突然ですが、契約結婚しました。
世界から隔絶されたような人気のない空間も何だか居心地が悪くて、階段を降りる足は知らず知らずのうちに駆けていた。

「何の用、って、あんたね。私に言ってないことあるでしょう」
「……言う必要のあることは、全部言ってるつもりだけど」
「それ、本気で言ってるの?」

電話口の向こうで、呆れたように息が吐かれた。現状、心当たりがあるとすれば一つだけ。だけど、長らく連絡も取り合っていなかったのに、どこから知れることがあるんだろう。

「この間、戸籍謄本を取り寄せたの。びっくりしたわ、いつの間にかあんたが除籍されてたんだもの」
「あー……なるほどね」

そりゃ、この上ない証拠だわ。……別に、知られたくないってわけじゃないんだけど。

「結婚した。今年の夏前に」

大通りを大股で歩く。恋人達が寄り添う季節でも、オフィス街のこの辺りはいつもとあまり変わらない。少しの疲労を浮かべて、コートやダウン姿のサラリーマンが歩いているだけだ。

「……そう」

吐息に混じって、彼女の返事が寒空に溶ける。怒られるんじゃないかという予感は杞憂に終わりそうだ。

「っていうか、なんで戸籍謄本なんて取り寄せたの?」

早く話題を変えたくて、浮かんだ疑問を遠慮なく投げる。戸籍謄本なんて、普通に生きていたら、まず意識することもない代物だ。
戸籍謄本を取り寄せるほど近しい親戚が亡くなったとかだったら、さすがに一報くらい入るだろうし。あ、そういえばパスポート取る時は戸籍謄本必要だったっけ。海外にでも行くのかな。

「役所の届けに必要だから」
「へ……?」
「今月の初めに、再婚したの」

逡巡していた私の耳に、思いもよらない台詞が飛び込んできた。澄み切った空に稲光が走る。そんな衝撃だった。
駅まであと少し、というところで足は自然と止まった。対向から来る車のヘッドライトがやけに眩しく虹彩を照らす。

「私の名字も変わるから、一応あんたには言っておこうと思って電話かけたんだけど」
「……あ」

以前、着信が入っていたことを思い出す。あの時はスルーしてたけど、寝耳に水にしていたのは私の方だったのか……。

「そっ、か」

びっくりした。どんな人なの? 仕事は辞めてないの? 今回は……ちゃんと、家族やっていけそうなの……?
頭の中に言葉は湧いてくるのに、何一つ声にはならずに通り過ぎていく。思ったことを遠慮なくぶつけるには、少し距離が空きすぎてしまった。
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