突然ですが、契約結婚しました。
突っ立ったまま狼狽していると、返答するよりも先にさっきまでいた席にお水が出される。視線を上げたらタイガさんと目が合って、何も言わずに微笑むから逃げることが出来なかった。

「…………」
「…………」

隣同士に座って、私はお水を、主任はギムレットが入ったグラスを傾ける。も、会話はゼロ。タイガさんは帰ったお客さんのテーブルを片付けていてここにはいないし、ただひたすらに気まずい……。
逃げるように水を呷るも、再び強烈な眠気が瞼を重くさせた。

「ふあぁ……」

噛み殺しきれなかった欠伸は、けしてこちらを見ない主任にも届いてしまったらしい。

「寝てろよ。帰る頃に起こすから」
「や……だいじょぶ、です」
「……俺は許可出したからな」

低く呟いて、それ以上主任は何も言わなかった。ただ彼は静かにグラスを傾けていて、私は数瞬の間に底なし沼に落ちてしまったかのように意識を手放してしまった。


遠くで声が響いていた。誰かが誰かと話す声。海底から地上の音を聞くように、声の輪郭すらぼやけていたけれど、その声はとても心地よく鼓膜を振るわせた。

その片隅で、黒い渦が蠢いている。意識せずとも引き寄せられて、虚な頭に姿が浮かび上がる。──今、私の見る世界で生きるにはあまりにも若すぎる姿で。
大好きだった。大好きだったけど、叶わなかった。大事にするふりだけをして、大事にされなかった。
香煙が昇るように不敵に私の中に広がって、気が付いた時には毒されていた。綺麗な記憶だけが残って、離れた後も私の心を蝕んだ。

自分のことは棚に上げて、偉そうに講釈を垂れた。あの言葉の先にいたのは、自分自身。彼はあの頃の私だ。

ごめんね、主任。

誰に何と言われようと動くことができない想いがあること、雁字搦めになった自分自身がつらいこと、私もよく知っていたのに。
あなたに自分を重ねて、言わなくていいことを無遠慮にぶつけた。

私のこと、嫌いになったかな。一緒に暮らすの、嫌になったかな。
そう思われていても仕方ないけど……あの主任の笑った顔を見れなくなるのは、なんかやだなぁ……。


心地いい揺れと共に、遠くで声が聞こえる。
たおやかに掠れたその声が、「ありがとな」の5文字を辿った気がした。


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