突然ですが、契約結婚しました。
オフィスにはまだ人が残っている。みんなパソコンや書類に向かいつつ、意識はこちらに向けられているのがわかる。
まぁ、そうだよなぁ。結婚したって発表してからも私達、会社では夫婦らしい素振り全然見せてないし。……っていうか、仮面夫婦だし。
タイミングが重なった時は一緒に帰ったりもするけれど、そういう時は大抵みんな帰った後なので、こうやって人前でプライベートの話をするのは稀だ。

夫婦らしさを見せていないとはいえ、主任は上司や親族からの結婚はまだか攻撃からは逃れられているらしい。私も友達からの詮索を上手く潜り抜けられているし、ジンくんの姿はあれ以来見ていない。今のところ、結婚に至った当初の目的は果たせている。
私達の仮初の結婚生活は、付かず離れずの距離でそれなりに上手くいっていると思っている。


それが一体、どういうことでしょう。

「いらっしゃい、真緒。タマちゃん。温泉は好き?」
「……へ?」

カウンターに着くなり、突拍子のない質問が飛んできた。
構えていなかった私は、何とも間抜けな声を出してしまう。隣を見やると、眉間の皺。

「どういう意図の質問だそれは」
「わりと言葉通りだよ。温泉行きのチケットがあるってなったら、行くかなーと思って」

そう言ってテーブルの上を滑らされたのは、旅行会社のロゴが入った封筒だった。
目を丸くして顔を上げると、ニコニコ笑顔のタイガさんと目が合う。

「うちのオーナー……(ぜん)さんがね、友達と行くつもりで前々からチケット取ってたらしいんだけど、その友達がギックリ腰やっちゃって行けなくなったんだって」
「他の人誘えばいいだろ。善さん、顔広いんだし」
「それが、その友達とずっと一緒に行こうって言ってたらしくて。今更他のやつと行けるかって言うんだよ」
「……お前が行ったらいいじゃねぇか」
「土日のチケットなんだ。店閉めていいって善さんは言ってくれたんだけど、さすがにな」

日曜日はまだしも、土曜日は舁き入れ時のはずだ。店を閉めてまで旅行に行くわけには、というタイガさんの言い分もわかる。私達にお鉢が回ってきたのは、そういった理由があるからなんだろうと思うけど……。

「どうして、私達に?」

私が聞くと、タイガさんはニヤリとイタズラな笑みを浮かべた。

「面白いから。」
「理由になってへんわふざけんな」

すかさず主任の鋭いツッコミが入る。スピード感にはややついていけないけど、全くもって同感だ。
タイガさんは私達の結婚の真実を知る唯一の人物だ。私と主任が一緒に温泉に行く理由なんてないことは、重々承知のはず。
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