突然ですが、契約結婚しました。
あまりに平常通りの光景に、私は扉の前でパチパチと瞬きを繰り返して立ち尽くす。
その様子を一瞥するも、主任は意に介することなくトースターに食パンを放り込む。

「今日、かなり冷えるらしいからな。ちゃんと着込んで行くんだぞ」
「へ……あ……」

はい、と気の抜けた返事が歯の隙間から溢れる。昨日の今日だったので緊張していた分、拍子抜けする主任の態度に呆然としてしまう。
そんな様子を見て、主任は困ったように口角を上げた。

「困らせるために言ったんじゃないぞ、俺は」

一呼吸置いて、主任の声が穏やかに言葉を辿る。

「ただ伝えておきたかったから言っただけだ。俺の勝手な思いだから、無視してくれても構わん」
「そんな……」
「契約結婚を破綻させるだけさせて、気まずくなるのも嫌だしな。小澤は、今まで通りいてくれ」

言いつつ、水切りかごに伏せていた2つのマグカップがワークトップに並べられる。ペアなんかじゃない、それぞれに買い求めたチグハグなマグカップ。
それが、私達の距離だった。

「コーヒー飲むだろ? すぐ入れるから、顔洗ってこい」
「あ……はい」

いつしか、家で飲むコーヒーが日常になった。朝の日課だったコーヒーショップに行かなくなったのは、いつからだったっけ。

「いただきます」
「いただきます」

昨晩のことも、何なら穂乃果さんの訪問すらなかったんじゃないかと思うくらい、いつも通りの朝の食卓。
はちみつマーガリンを塗ったパンを食べる主任を、同じくパンをちびちびと齧りながらちらりと見やる。
……いつも通り、悔しいほど綺麗な顔だなぁ。

「あの、主任」
「ん?」

これだけは言っておかなくちゃ。そう思って口火を切った。健太くんの時と同じ轍を踏んではいけない。

「お時間くださいなんてわがまま言ってすみません」
「だからそれは気にするなって、」
「主任のお気持ちが嬉しかったこと、どうしても先に伝えたくて」

気恥ずかしくて、言葉尻は窄んだ。居た堪れなくて視線を落とすも、向かいからは視線を感じる。
ややあって、ふはっと小さく吹き出す声が聞こえた。

「そう言ってもらえるなら甲斐あったな」

感じていた気まずさはどこへやら。満足げな口調に、私も思わず笑ってしまった。


1月も終わりに近付いてきた頃、部署に大型の販売案件が舞い込んできた。

「柳瀬主任、すげーっすね! 引き継いだばっかりなのに!」

興奮気味に話してきたのは田辺くん。主任からの引き継ぎが終わり、徐々に現エリアの勝手を掴みつつあるようだ。
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