愛でて育てたあの子は、いつしか私に優しい牙を剥く

3.親だと思ったことなんかない

今日のためにと買った、ミントグリーンのワンピースがひらりと宙を舞った。
そしてそのまま押し倒されるように、ベッドへと倒れ込んだ。

両腕を頭上で押さえ付けられては、身動きが取れない。

何でこんな事態に陥っているのか、理性でもってしても到底理解できそうにない。

皮肉にも、耳の真横に突き立てられた腕には、さっき私がプレゼントした新品の腕時計の文字盤が、暗い部屋に射し込む月明かりに反射して、光って見える。

「遥ちゃんは隙がありすぎるよ。もっと自覚した方がいい、思ってる以上にちゃんと女だってこと」

暗がりの中で、冷たくそう言った龍斗の顔は、これまで見たこともないほどの色気に満ちていて、まるで知らない男のように見えた。

「龍斗…?」



遡ること二時間ほど前。

美味な料理とお酒を堪能し、大事な息子同然である龍斗の二十歳のお祝いもできて、私は満足していた。
確かにこれで二人の繋がりが完全に絶たれる訳ではない。
でも、監護義務を失う二十歳を迎えたという事実に、安堵感は否めなかった。

寂しい気持ちと、やっとここまできたんだという複雑な心境に支配されつつ、支払いを済ませて店を出た。

お手洗いに行った龍斗を外で待っていると、見知らぬ男性から声を掛けられた。

「お姉さん、一人?よかったらこれからバーにでもどう?」

振り返ると、スーツ姿の男性がこちらを向いて立っていた。

マスク生活の面倒臭さは、時にこういうときにも発揮される。

「あー…若く見えたのなら申し訳ないけど、私結構歳いってるから、他当たってもらえる?」

「えー!ホントに?」

そう言って男が、おもむろに私のマスクを下げた。

「ちょっ、何するんですか!」

「え!全然キレイじゃん!行こうよ、飲み」

「行きません、人待ってるので!」

無理やり下げられたマスクをつけ直しながら、少し強い口調で言い放った。

「またまた~少しぐらいいいでしょ?行きましょうよ」

39にもなって、こんな軽いナンパに遭うなんて、逆に恥ずかしい…

するりとその場からすり抜けて立ち去ろうとすると、腕をガシッと掴まれた。

「待ち人来たらずじゃん!行こ!バーで俺の友達も待ってるし」

更にそのまま引きずられるように、男の方へと引き寄せられる。
その拍子に、手にしていたクラッチバックが地面に落ちた。

「だからっ、行きませんってば!しつこっ…痛っ…」

強い力で更に引っ張られようとしたとき、私の後ろから延びてきた長い腕と大きな手が、男の手首をグッと掴んで私の手から放した。

「嫌がってるの、分かりません?」

「龍斗…!」

「何だよ、男いんのかよ。てか、男若っ!大学生??私若くないとか言っといて、こんな若い奴と付き合うとか、よくやるな」

「いや、だから龍斗はそんなんじゃ…」

カチンときて、思わず否定しようとした私の声を龍斗が遮った。

「だったら何ですか?年の差あったらいけませんか?」

「マジかよ…キモっ…」

真っ向から真顔で返す龍斗に舌打ちをすると、男は、そう捨て台詞を吐いて去って行った。

「キモって…失礼過ぎるでしょ!自分で声掛けといて!こんなおばさんナンパするあなたの方がキモいのよ!っていうか、龍も何で否定しないのよ!!」

助けてくれたお礼も忘れて、思わず龍斗に説教染みた口調で言ってしまう。

龍斗は、引っ張られたときに落ちた私のクラッチバックを、黙って拾ってから歩き出した。

「あ、ちょっと龍!待ちなさいったら!」

アルコールも程よく回り、更にヒールのまま急に駆け出したせいで、足がもつれて倒れ掛けてしまった。
しかし、先を歩いていたはずの龍斗の太い腕が、私の身体をがっしりと支えてくれたおかげで、派手に転ばずに済んだ。

さっき助けてくれたときといい、今といい、龍斗ってこんなに力強かったのね…

なぜかそんなことを改めて感じた。
何とも言えない気分のまま、無言で歩く龍斗のあとについて帰路に着いた。

龍斗が玄関の鍵を開けて入った後ろから、私も家へと入る。
片方ずつヒールを脱ぎながら、先に靴を脱いで家に上がる黙ったままの龍斗の背中に、声を掛ける。

「さっきはありがとね、助けてくれたり支えてくれたり。もう歳だよね、あれぐらいでよろけちゃってさ!しかもこんな歳でナンパとかされて、逆に恥ずかしいっていうか、一緒にいた龍斗の方が恥ずかしい思いしたよね!ごめん…ね…」

そう言い終わるか否かのところで、急に腕を強く掴まれた。
脱ぎかけの片方のヒールが、玄関でコンと足から滑り落ちたが、そんなのお構いなしに龍斗が私を引っ張って、自分の部屋へと連れ込んだ。

「ちょっ…龍っ…痛い!どうしたのっ…?!」

「その無自覚のせいで、俺がどれだけ…」

「え?!何っ…?!」

呟くように言った龍斗の言葉を、うまく聞き取れなくて聞き返したが、言い直してはくれず、そのままベッドへと押し倒された。



そして話は冒頭へと戻る。

真新しい時計の秒針の音が、薄暗く静かな龍斗の部屋でカチカチと耳に響く。

「知らない男に、あんなに易々(やすやす)と触られて…。何で(おとこ)と一緒だって早く言わないの?」

私の上に、覆い被さったままの龍斗の顔がすぐ目の前にある。

「それはっ…龍斗は男じゃなくて息子みたいなものだしっ…!それに触られてって、ちょっと腕掴まれただけよ?」

「だから!そういうとこだよ!」

急に声を荒げた龍斗に私は目を丸くした。

「…そういうとこって…」

「遥ちゃんは何も分かってない」

龍斗が辛そうに、そう言って私を見つめた。

「…何もって…?」

その様子が、尋常じゃないように感じられて密かに息をのんだ。

「遥ちゃんに触れたいのを、今まで俺がどれほど我慢してきたと思うの?」

その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
と同時に、私を真っ直ぐ見つめて切なく潤むその瞳に、思わず声も失ってしまう。

そんなことを聞かれても知らない。
答えようもないほどに、理解ができない。

「何を言ってるの?今日の龍、ちょっとおかしいよ?お酒回ってるんじゃない?」

龍斗の腕を押し退けて起き上がろうとしたが、私を押さえつける龍斗の腕の力が強まり、またベッドへと押し戻されてしまう。

「ずっと我慢してた…。遥ちゃんは若いし、実の親でもないのに、俺のせいで結婚もできないでいるって分かってた。けど、遥ちゃんの恋愛に、どうこう言える立場ではなかったから、これまで…」

「龍…斗…?」

苦しげに、胸の奥から絞り出すように話す龍斗の声が少し震えていた。

「だから、遥ちゃんが男の匂いをさせて帰って来る日もあったけど、子供の俺にはずっと何も言えなくて、ただ見て見ぬふりをするしかなかった」

そう言われてしまっては、もう何も発することができない。

監護義務は負っていても、だからと言って私の恋愛までも制限されることはない。
確かに、もう少し若い頃は、そういうことも何度かあったかもしれない。

慣れない育児に疲れて、父親代わりを求めようとしたこともあった。

けど、それを悟らせないよう、最低限の配慮はしてきたつもりだった。

それを、龍斗がそんな風に思っていたなんて、考えもしなかった。

「もうこれ以上、誰にも触れさせたくない」

その力強い声は、生半可な意思ではないと、私でも分かった。

「大人になって、俺の監護義務がなくなったら、男として接するつもりで生きてきた、ずっと」

でも、この言葉がどれだけ本気だとしても、むろん私の頭はまだ全くついていかない。

「…何を言っているの?私のことからかってるんだったら、すぐにやめなさい。まだ今なら聞かなかったことにしてあげるから」

そう答えることしかできなかった。
そしてそれが私の本心で、望みだったのかもしれない。

「まだ分かってくれないんだね、俺がどれほど本気なのか」

「分かるわけないでしょ?!そんな話…!」

「じゃあ分からせてあげるよ、俺も男だって」

そう言って、龍斗が熱い吐息がかかるほどに、顔を私の首元へと(うず)めると、首筋に龍斗の柔らかい唇が触れた。

ぞくぞくとした感覚が、身体中を駆け巡る。

「やめなさい…龍っ…!龍ったら!…ねっ、もうっ、ちょっ、やめなさいってば!龍斗!!」

どんなにもがいても、龍斗の逞しい腕はびくともしない。

「もう、我慢しない」

目の前にある龍斗の漆黒の瞳が、思ったよりも真剣で、なぜかゾクリと背筋が疼いた。

「ちょっ…やだっ!やめて!龍斗がこんなに酒弱かったなんて!母親は酒強かったわよ!」

「俺、酔ってないよ」

そう言って口付けてくる龍斗からは、さほどアルコールの香りは漂ってこない。

「んぅ…」

押さえ付けられた腕がベッドに沈むと同時に、龍斗の口唇もどんどん深く押し入ってくる。

ダメ、こんなの!
普通じゃない!
私たちはそんな関係には、なり得ないはずなのに!

舌が入り込んできたところで、渾身の力を込めて思わず龍斗の胸を突き飛ばした。

「やめてったら…!私は親なのよ?!」

力一杯に突き飛ばしたつもりだったが、龍斗はさほど衝撃を受けてはおらず、一歩ほど後ろに下がっただけだった。

それも否応なく、龍斗が男性であることを改めて示唆しているようで、どうしようもないやるせなさを沸き上がらせた。

「そもそもこんなキス、どこで覚えてきたのよ?!そんな子に育てた覚えはないんだけど」

「俺、もう子供じゃないよ」

その大人びた雰囲気を纏う龍斗が発した現実は、紛れもない事実でしかなかった。

あぁ、もう子供ではない。
あの可愛かった幼い龍斗は、もうどこにもいない。
いつの間にか、私にこんな甘い牙を剥くほどの、大人の男になってしまったのだ。

「…だけど、これまでもずっと親子同然に暮らしてきたじゃない。今さら…」

「俺、親だと思ったことなんかないよ、遥ちゃんのこと」

「………え?」

思わず耳を疑って聞き返した。

「遥ちゃんが俺を引き取ってくれたあの日から、遥ちゃんを親だなんて思ったことは、一度もなかった」

一点の曇りもなく、そう言いきった龍斗の瞳は怖いくらいに澄んでいて、思わず引き込まれそうになる。

「…龍斗、何言って…」

「感謝ならレストランでも言ったように、山ほどしてるよ。でもずっと、早く大人になりたくて仕方がなかった!遥ちゃんと並んで歩いても、子供に見られないように!」

今にも崩れそうな表情で、目線を反らさず言う龍斗の声に、心が押し潰されそうになる。

こんなことを言う龍斗は知らない。

「…でも成長すればするほど、今度は遥ちゃんに触れたくて触れたくて、でもそれを知られないように我慢するのが、どんなに苦しかったか。遥ちゃんにはきっと分からないよ」

「そっ、んな…触れたいって、小さい頃から何度も手だって繋いできたし、一緒にも寝てたし、抱き締めてもきたじゃない!」

「…そんなんじゃないって、さっきのキスで本当は、遥ちゃんだって気付いたくせに。ここまできて誤魔化すなんてズルいよ」

「当たり前じゃない…。私は、そんなっ…、そんな風に龍斗を見たことなんて一度もないのに、急にそんなこと言われても…頭が追い付くはずないでしょ!!」

龍斗は押し黙ったまま、それ以上何も言わなかった。
正確には、何も言えなかったのかもしれない。

「そんなに他人になりたいんなら、望み通り今すぐ他人になってあげるわよ!とにかく今日から私の部屋に入るの禁止だから!」

私のその言いぐさを目の当たりにしてから、傷付いたようにそっぽを向いた龍斗を放置して部屋を出ると、激しくドアを閉めた。

ふざけないでよ!
親だと思ったことはないって?!
龍斗だって、 私が今までどんな気持ちであなたを育ててきたかも知らないくせに!

急にそんなこと言われても!

リビングを挟んで向かいにある自室に入ると、急に
全身の力が抜けたかのように、その場にへたりこんだ。

足が震えてる?

確かにさっきの龍斗は、私の力では、もう敵うことのない大人の男だった。

「なんでよ…?なんで、そんなこと言うのよ…?」

真っ暗な部屋の中でドアに寄り掛かりながら、私は前髪をぐしゃっと掴んで俯いた。
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