突然ですが、契約結婚しました。
そうして数年が過ぎ、社会人になって健太くんと出会った。彼と過ごす時間はとても穏やかで、それまでに私が関わった誰とも違う雰囲気で。この人なら、と程なくお付き合いが始まった。
かかったブレーキは2つあった、と今なら思う。
1つは結婚に対するブレーキ。もう1つは、本気で好きになることへのブレーキ。
そのどちらかが作用していなかったら。ずるいことはわかっているけれど、私はきっと、自分から彼の手を離すことはなかっただろう。

健太くんがくれる温もりから逃げ出した私は、また元いた世界に舞い戻った。全方向に胸を張って彼の優しさを説くことが出来る、そんな馬鹿げた自信さえ湧くほどに素敵な人でさえ、私は傍にいられなかった。そのことが、私をより頑なにさせた。
誰かと生きていくなんて、私には出来ない。私には、疑似恋愛をしてのらりくらりと生きていくのが向いている。自分が大切に思う誰かに大切にされる、そんな生き方は私には出来ない。
そう思って生きていたんだ。あの日までは。


「やっちゃったー……」

床に座り込み、ベッドに額を押し付けて独り言ちる。くぐもった声はリネンに吸い込まれて、今にも消えてしまいそうな声量になった。

家を留守にしていた主任と、腹を割って話をしたのはつい先刻のこと。
微妙な空気のままリビングを出て、逃げるようにして自室に戻った。後を追うことはせず、自らもまた自室に行った気配を見せた主任。
線引きを理解している辺り、大人だなぁと思う反面。

「……傷つけちゃった」

私が彼の胸板を押し戻した時、他人にはわからないほど微かに、でも確かに彼は傷ついた顔をした。仮面を被って、傷ついた表情を隠すことが出来ないほどに。私は、真っ直ぐにぶつかってくれた彼の思いを踏み躙ったのだ。

「……どうしたら」

主任の痛いほど真っ直ぐな思いは、私にとって寝耳に水だった。少なからずこの生活を気に入ってくれているのだろうと思ってはいたけれど、まさか、私自身を大切にしようとしてくれているだなんて思わなかった。

ありのままの私を大切にしてくれる。そんな人が、この先現れるなんて想像もしていなかった。そして、主任との間に“家庭”に対する畏怖はほとんどない。
それなのに頷くことが出来なかったのは、深く根を下ろした恋愛に対するトラウマと、自分の気持ちがわからないでいるからだ。


「おはよう。朝飯、パンでいいか?」

朝日が昇り、どんな顔をすればいいのかわからないままリビングの扉を開けると、コーヒーメーカーに豆を入れる主任が私を出迎えた。
< 119 / 153 >

この作品をシェア

pagetop