突然ですが、契約結婚しました。
食事処から部屋に帰りつき、2人で体をソファーに投げ出す。懐石料理を堪能したお腹は、我ながら妊娠中だっけ? と疑うほどの張り様。
……旅行終わったら、ちょっと運動した方がよさそうだなぁ。

「まだ時間早いですし、ゆっくりできますね」
「だなぁ。こんなに時間を贅沢に使うのも久々な気がする」
「ここ最近、ずーっとバタバタしてましたもんねぇ」

天井を仰いで記憶を巡らせる。入籍からというもの、私達は常に何かに追われていたような気がする。
こうしてゆっくりと息を吐く暇はなかったと、立ち止まった今、初めて気が付いた。

開いた窓から心地よい夜風が吹き込む。暗闇の向こうで、虫の声が音を奏でている。

「…………」
「…………」

テレビもつけず、ただ音色を聞いた。少しの間そうして、徐に主任が立ち上がった。その背中を目で追う。

「主任?」
「小澤。酒の回りはどんなもんだ?」
「お酒? ……ほろ酔い程度ですけど」

さっき、お食事と一緒に瓶ビール1本と日本酒を1合飲んだ。1人ではなく、主任と2人で。
それくらいで酔ったりはしないけれど、かといって素面のときほど責任能力に自信はない。

「さっき、風呂上がりに売店で買ったんだ。まだ飲めるなら、一緒にどうだ?」

そう言って彼が冷蔵庫から取り出したのは、缶ビールと300mlの瓶。ラベルには、大吟醸とある。おぉ、美味しそうな銘柄じゃないですか。

「……私達、お酒ばっかり飲んでません?」
「いいだろ。元々、酒の場で始まった縁だ」
「それもそうですね。飲み直しましょうか」

缶ビールのプルタブを開ける音が軽快に響いた。夜は肌寒く感じるこの季節に、キンキンのビールは少し冷たい。

「いただきます」
「おう」

素敵な旅館の一室。浴衣姿で、主任と2人でお酒を飲む。そんな姿を、誰が想像しただろう。
1年前の自分に言ったって、絶対に信じてもらえない。

「ぷはーっ、美味しい!」
「完全にオジサンの一口目だな」
「主任と違ってまだ20代です〜」
「どうせ俺は30超えたおっさんだよ」

口元に薄い笑みを浮かべて、彼が缶ビールを呷る。自虐っぽい口調とは裏腹に、その表情は余裕綽々だ。

「おっさんを自称するにはキラキラしすぎてません? 私達の結婚のこと知らない看護師さんとかに、未だに主任のこと聞かれることありますけど」
「担当の関係で、取引先には結婚のこと言ってないからな」
「同じ病院に出入りしてたりもしますし、迂闊に言えないですよねぇ。敢えてこちらから言うことでもないですし」
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