突然ですが、契約結婚しました。
「あ、あほって……」
「仮面夫婦でも、過ごした時間は本物だと思ってたから……一緒にいたいのは俺だけかって、結構堪えた」

耳元で低く掠れる声。少し震えている気がするのは、気のせいだろうか。
背中に回される腕の力が少しだけ弱まって、近い距離で私達は向かい合う。

「あの、穂乃果さんは」
「昨日、旦那が迎えに来て帰ったってさ。詳しくは知らんが、お互いに誤解は解けたって連絡来た」

淡々と答える主任に、また不安が広がる。

「主任は、それでよかったんですか。主任がこの生活を大切にしてくれているのはわかったけど、穂乃果さんのことは……」
「あー……そうだよな、そこだよな。ややこしくなってたの」

主任の長い指が私の髪を梳く。さらさらと落ちる髪に、慈しむような視線が注がれる。
それは、今までに向けられたことのない熱を帯びた視線。あ……あれ?

「今までの俺だったら、今回もきっと、穂乃果の傍で穂乃果の力になりたいって思ってたんだろうと思う。いつだって、俺の一番は穂乃果だった」
「……はい」
「けど、それじゃ駄目だって気付いたんだ。あいつにはもう家庭があって、傍で守ってくれる人がいる。何があったって、それは俺じゃないんだって」

それに、と主任の言葉は続く。木琴を叩いたような、柔らかく響く声色だった。

「俺にも俺の人生があるんだ。叶わなかった想いはちゃんと昇華していける。思い出に出来るんだって、そう気付かせてくれたのは、小澤だよ」
「え……?」
「穂乃果が初めて家に来た時……あの日、小澤が本気で叱ってくれたから、俺は穂乃果への気持ちを思い出に変えることが出来たんだ」

ありがとう。そう言って、彼の表情が優しく綻ぶ。
あの日。自分や周りを顧みることなく穂乃果さんを思い続ける主任を、堪らず責めた。雁字搦めになっている主任を、自分に重ねて八つ当たりした。
恨まれることはあれど、感謝される出来事だったなんて思わなかった。えっと、今の言い方は、じゃあ。

「主任は、もう……」
「昔からの幼なじみだし、長年好きだったから特別な存在には変わりないけど……穂乃果のことは、もう何とも思ってない」

嘘だなんて疑うことも烏滸がましいほど、主任の声ははっきりと私の耳に届いた。真っ直ぐな眼差しには、一切の陰りもない。

「じゃあ、主任はこの家を出て行ったりしないんですね……?」
「しない。出て行くつもりなんか微塵もなかった」
「そっか……。よかったぁ……」
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