突然ですが、契約結婚しました。
「予想外の再会だっただろうけどさ、今更どうにかなるもんでもないし、あんまり深く考えすぎないほうがいいよ」

からりと明るい声で優しく諭すように言われて、私もまた曖昧な微笑を口元に貼り付けた。


帰宅後、お風呂から上がったタイミングで玄関の鍵が外側から開けられた。ギクッとしたのも束の間、冴ゆる夜道で鼻面を僅かに赤く染めた主任が姿を現す。

「ただいま」
「おかえりなさい」

お風呂上がりのあられもない姿で、主任が靴を脱ぎ揃えるのをぼうっと眺める。

「早かったですね」
「早いって、終電後だぞ」
「だって、あの時間からお店に来たじゃないですか」

終電が迫るあの時間に来るということは、終電を逃す前提での来店だったはず。それを思うと、随分早い帰宅に思えた。

「もう若くないからな。あんまり遅くまでは体に堪えるんだ」
「えぇ? なんですかそれ」

だったらバーになんて立ち寄らず電車があるうちに帰ってこればいいのに。
水を飲むべく、主任の後を追ってリビングに足を踏み入れる。彼もまたネクタイを緩めてキッチンに入ってきた。

「お水ですか?」
「あぁ」
「私入れますよ」

カゴに伏せていたグラスを取り、冷蔵庫で冷やしていたミネラルウォーターを注ぐ。

「どうぞ」

キッチンの入り口に立つ主任に差し出すも、彼はすぐには受け取らず、私をじっと見つめている。

「なんですか? 顔薄いなぁとでも思ってます?」
「そんなこと思ったことないし、思ったとしても今更だろ」

それも確かに。だったら何だろう。お風呂のついでに歯も磨いたから、何か詰まってるなんてこともないはず。
首を傾げた私に、主任の薄い唇が動く。

「遠山さん」
「……っ!」

彼が口にした名前に、思わず肩が跳ねた。その微動を、主任は逃さない。

「もしかしてと思ったんだが……やっぱり、知り合いか?」

遠慮がちに、それでいて遠慮のない問い。私は小さく顎を引いた。
差し出したグラスがようやく受け取られる。一杯の水をぐいっと呷って、主任の瞳は再び私を捕えた。
問い詰めるでもなく、ただ彼は静かに私を見ている。私の言葉を待っている。
機会を与えられてなお逃げるような臆病者にはなりたくなかった。

「昔の恋人、です。主任にも、いつか話をしたことがあります」

あれは確か、慰安という名目で行った温泉旅行の旅先で。あの時はまさか、俎上に載せた彼と主任が知り合うだなんて予想だにしていなかった。
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