突然ですが、契約結婚しました。
食べ物は美味しいし景色は綺麗だし、空気は澄んでいた。
うん。来られてよかったな、慰安旅行。

「もぉ車かえしちゃうの?」
「いやだ、帰りたくないよぉ」

ふと、近くの席から子どもの声が聞こえてくる。何気なく顔を向けると、兄妹だろうか。男の子と女の子が、並んで誰かを見上げていた。
ふふ、そうだよね。楽しい旅行って、帰りたくないよね。

「そんなこと言ったって仕方ないだろ。ほら、座ってママ待ってような」

宥めているのは、見上げられていた人物。お父さんかな。
横目にその人物の姿を捉えて、視線を戻そうとしたところで──心臓が大きく跳ねた。

「パパ、あしたはおしごと?」
「そうだよ。2人も保育園だろ」
「いやだ! あしたもパパとあそびたい!」
「パパもそうしたい気持ちは山々だけどさぁ〜」

お父さんと2人の子ども、そしてこのフロアのどこかにいるお母さん。それは、幸せな家族の姿。

「……っ」

視線は、知らず知らずのうちに見知らぬ男性へと向く。……わかる。別人だ。
だけど、180cmを超える背丈に程よく日焼けした肌。緩めのスラックスに、さらりとシンプルなシャツ姿。──記憶の中の彼と、姿が重なる。

「あっ、ママだ!」
「お待たせ。手続き終わったよ」
「ありがとう。行こうか」

カウンターの方から女性が歩いてきて、自然と3人の輪の中に溶け込む。連れ立って歩いていく後ろ姿を、茫然と眺めた。

「お待たせ」
「…………」
「……小澤?」

手続きを終えて戻ってきた主任の問いかけに、上手く反応できなかった。心臓が暴れて、変な動悸がする。

「す……すみません、ぼうっとしてました。空港、向かいましょうか」

どうしよう。上手く笑えない。営業で培った笑顔の作り方なんて、何にも役に立たない。
歩き出そうとする私の腕を、主任が掴む。いつだったか、似たようなことがあったな。

「待て。顔色が悪い。……大丈夫か?」
「大丈夫、です。行きましょう」

大丈夫じゃない自覚はある。けど、去勢を張らなきゃ立っていられそうになかった。
もう10年近くも前のことなのに。今の人は、彼じゃないのに。一瞬にして、当時の記憶が呼び起こされた。

『環を1人にしたくないって思った』
喉から手が出るような無責任な言葉を言い置いて、彼は遠慮なく私の手を解いた。堪らなく望んだ彼の、私が手に入れることが出来なかった姿を、彼の幸せな今を、突きつけられたようで。──そこにいるのは、いつだって私じゃない。

「……つらくなったらすぐ言えよ。無理はするな」

主任の気遣いに、私は点頭で返すことしか出来なかった。

どれだけ他の(ひと)で塗り替えようとしても、どれだけの時間が経っても変わらない。あの男は、今も変わらず生傷だ。


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