてもいいくらいには、わたしのことを信用してくれているのかな。
「だけど、お前は違った」
まだ話は終わっていなかったようで、マクシミリアンは続けた。
まあ、庭を掘り返して畑にしたり城を丸洗いしたりする聖女は前例がないだろうから、わたしは聖女らしくないのかもね。
でも、聖女って一言で言っても、全員が全員同じ性格をしているはずがないんだし、誰に迷惑をかけているわけでもない――かけてないよね?――んだから、変な聖女だと思って諦めてほしい。性格なんて、今更変えられないしさ。
「聖女とひとくくりにして悪かったと思っている」
なんだ、そんなことを気にしていたのか。
それだけ嫌なことがあれば、聖女が嫌いになるのも仕方がないことだし、謝らなくたっていいのにね。
「会いもしないで決めつけて閉じ込めるべきじゃなかった。お前は俺の知る聖女とは違ったのに……お前をここに閉じ込めて、その、すまなかったと、それが言いたくて……」
だんだんと尻すぼみに小さくなる声。
もしかしなくても、照れているのだろうか。
わたしをここに連れてきて、二人きりで話したかったことって、これ?
わたしはぱちぱちと目をしばたたいて、つい吹き出してしまった。
「どうして笑う⁉」
マクシミリアンがムッとする。
だって、ねえ? 皇帝陛下がそんなことを気にするなんて、誰が思うだろう。
それにわたしは別に、ここに閉じ込められて不自由なんてしていない。だから謝られる理由はどこにもないのだ。
「わたし、ここでの生活はとても楽しいですよ?」
むしろ、フィサリア国にいる方がつらかった。
ここではアシュバートン公爵家と違って自由がある。だからむしろ、ここで生活させてくれたありがとうと言いたいほどだ。
「…………楽しそうなのは、見ていればわかる」
マクシミリアンが苦笑する。
「まさか、こんなになじんでいるとは思わなかった」
「それはどうもありがとうございます?」
「褒めているんじゃない」
「じゃあ……ご愁傷さまです?」
「どうしてそうなる」
今度はため息をつかれた。
お前の相手をしていると、悩むことが馬鹿らしくなると言われたけれど、それって褒め言葉じゃないよね?
「クリスティーナ。お前、これからどうするつもりだ?」
どうとは?
わたしはきょとんとして言った。
「えっと、用水路以外のことですか? 今のところ特にないですよ? 楽しく野菜を作ってのんびりスローライフを満喫するんです」
「スローライフ?」
「はい。のんびりやりたいことをやって、暇なときはごろごろして生活するんです」
想像するだけで楽しそうである。わたしがうっとりと未来のぐうたらな生活に思いをはせていると、マクシミリアンが小声でぽつりと言った。
「……王都に来る気はないのか?」
「王都? そりゃあ、行っていいなら」
のんびり王都まで旅行に行くのは楽しそうだ。王都レグースはとても賑やかなところだそうで、美味しいものも綺麗なものもたくさんあるという。許してくれるなら行きたいけど、許してくれるのだろうか。
するとマクシミリアンは顔をあげて、ホッとしたように笑った。
「そうか。それなら、よかった」
なにがよかったのだろう。
またしてもちょっと話が噛み合わないような気がしたけれど、考えてもわからないので、わたしは適当に笑って誤魔化した。