叶わぬ恋ほど忘れ難い
しっかりしろ、あの人はもう既婚者だ、もう人のものだ、と何度も自分に言い聞かせた、数日後。朝番で入っている浅野さんが、夕飯時を過ぎて閑散としていた店に、旦那さんとお子さんと一緒に遊びに来た。
三歳だという日菜ちゃんは、両膝をついて目線を合わせたわたしの手を掴んで、じっとこちらを見つめていたが、「こんばんは」と声をかけると、にこっと笑って「こんばんは」と返してくれた。
あまりの可愛さに、抱き締めてしまいたい衝動をぐっと堪えていると、レジ奥のパソコンデクスにいた店長がやって来た。
店長は浅野さんと旦那さんに挨拶し、数言交わすと、わたしの隣に片膝をつき、日菜ちゃんの顔を覗き込む。
日菜ちゃんはわたしの左手を掴んだまま、空いている手で店長の右手を掴んだ。
わたしにも興味があるけれど、店長にも興味がある。そんな様子が可愛すぎて、抱きしめたい衝動をさらに必死で隠そうとするけれど、上手くいかずに「ふわぁ……」と変な声が漏れた。
それに気付いた店長がくすっと笑ってこちらを見るから、すっと顔を背けておいた。
「ねえ、浅野さん、抱っこしてもいい?」
「いいよ、うちの子人見知りしないから、多分大丈夫だと思う」
「じゃあお言葉に甘えて。日菜ちゃん、お兄さん抱っこしてもいい?」
きちんと日菜ちゃんに確認を取り、彼女が了承するのを待ってから、店長は「崎田さん、ちょっとこっちに寄って」と言ったのだった。
呼ばれて視線を戻すと、日菜ちゃんは店長の逞しい腕に抱きかかえられ、でもわたしの左手はしっかりと掴んだままだったから、慌てて店長側に身体を寄せた。
日菜ちゃんは店長の太ももに乗って、右手で店長のシャツを掴み、嬉しそうに笑う。店長も「可愛いなあ」と幸せそうな声を出して笑った。
それに応えるように日菜ちゃんは、店長の胸元に小さな顔を擦り付ける。
ああ、ずるい、と思ったのは、日菜ちゃんにではなく、店長に対してだ。わたしだって抱っこしたかったのに!
そんな心の叫びが聞こえたのか、浅野さんはくすくす笑って「良かったら崎田さんも」と言ってくれた。
「え、いいんですか?」
「いいよー、抱っこしてあげて」
「ありがとうございます。ってことで店長、わたしにもかわいこちゃんを抱っこさせてください」
「えー、今俺が日菜ちゃんを独占してるのに?」
「いえ、見てください、日菜ちゃんの手を。わたしの手を掴んでいます。なので独占中ではないのです」
「しょうがないなあ。ほら、日菜ちゃん、今度はお姉さんが抱っこしてくれるって」
しょうがない、と言いつつ、店長の顔は幸せそうで。そんな表情を、いつもよりもずっと近い距離で見てしまったから、心臓がばくんと跳ね上がった。