隠れSだって、優しくしたい!!(……らしい)
「……さん、浪川さん」
自分がキーボードを叩く、僅かな音しか聞こえてなかった。
「あ、ごめん。どうかした? 」
ひそひそなんて聞いて凹む暇もないし、なくていい。
でも、隣から話しかけられて気がつかないとは。
「いえ。お忙しいのにすみません。……これなんですけと……」
手はキーに置いたまま、頭だけ横にスライドする。
集中しすぎてて、上手く呼吸できてなかったかも。
酸欠で、こんな体勢を取ったらどうなるかなんて、想像するのも忘れてた。
「……頑張りすぎじゃない? どうやって、碧子さんのスイッチ切ってやろうかと思っちゃった」
「……っ、あ」
「あ」
カタッ、とか。
本来、そんな大きな音しない。
なのに、ピクンと震えた指先がEnterを弾いた音が妙に脳で響いて、ひやりとする。
「〜〜っ……」
「あれ、珍しい。まあ、それ消せるやつ……って……! ……|足!?」
うるさい。
殴ったらバレるから、机の下で蹴るしかないじゃない。
しかも、今日はこんなちょっかいが多い。
(……はぁ……)
――何にせよ、ちょっと本気で腹を括るべきかも。
・・・
発端は私だ。
急に外見が変わったら――しかも、若い男の子と噂になった直後――いろいろ言われるのは予想してた。
「最初から、否定してなかったもんね。認めたってことじゃない? 」
「そうかもしれないけど……なんか、可哀想になってきた。若い子に合わせようって必死なの。だってさ……」
――痛いよね。
(想定内すぎる)
少し化粧と服装を変えただけで、よくもまあ、一言一句想像どおりの台詞を言えるもんだ。
とはいえ、ムカつくものはムカつく。
じーっと見つめて、嘘っぽくハッとする顔ににっこり笑うとツカツカ通り過ぎる。
聞かれたくないなら、こんな通り道で話さなきゃいいのに。
つまり、聞かせたいんだ。
(うちの会社のいいところは、ウォーターサーバーがあるとこだよね)
軽く息を吐いて、目的地へと向かう。
水持ってくるのは重いし、毎日買うと馬鹿にならないから、うちの会社最大のメリット。
つまり、そらくらいしか特に思いつかない。
「浪川さん……? 」
「あ、お疲れさまです」
隣のチームの大郷さん……だったはず。
何度か、会議で見かけたくらいだったと思う。
記憶が曖昧なくらいの接点しかない。
「浪川さんだと思ったんですけど、雰囲気が違うから。噂、本当だったんですね」
「……そこまで広がってるんですね」
さあ、どこまで拡散するか。
なんて、もうどうでもいいや。
「……ですね。すみません」
「いえ、別に。それもそうですよね」
人の噂なんて、そんなもんだ。
寧ろ、面と向かっていわれるだけまし。
「あはは。あっさりしすぎてません? 」
「大きいこそこそはよく聞こえるので、もう慣れました」
「……そっか。どっちにしても、大変ですよね。……あの、あれって……」
「あ、こんなところにいたんですね」
後ろから明るく声をかけられて、反射的にビクッとする。
「主任が探してましたよ」
「え? 分かった。……失礼します」
何も後ろめたいことなんてないのに、肩が震えた理由は三つある。
その1
「お疲れさまです。また」
あんまり関わりないのに、いきなり大郷さんが話しかけてきたこと。
その2
「……主任、何て? 」
「嫌だな。そんなの嘘だって分かってるくせに。なのに、すぐ切り上げてくれるの嬉しかった」
そんなの嘘――あの場にいた三人にとって、それが明らかすぎること。
その3
「嫉・妬。口説かれてるの見て、我慢できなかった。ごめんね? 」
嬉しかった。
そう言うわりに、嘘っぽく明るかった声が翳りを帯びたこと。
(……もうひとつ、あった……)
その4
――その「ごめんね」が、嘘を吐いたことへの謝罪にはとても聞こえなかったこと。