突然ですが、契約結婚しました。
「……そんな言わんでも、また機会あったら紹介するって──穂乃果」

あの夜と同じ関西弁のイントネーションで、隠しきれない愛おしさをちらつかせながら紡がれたのは、いつか聞いたことのある3文字の名前。その3文字に秘められた熱は、ノーガードの鼓膜を容赦なく灼きつかせる。
あ。コレ、聞いちゃいけないやつだ。

「……戻ろ」

一旦固まりかけた足を奮起させて、物音を立てないように部屋に戻った。
本来であれば他の人に……私に聞かせることのないような声色を、偶然とはいえ耳にしてしまった罪悪感が水彩絵の具のようにじんわりと滲む。

「よっぽど好きなんだなー」

例え、叶わなくても。主任はこれまでも、これからもずっと、彼女のことが好きなんだろう。
その感情を形容する言葉が恋と言うのかは、私には理解の及ばないところだけど。


頃合いを見計らってリビングの扉を開くと、通話は既に終えたらしくソファーで寛ぐ主任の背中が見えた。
物音で私に気付いた彼は、顔だけをこちらに向ける。その様子は、いつもと何ら変わりない。

「おかえり」
「ただいまです。主任、ご飯食べました?」
「いや、まだだ。どうしようかと思ってた」
「私、簡単なもので済ませようかなって思ってたんですけど。よかったら、主任の分も一緒に作りましょうか?」

リビングを背に、冷蔵庫を漁る。卵と鶏肉がある。あ、玉ねぎもあるぞ。ご飯は……チンしたら出来上がる、便利なヤツがそこの棚にいるはずだ。

「いいのか?」
「はい。親子丼になりそうな感じですけど、それでもよければ〜」
「あぁ、頼む。ありがとな」
「いえ。あんまり期待しないでくださいね」

同居生活が始まってから少しの時間が経ったけど、新居のキッチンはまだあまり活用出来ていない。物件が決まってから慌てて揃えた調理道具も、ほとんど出番のないまま眠っている。

「小澤って料理出来るんだな」
「まぁ、一人暮らし歴は長いので。料理好きじゃないから、そんなには作りませんけど。そういう主任は料理するんですか?」
「俺も一人暮らし歴は長いからな。出来るかはさておき、やりはする」
「へぇ。主任の料理、食べてみたいかも」

どうせ料理だってさらっとこなすんだろうなー。私より上手く、手際よくキッチンに立つに違いない。

「今度、機会があったらな」

きっと機会は巡ってくるだろう。ただの部下だってわかる。柳瀬真緒という男は、そういう人だ。
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