愛でて育てたあの子は、いつしか私に優しい牙を剥く
1.息子のように可愛いあの子
駆け落ち同然で一緒になった二人を、手放しで祝福できていたかと言えば、自信はない。
生家を捨て、親を捨て、安定して続くはずだった人生のレールさえもなぎ払い、そんな不確かな愛のために突き進む親友を、私は止めるべきだったのかもしれない。
ただ、まもなく一人息子を授かって、幸せそうに微笑む若い夫婦を見ていると、これはこれで正しかったのかもしれないとも思えた。
その愛する幼い息子を遺して、二人が突然いなくなってしまうまでは…
「駆け落ちだったんですって」
「だから、弔問の数も少なかったのね」
「若いのに、葬儀に来てくれるお友達もあまりいないなんて、おかしいと思ったのよ」
「そうそう、それにね!両家の親御さんたちが、隣の大広間で大揉めしてるみたいで」
「訳ありなのね…」
どこから二人が駆け落ちしたなんて情報を耳に入れたのか、葬儀屋の従業員がこそこそと話をしていた。
別に駆け落ちしたからって、何か罪を犯したわけでも何でもない。
赤の他人に非難される謂れはないのに。
今、それが許される人間はただ一人。
葬儀も滞りなく済み、帰りの挨拶をと大広間の分厚い扉を開いた。
だだっ広い部屋の中央に長いテーブルだけが鎮座している。
その前方の方に10人ほどが密集して座していた。
「で、どうするんですか?あの子。誰が引き取るの?」
「うちは我が子達だけで、すでに4人もいるんでね、とてもとても…」
「そもそも今日初めて会った子を、突然引き取れと言われてもねぇ」
彼らの話題は、若い夫婦が遺した10歳になったばかりの子供のことだ。
「あなた、私たちの孫なんですよ?ここはどうか穏便にうちで…」
「ふん、勝手にどこの馬の骨かも知れん男と出ていった娘の子など、我が家の孫なぞとは認められん」
「どこの馬の骨とは心外ですね、うちの息子をたぶらかしたのはお宅の娘さんじゃないですか!」
「いやいや、今はそんなことよりも、あの子の引き取り先を…」
聞くに耐えない押し問答が、延々と続いているようだった。
ふと見回すと、広い部屋の片隅で、白いシャツと黒いスラックスに身を包んで、壁にもたれたまま俯く子供の姿がある。
そう、こんなつまらない親族の中へ、突然この身を放り込んだ両親を非難していいのは、この子だけなのだ。
私は帰りの挨拶すら忘れて、その子の傍へと歩み寄った。
「龍くん」
しゃがんで声を掛けると、その子がハッとして顔を上げた。
目の前にいるのが私だと分かると、ほんの少しだけ笑顔を見せた。
「遥ちゃん!!」
「何か食べた?喉乾いてない?」
「さっきオレンジジュースもらったから、大丈夫だよ」
「そっか。お腹は空いてない?」
「大丈夫、お腹は空いてないから。遥ちゃんはもう帰っちゃうの?」
不安げな幼い瞳が、私を見つめていた。
「そうだね、そろそろ帰らないと…」
「僕、どうなっちゃうのかな?パパもママも死んじゃって…これからどこで暮らすんだろう?」
まだ10歳になったばかりの子にとって、とても酷な状況であることは、どこをどう見ても明白だった。
お通夜も葬儀も含めて、この子の泣く姿はまだ一度も見ていない。
ああ、まだ現実を受け入れられていないんだな…
うっすらとそんなことを考えていると、後ろで怒鳴り声が響いた。
「いい加減にしてくれ!うちの息子をたぶらかした女が産んだ子など、孫なんかではない!うちでは引き取らん!お宅で何とかしてくれ!」
「ふざけるな!うちの娘を傷物にして、子供まで産ませたのはどこの男だと思っているんだ?!」
醜い言い争いに、とっさに耳を塞いだのは、私の目の前にいるこの子だった。
両耳を両手で塞ぎ、ぎゅっと瞑った目には涙が溜まっていた。
幼いながらに、きっとこの大人たちのえげつない会話を、きちんと理解しているのだと悟った。
たとえ血が繋がっていようとも、こんな人間たちに引き取られて、この子は果たして幸せだろうか?
これから先の人生を、幸せな時間の中で、育っていけるのだろうか?
いや、今すでにこの状況で、そんな幸せな未来なんてあるはずがない!
「あ、あのっ!!」
気が付くと、自分でも驚くほどの大きな声を出していた。
「え、あ、遥夏ちゃん…?」
そう私の名前を呼んだのは、親友の母親だった。
親友とは高校から一緒で、もちろん彼女の親も私のことをよく知っていた。
振り返って、急に大声を出した私に、その場にいた全員の視線が降り掛かった。
「私がこの子、連れて帰ります!」
一同がざわめいた。
私のすぐ横に立っていたその子も、驚いた顔でこちらを見上げていた。
「私、それなりの会社にも勤めていますし、それなりの収入もあります。子供を育てたことはありませんが、この子のことは産まれた日から知っています!何の食べ物が好きで、いつもどんな遊びをしているのか、どんなに優しい子で、どれほどしっかりした子なのかもよく知っています!!」
若くして亡くなった夫婦の両親も、その場にいる親族たちも困惑の表情を浮かべた。
「でも、未婚でまだ若いあなたが、一人でよその子を育てるなんて、簡単じゃないのよ?」
そう言ったのは、親友の義母にあたる人のようだった。
「私も、簡単ではないと思います。でも、この子の目の前で無神経な言い争いをして、挙げ句誰一人として、この子に寄り添おうとしていない、そんなあなたたちにこの子をまともに育てられるとは思いません!」
誰もそれに反論できる人間はいなかった。
「龍くんはどうしたい?」
私は、隣で羨望にも似た熱い眼差しをこちらに向ける幼いその子に、結論を委ねた。
答えはすぐに返ってきた。
「遥ちゃんっ……………!僕、遥ちゃんと暮らす!!遥ちゃんがいい!!!」
ああ、あの時の涙と安堵の喜びに満ちたあの子の顔を、私は一生忘れないだろうと思った。
決して後悔はしない。
いくら前途が多難でも、たとえ私の結婚が遠退いたとしても、今ここでこの子を、ここに残していくことだけはしたくなかった。
幼い手を引いて、斎場をあとにしたあの日を、私はまだありありと思い出せる。
これからは私がこの子にありったけの愛情を注いであげよう。
実の両親が与えてあげられなかった分まで、時には叱ることもあるだろうけど、迷惑になるぐらい可愛がって育てよう。
監護の義務を失う、この子が二十歳になるその日まで。
生家を捨て、親を捨て、安定して続くはずだった人生のレールさえもなぎ払い、そんな不確かな愛のために突き進む親友を、私は止めるべきだったのかもしれない。
ただ、まもなく一人息子を授かって、幸せそうに微笑む若い夫婦を見ていると、これはこれで正しかったのかもしれないとも思えた。
その愛する幼い息子を遺して、二人が突然いなくなってしまうまでは…
「駆け落ちだったんですって」
「だから、弔問の数も少なかったのね」
「若いのに、葬儀に来てくれるお友達もあまりいないなんて、おかしいと思ったのよ」
「そうそう、それにね!両家の親御さんたちが、隣の大広間で大揉めしてるみたいで」
「訳ありなのね…」
どこから二人が駆け落ちしたなんて情報を耳に入れたのか、葬儀屋の従業員がこそこそと話をしていた。
別に駆け落ちしたからって、何か罪を犯したわけでも何でもない。
赤の他人に非難される謂れはないのに。
今、それが許される人間はただ一人。
葬儀も滞りなく済み、帰りの挨拶をと大広間の分厚い扉を開いた。
だだっ広い部屋の中央に長いテーブルだけが鎮座している。
その前方の方に10人ほどが密集して座していた。
「で、どうするんですか?あの子。誰が引き取るの?」
「うちは我が子達だけで、すでに4人もいるんでね、とてもとても…」
「そもそも今日初めて会った子を、突然引き取れと言われてもねぇ」
彼らの話題は、若い夫婦が遺した10歳になったばかりの子供のことだ。
「あなた、私たちの孫なんですよ?ここはどうか穏便にうちで…」
「ふん、勝手にどこの馬の骨かも知れん男と出ていった娘の子など、我が家の孫なぞとは認められん」
「どこの馬の骨とは心外ですね、うちの息子をたぶらかしたのはお宅の娘さんじゃないですか!」
「いやいや、今はそんなことよりも、あの子の引き取り先を…」
聞くに耐えない押し問答が、延々と続いているようだった。
ふと見回すと、広い部屋の片隅で、白いシャツと黒いスラックスに身を包んで、壁にもたれたまま俯く子供の姿がある。
そう、こんなつまらない親族の中へ、突然この身を放り込んだ両親を非難していいのは、この子だけなのだ。
私は帰りの挨拶すら忘れて、その子の傍へと歩み寄った。
「龍くん」
しゃがんで声を掛けると、その子がハッとして顔を上げた。
目の前にいるのが私だと分かると、ほんの少しだけ笑顔を見せた。
「遥ちゃん!!」
「何か食べた?喉乾いてない?」
「さっきオレンジジュースもらったから、大丈夫だよ」
「そっか。お腹は空いてない?」
「大丈夫、お腹は空いてないから。遥ちゃんはもう帰っちゃうの?」
不安げな幼い瞳が、私を見つめていた。
「そうだね、そろそろ帰らないと…」
「僕、どうなっちゃうのかな?パパもママも死んじゃって…これからどこで暮らすんだろう?」
まだ10歳になったばかりの子にとって、とても酷な状況であることは、どこをどう見ても明白だった。
お通夜も葬儀も含めて、この子の泣く姿はまだ一度も見ていない。
ああ、まだ現実を受け入れられていないんだな…
うっすらとそんなことを考えていると、後ろで怒鳴り声が響いた。
「いい加減にしてくれ!うちの息子をたぶらかした女が産んだ子など、孫なんかではない!うちでは引き取らん!お宅で何とかしてくれ!」
「ふざけるな!うちの娘を傷物にして、子供まで産ませたのはどこの男だと思っているんだ?!」
醜い言い争いに、とっさに耳を塞いだのは、私の目の前にいるこの子だった。
両耳を両手で塞ぎ、ぎゅっと瞑った目には涙が溜まっていた。
幼いながらに、きっとこの大人たちのえげつない会話を、きちんと理解しているのだと悟った。
たとえ血が繋がっていようとも、こんな人間たちに引き取られて、この子は果たして幸せだろうか?
これから先の人生を、幸せな時間の中で、育っていけるのだろうか?
いや、今すでにこの状況で、そんな幸せな未来なんてあるはずがない!
「あ、あのっ!!」
気が付くと、自分でも驚くほどの大きな声を出していた。
「え、あ、遥夏ちゃん…?」
そう私の名前を呼んだのは、親友の母親だった。
親友とは高校から一緒で、もちろん彼女の親も私のことをよく知っていた。
振り返って、急に大声を出した私に、その場にいた全員の視線が降り掛かった。
「私がこの子、連れて帰ります!」
一同がざわめいた。
私のすぐ横に立っていたその子も、驚いた顔でこちらを見上げていた。
「私、それなりの会社にも勤めていますし、それなりの収入もあります。子供を育てたことはありませんが、この子のことは産まれた日から知っています!何の食べ物が好きで、いつもどんな遊びをしているのか、どんなに優しい子で、どれほどしっかりした子なのかもよく知っています!!」
若くして亡くなった夫婦の両親も、その場にいる親族たちも困惑の表情を浮かべた。
「でも、未婚でまだ若いあなたが、一人でよその子を育てるなんて、簡単じゃないのよ?」
そう言ったのは、親友の義母にあたる人のようだった。
「私も、簡単ではないと思います。でも、この子の目の前で無神経な言い争いをして、挙げ句誰一人として、この子に寄り添おうとしていない、そんなあなたたちにこの子をまともに育てられるとは思いません!」
誰もそれに反論できる人間はいなかった。
「龍くんはどうしたい?」
私は、隣で羨望にも似た熱い眼差しをこちらに向ける幼いその子に、結論を委ねた。
答えはすぐに返ってきた。
「遥ちゃんっ……………!僕、遥ちゃんと暮らす!!遥ちゃんがいい!!!」
ああ、あの時の涙と安堵の喜びに満ちたあの子の顔を、私は一生忘れないだろうと思った。
決して後悔はしない。
いくら前途が多難でも、たとえ私の結婚が遠退いたとしても、今ここでこの子を、ここに残していくことだけはしたくなかった。
幼い手を引いて、斎場をあとにしたあの日を、私はまだありありと思い出せる。
これからは私がこの子にありったけの愛情を注いであげよう。
実の両親が与えてあげられなかった分まで、時には叱ることもあるだろうけど、迷惑になるぐらい可愛がって育てよう。
監護の義務を失う、この子が二十歳になるその日まで。
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