愛でて育てたあの子は、いつしか私に優しい牙を剥く
4.見方を変えれば違うもの
きっと世の中には、知らなくていいこともたくさんある。
むしろ、一生知らないままでいた方がよいことだって、あるのだと思う。
夕飯を済ませていると、部屋から出てきた龍斗が、ちらりと一瞬だけこちらに目を向けてから、キッチンを素通りしてバスルームへと向かう。
私もそれを尻目に、無言のまま食事の手を進める。
もう一週間もこの状態だ。
龍斗の気持ちを知ってしまってから、どう接すればいいのか分からない。
龍斗もきっと何か言いたいことがあるのだろうが、言い出すきっかけを掴めないでいるように見える。
きっかけを与えないよう、無意識に接しているのは、きっと私の方だとちゃんと分かってはいるのだ。
ただもう何を言われても、どう答えたらいいのか分からない。
何が正解で間違いなのか、どれも間違いではないのか、どれも正しいのか。
それすらも分からない。
お風呂から上がって、龍斗が濡れた髪をタオルで拭きながら、リビングを通り過ぎて行く。
私はその後ろ姿を、改めてまじまじと見つめた。
細いのに程よく筋肉のついた広い背中、逞しい二の腕、太くしっかりとした首筋…
改めてよく見てみれば、そのどれもが子供のときとは全然違う。
何で今まで気付かなかったんだろう。
いや、気付こうとすらしていなかった。
もしかしたら、気付きたくなかったのかもしれない。
よく考えれば、決して悪くはないルックスなのに、今まで色恋の話なんか1つも聞かなかった。
モテないわけはない。
そもそも、あの押し倒し方だってあのキスだって、とてもじゃないけど、初めての感じではなかった。
何なら、それなりに慣れていた気さえする。
ふと複雑な心境になった。
誕生日の朝、他の女には興味ないって言ってたじゃない。
あれ、私のことだったんじゃないの?
龍斗だって、私の知らないところで、やることはやってたんじゃない。
我慢してたなんて言っといて。
違う。
我慢してた分、外でそれを埋めるしかなかったのかもしれない。
いや、それはそれで、相手の子からしたら最低な男じゃないか?
「やっぱり、いろいろ育て方間違えたわ…」
はぁとワイングラスを持ったまま頭をもたげて、溜め息をついた。
「今日、用事でデパ地下寄るから、夕飯お総菜にするけど、何かいる?」
仕事終わりの移動中のバスの中で、急いでスマホに打ち込んだ文字を送信した。
ずっとこのままの状態でいるわけにはいかない。
どちらにしろ、歩み寄る必要はあるのだ。
監護義務はなくなったとしても、このまま離れることだけはしたくない。
「いらない。自分でカップラーメンでも食べるから」
すぐに鳴った通知音にスマホを開くと、ぶっきらぼうな文字列が並んでいた。
何その言い方!むっっっかつくううぅぅぅっ!!
せっかく気に掛けてあげたのに!
カバンと、本当に一人分だけのデパ地下の袋を下げながら帰路に着いた。
絶対に分けてあげないんだから!
そんなくだらない怒りを脳内で繰り返しながら、自宅マンションの近くまで来て、はたと立ち止まった。
マンションのエントランス前で、若い男女が談笑をしている。
入りにくいな…と思いながら近付くと、若い男が龍斗であることに気付いて、思わず声を出してしまった。
「あっ…」
その声に二人が振り返った。
「こんばんわ」
ふんわりとした小花柄のワンピースを夜風に揺らして、龍斗の横にいた女の子が笑顔で会釈をした。
「あ、こんばんわ」
「えっと、こっちがさっき話した俺の保護者」
龍斗の発した保護者という言葉に、初めて違和感を感じた。
それで間違いはない。
今までも保護者としてしか接してこなかったのだから…
でも、あれだけ親と思ったことはないなんて言いながら、他の女の子の前じゃ結局親扱いなんじゃない。
「あ、初めまして。遅くまで話し込んでしまってすみません!」
「いえいえ、私はただの親代わりなのでお気になさらず」
自分でもトゲのある言い方をしてしまったと気付いて、その大人げのなさに辟易した。
龍斗もムカっとした顔をして、こちらを見やったのに気付いて、私はいたたまれず、それじゃあとマンションのエントランスへと入った。
「遥ちゃん!!」
しばらくして、バンっと激しくドアを開けながら、龍斗がリビングに入ってきた。
白々しく無視を決め込んで、テーブルのイスについたままデパ地下で買ってきたお惣菜を口に運ぶ。
「いらないって言ったから、本当に買ってきてないからね」
「どうでもいいけど、何さっきの態度!ただの親代わりって!」
「あれ?何か違ったの??」
「そんな言い方ないじゃん!!」
「先に保護者って言ったのは龍斗じゃない。大体あんなとこで堂々といちゃついてたりするからでしょ!」
「いちゃついてなんかないし!あ、分かった!…遥ちゃん、妬いてんだ!」
「はああぁあ?!そんなわけないでしょ!!」
「妬いてるからムカついたんじゃん!」
「何で私が妬かなきゃなんないのよ?!!息子の彼女に!!」
「彼女じゃないし!!ってか、だからさ…俺、息子じゃないってば!」
「あんたは息子なの!これまでも、いつまで経ってもどこまでいっても私には息子でしかないの!!!」
龍斗が、箸を口に運ぼうとしていた私の手をグッと掴んだ。
「それ、本気で言ってる?」
「本気に決まってるでしょ。はなしてよ」
手を振りほどいて、箸で掴んでいたかぼちゃの煮物を口に運んだ。
一瞬の気まずい沈黙を破って、龍斗が不機嫌な声を発した。
「…分かった。近いうちに、俺ここ出てく」
「えっ?」
思わず龍斗を振り返った。
「彼女はゼミが一緒で、家も近いんだけど、実家が不動産屋だから物件の相談に乗ってもらってただけ。こんな状態で、今まで通りここに二人で住むわけにいかないと思ったから、部屋探してたんだよ」
「ちょっと、何も急にそこまでっ…」
「元々早く家出ろって言ってたのは遥ちゃんだし、それに………俺がツラいからさ、このままここにいるの」
「私が変な男に騙されないように見とくんじゃなかったの?!」
思わず引き留めるようなセリフを発してしまう自分に驚いた。
「いい年した親の恋愛を、息子の俺が気にすることじゃないんだろ?」
「それは…」
「今遥ちゃんが言ったんだからね?どこまでいっても俺は息子だって」
何も言い返せずに押し黙るしかなかった。
「俺の気持ちは受け入れられないのに、傍には置いておきたいだなんて、都合がよすぎるよ」
正論だった。
じゃあ男として見れるのかと問われたら、素直に頷くことはできない。
「私にも、もう分からないんだってば!自分がどうしたいのか…」
息子としか思えないはずなのに、龍斗が女の子と楽しそうにしていると、なぜかどうしても気分がよくない自分に内心動揺していた。
息子を持つ母親なら、少なからずそんな心境になるものなのかもしれないが…
世の嫁姑問題の根源もそこにあるんだろうし。
でも私が今抱えているこの感情は、どうにもそれとは違う気がする。
龍斗を男として意識せざるを得なくなったあの誕生日の夜から、私の中の何かが変わっていっている気がしてならない。
むしろ、一生知らないままでいた方がよいことだって、あるのだと思う。
夕飯を済ませていると、部屋から出てきた龍斗が、ちらりと一瞬だけこちらに目を向けてから、キッチンを素通りしてバスルームへと向かう。
私もそれを尻目に、無言のまま食事の手を進める。
もう一週間もこの状態だ。
龍斗の気持ちを知ってしまってから、どう接すればいいのか分からない。
龍斗もきっと何か言いたいことがあるのだろうが、言い出すきっかけを掴めないでいるように見える。
きっかけを与えないよう、無意識に接しているのは、きっと私の方だとちゃんと分かってはいるのだ。
ただもう何を言われても、どう答えたらいいのか分からない。
何が正解で間違いなのか、どれも間違いではないのか、どれも正しいのか。
それすらも分からない。
お風呂から上がって、龍斗が濡れた髪をタオルで拭きながら、リビングを通り過ぎて行く。
私はその後ろ姿を、改めてまじまじと見つめた。
細いのに程よく筋肉のついた広い背中、逞しい二の腕、太くしっかりとした首筋…
改めてよく見てみれば、そのどれもが子供のときとは全然違う。
何で今まで気付かなかったんだろう。
いや、気付こうとすらしていなかった。
もしかしたら、気付きたくなかったのかもしれない。
よく考えれば、決して悪くはないルックスなのに、今まで色恋の話なんか1つも聞かなかった。
モテないわけはない。
そもそも、あの押し倒し方だってあのキスだって、とてもじゃないけど、初めての感じではなかった。
何なら、それなりに慣れていた気さえする。
ふと複雑な心境になった。
誕生日の朝、他の女には興味ないって言ってたじゃない。
あれ、私のことだったんじゃないの?
龍斗だって、私の知らないところで、やることはやってたんじゃない。
我慢してたなんて言っといて。
違う。
我慢してた分、外でそれを埋めるしかなかったのかもしれない。
いや、それはそれで、相手の子からしたら最低な男じゃないか?
「やっぱり、いろいろ育て方間違えたわ…」
はぁとワイングラスを持ったまま頭をもたげて、溜め息をついた。
「今日、用事でデパ地下寄るから、夕飯お総菜にするけど、何かいる?」
仕事終わりの移動中のバスの中で、急いでスマホに打ち込んだ文字を送信した。
ずっとこのままの状態でいるわけにはいかない。
どちらにしろ、歩み寄る必要はあるのだ。
監護義務はなくなったとしても、このまま離れることだけはしたくない。
「いらない。自分でカップラーメンでも食べるから」
すぐに鳴った通知音にスマホを開くと、ぶっきらぼうな文字列が並んでいた。
何その言い方!むっっっかつくううぅぅぅっ!!
せっかく気に掛けてあげたのに!
カバンと、本当に一人分だけのデパ地下の袋を下げながら帰路に着いた。
絶対に分けてあげないんだから!
そんなくだらない怒りを脳内で繰り返しながら、自宅マンションの近くまで来て、はたと立ち止まった。
マンションのエントランス前で、若い男女が談笑をしている。
入りにくいな…と思いながら近付くと、若い男が龍斗であることに気付いて、思わず声を出してしまった。
「あっ…」
その声に二人が振り返った。
「こんばんわ」
ふんわりとした小花柄のワンピースを夜風に揺らして、龍斗の横にいた女の子が笑顔で会釈をした。
「あ、こんばんわ」
「えっと、こっちがさっき話した俺の保護者」
龍斗の発した保護者という言葉に、初めて違和感を感じた。
それで間違いはない。
今までも保護者としてしか接してこなかったのだから…
でも、あれだけ親と思ったことはないなんて言いながら、他の女の子の前じゃ結局親扱いなんじゃない。
「あ、初めまして。遅くまで話し込んでしまってすみません!」
「いえいえ、私はただの親代わりなのでお気になさらず」
自分でもトゲのある言い方をしてしまったと気付いて、その大人げのなさに辟易した。
龍斗もムカっとした顔をして、こちらを見やったのに気付いて、私はいたたまれず、それじゃあとマンションのエントランスへと入った。
「遥ちゃん!!」
しばらくして、バンっと激しくドアを開けながら、龍斗がリビングに入ってきた。
白々しく無視を決め込んで、テーブルのイスについたままデパ地下で買ってきたお惣菜を口に運ぶ。
「いらないって言ったから、本当に買ってきてないからね」
「どうでもいいけど、何さっきの態度!ただの親代わりって!」
「あれ?何か違ったの??」
「そんな言い方ないじゃん!!」
「先に保護者って言ったのは龍斗じゃない。大体あんなとこで堂々といちゃついてたりするからでしょ!」
「いちゃついてなんかないし!あ、分かった!…遥ちゃん、妬いてんだ!」
「はああぁあ?!そんなわけないでしょ!!」
「妬いてるからムカついたんじゃん!」
「何で私が妬かなきゃなんないのよ?!!息子の彼女に!!」
「彼女じゃないし!!ってか、だからさ…俺、息子じゃないってば!」
「あんたは息子なの!これまでも、いつまで経ってもどこまでいっても私には息子でしかないの!!!」
龍斗が、箸を口に運ぼうとしていた私の手をグッと掴んだ。
「それ、本気で言ってる?」
「本気に決まってるでしょ。はなしてよ」
手を振りほどいて、箸で掴んでいたかぼちゃの煮物を口に運んだ。
一瞬の気まずい沈黙を破って、龍斗が不機嫌な声を発した。
「…分かった。近いうちに、俺ここ出てく」
「えっ?」
思わず龍斗を振り返った。
「彼女はゼミが一緒で、家も近いんだけど、実家が不動産屋だから物件の相談に乗ってもらってただけ。こんな状態で、今まで通りここに二人で住むわけにいかないと思ったから、部屋探してたんだよ」
「ちょっと、何も急にそこまでっ…」
「元々早く家出ろって言ってたのは遥ちゃんだし、それに………俺がツラいからさ、このままここにいるの」
「私が変な男に騙されないように見とくんじゃなかったの?!」
思わず引き留めるようなセリフを発してしまう自分に驚いた。
「いい年した親の恋愛を、息子の俺が気にすることじゃないんだろ?」
「それは…」
「今遥ちゃんが言ったんだからね?どこまでいっても俺は息子だって」
何も言い返せずに押し黙るしかなかった。
「俺の気持ちは受け入れられないのに、傍には置いておきたいだなんて、都合がよすぎるよ」
正論だった。
じゃあ男として見れるのかと問われたら、素直に頷くことはできない。
「私にも、もう分からないんだってば!自分がどうしたいのか…」
息子としか思えないはずなのに、龍斗が女の子と楽しそうにしていると、なぜかどうしても気分がよくない自分に内心動揺していた。
息子を持つ母親なら、少なからずそんな心境になるものなのかもしれないが…
世の嫁姑問題の根源もそこにあるんだろうし。
でも私が今抱えているこの感情は、どうにもそれとは違う気がする。
龍斗を男として意識せざるを得なくなったあの誕生日の夜から、私の中の何かが変わっていっている気がしてならない。