愛でて育てたあの子は、いつしか私に優しい牙を剥く
5,変化する気持ち
「明後日の午後、空けておいて。バイトない日でしょ?」
そう言って、クリーニングから引き取ってきたばかりのスーツを龍斗に差し出した。
「何?」
キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出そうとしていた龍斗が、怪訝そうに振り返った。
「会社の創立記念でちょっとした立食パーティーがあるの。家族同伴ってことになってるから」
「それ、行かなきゃダメ?引っ越しのことも考えなきゃいけないんだけど」
龍斗がいかにも憂鬱そうな顔をこちらに向ける。
「私も同伴は断ったけど、みんなあなたが小さい頃から知っているし、ここ数年はこういう場に連れて行っていなかったから、みんな顔見たいんですって」
目線を逸らして、龍斗が小さく溜め息をついた。
「挨拶済んだら帰ってもいいから」
「…分かった」
龍斗は渋々了承してから、先ほど冷蔵庫から取り出したペットボトルを持って、自分の部屋へと入った。
「招待客リストの確認は済んでる?」
がやがやと騒がしいホテルの会場には、すでに数々の豪華な料理やドリンクが並んでいる。
受付カウンターの前で少し屈みながら、担当の女子社員に声を掛けた。
「はい、大体はもう。あ、副島さんのお子さんがまだ来られていないようですが…」
「あぁ…龍斗ね。一応言ってはあるから、来るとは思うんだけど…」
同伴者の出席票はだいぶ前に提出したから、龍斗の箇所、子供の欄にチェックしたままだったんだ…
ただでさえ来たがっていなかったのに、子供扱いだなんてまた気分害すわね。
はぁと自身にしか分からないほどの小さい溜め息をつくと、ベージュのタイトなワンピースに肩掛けしていた、濃紺のカーディガンをきちんと羽織り直した。
受付から離れようとしたところで、何やら会場の入り口がにわかに色めき立った。
ふと目線をそちらにやると、数人の若い女子社員が集まって、今会場に到着したであろう招待客に、何やら次から次に声を掛けている。
大事な招待客に失礼があってはいけないと、その場に向かおうとして、そこにいるのが龍斗だと気付いた。
黒い細身のスーツに、天然の柔らかそうな栗色の髪。
憂いを帯びたような艶がかった黒い瞳。
そのスーツも私が準備したもので、少し前の大学入学の際にも着用したし、すでに何度かその姿も見ていたはずなのに、その端麗な立ち姿に一瞬目を奪われた。
龍斗って、あんなだった…?
「あれ、誰ですかね?名簿にあったかな…」
受付に座る先ほどの社員が、名簿を指でなぞった。
「…息子よ、私の。副島 龍斗にチェック入れといて」
ふと我に返って、素っ気なく言ってから受付を離れた。
「えっ!!ホントですか?!めちゃくちゃカッコいいじゃないですか!!」
背後で聞こえる受付の女子社員の声に、変な優越感のようなものが沸き上がるのを、密かに感じていた。
私の足音に、集まっていた若い女子社員たちがサッと避けた。
「遥ちゃん…、ごめん、遅くなった」
私に気付いた龍斗の顔が、無表情は変わらないものの少しホッとした様子で緩んだ。
「ありがとう、来てくれて。もう来ないかと思った」
一瞬その場がざわめき、その中の一人が声を発した。
「えっ?副島さんの…??」
「…同伴の息子です」
こんな大きなお子さんがいたんだと、口々に発せられる遠慮ない声が、否応なしに耳に入ってくる。
龍斗だけが、その場で遠い目をしてそれを受け流していた。
私は自分で息子だと紹介しておきながら、複雑な感覚に襲われていた。
優越感を抱いたのは、誰から見ても素敵な息子だから?
それとも…その龍斗が私に好意を抱いているから…?
「あなたの顔を見て、みんなが喜んでくれてよかったわ。直属の上司にもあなたを紹介できたし、今日はありがとう。あとは最後に社長へ挨拶したら、約束通り帰っていいから」
社長が待機している控え室へと続く、静かな長い廊下をヒールを鳴らして、龍斗の前を歩く。
しばらくして、後ろから聞こえていた革靴の音が、ぴたりと止まったことに気付いて振り返った。
「…?」
龍斗がこちらを見つめながら、急に私の名前をそっと呼んだ。
「…遥ちゃん」
「…何?」
一瞬の沈黙があった。
換気のために開け放たれていた廊下の窓から、生暖かい風が二人の間を通り抜けていく。
「………こないだのこと、全部なかったことにしよう」
「…え…?」
思わず戸惑った声を上げてしまった。
「俺は何も言わなかったし、遥ちゃんも何も聞かなかった」
「………龍斗?」
訝しげな私の表情を真っ直ぐに見つめながら、龍斗は戸惑うことなく続ける。
「あの誕生日の夜は何もなかった。遥ちゃんは今もこれからもずっと何も知らない。俺の気持ちを消すには時間がかかるけど、遥ちゃんが望むなら、これから先もずっとただの息子でいるよ」
また風が、二人の髪をそっと揺らした。
「俺、遥ちゃんとこんな気まずい関係になりたかったわけじゃないからさ。それに親と子に戻っても、遥ちゃんが大切なことには一生変わりないから。俺が家を出ても、それだけは忘れないで」
そう言い終わると、立ち止まっている私の横をすり抜け、龍斗が先を歩いて行く。
少しだけ肩の力が抜けたように感じられる黒いスーツの背中を見つめて、何とも言えない感情が込み上げた。
今さら聞かなかったことになんかできるのだろうか。
散々こっちを悩ませておいて、あなたは言わなかったことになんて、できるの…?
無言のその背中に声を掛けようとした時、ちょうど前から社長の姿が見えた。
「おおー!これは龍斗くんじゃないか!大きくなったなあ。随分と色男になって」
「ご無沙汰しています。今日はお招きありがとうございます」
龍斗が大人びた笑顔を見せる。
「いい大学入ったんだって?優秀優秀!先々有望だな。就職先に悩んだら、ぜひうちに来てくれて構わないよ」
「ありがとうございます。考えておきます」
はにかんだような笑顔を見せる龍斗に、社長もご満悦といった様子でこちらを振り返った。
「いやあ、副島くん。礼儀正しくて、優秀な子に育ってるじゃないか。君の子育ての賜物だな。こんな息子がいたら自慢したくて仕方ないだろう?」
自慢の息子か…
その言葉にまた違和感を感じた。
「恐れ入ります。…でも社長、彼はもう、私の息子ではないんです」
ん?と社長が首をかしげた。
龍斗も不可解だとでも言わんばかりの目を、こちらに向けた。
「もう、息子じゃないんです。先日二十歳になって、監護義務もなくなりましたし、彼ももう子供ではなく、立派な一人の男性ですから」
「ああ~、そうか。もう二十歳か!早いなあ。初めて会ったときは、まだ小学生だったのにな!」
「はい、時が経つのは早いものですね…」
「遥ちゃん…?」
「いやいや、とにかく今日は最後まで楽しんでいってくれよ!それじゃ私はこれで」
去り行く社長に二人で軽く会釈をした。
社長の姿が見えなくなってから、龍斗が私の肩を掴んで声を荒げた。
「遥ちゃん!!あんなこと言われたら、期待してしまうよ!やっと諦める決心つけたのに!せっかく…」
困惑した表情で、私の顔を見つめている龍斗に冷めた口調を投げた。
「だって事実でしょ?監護義務なくなったのは。あなたが散々言ってたのよ、もう息子じゃないって」
「そうだけど!…何で今っ…息子としか思えないって、遥ちゃんだってそればっかり言ってたじゃん!!」
「じゃあ、挨拶も済んだし、私は会場に戻ってやらなきゃいけないこともあるからもう行くけど、あなたは帰っていいわよ」
「あ、それと帰りは遅くなるから先に寝といて。パーティー終わったら、葛城といつものバーで飲み直そうって約束してるから」
私はそう言い残してその場をあとにした。
ああ、もう私も元には戻れない。
なかったことにされることが、耐えられなかったなんて、とても口には出せなかった。
そう言って、クリーニングから引き取ってきたばかりのスーツを龍斗に差し出した。
「何?」
キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出そうとしていた龍斗が、怪訝そうに振り返った。
「会社の創立記念でちょっとした立食パーティーがあるの。家族同伴ってことになってるから」
「それ、行かなきゃダメ?引っ越しのことも考えなきゃいけないんだけど」
龍斗がいかにも憂鬱そうな顔をこちらに向ける。
「私も同伴は断ったけど、みんなあなたが小さい頃から知っているし、ここ数年はこういう場に連れて行っていなかったから、みんな顔見たいんですって」
目線を逸らして、龍斗が小さく溜め息をついた。
「挨拶済んだら帰ってもいいから」
「…分かった」
龍斗は渋々了承してから、先ほど冷蔵庫から取り出したペットボトルを持って、自分の部屋へと入った。
「招待客リストの確認は済んでる?」
がやがやと騒がしいホテルの会場には、すでに数々の豪華な料理やドリンクが並んでいる。
受付カウンターの前で少し屈みながら、担当の女子社員に声を掛けた。
「はい、大体はもう。あ、副島さんのお子さんがまだ来られていないようですが…」
「あぁ…龍斗ね。一応言ってはあるから、来るとは思うんだけど…」
同伴者の出席票はだいぶ前に提出したから、龍斗の箇所、子供の欄にチェックしたままだったんだ…
ただでさえ来たがっていなかったのに、子供扱いだなんてまた気分害すわね。
はぁと自身にしか分からないほどの小さい溜め息をつくと、ベージュのタイトなワンピースに肩掛けしていた、濃紺のカーディガンをきちんと羽織り直した。
受付から離れようとしたところで、何やら会場の入り口がにわかに色めき立った。
ふと目線をそちらにやると、数人の若い女子社員が集まって、今会場に到着したであろう招待客に、何やら次から次に声を掛けている。
大事な招待客に失礼があってはいけないと、その場に向かおうとして、そこにいるのが龍斗だと気付いた。
黒い細身のスーツに、天然の柔らかそうな栗色の髪。
憂いを帯びたような艶がかった黒い瞳。
そのスーツも私が準備したもので、少し前の大学入学の際にも着用したし、すでに何度かその姿も見ていたはずなのに、その端麗な立ち姿に一瞬目を奪われた。
龍斗って、あんなだった…?
「あれ、誰ですかね?名簿にあったかな…」
受付に座る先ほどの社員が、名簿を指でなぞった。
「…息子よ、私の。副島 龍斗にチェック入れといて」
ふと我に返って、素っ気なく言ってから受付を離れた。
「えっ!!ホントですか?!めちゃくちゃカッコいいじゃないですか!!」
背後で聞こえる受付の女子社員の声に、変な優越感のようなものが沸き上がるのを、密かに感じていた。
私の足音に、集まっていた若い女子社員たちがサッと避けた。
「遥ちゃん…、ごめん、遅くなった」
私に気付いた龍斗の顔が、無表情は変わらないものの少しホッとした様子で緩んだ。
「ありがとう、来てくれて。もう来ないかと思った」
一瞬その場がざわめき、その中の一人が声を発した。
「えっ?副島さんの…??」
「…同伴の息子です」
こんな大きなお子さんがいたんだと、口々に発せられる遠慮ない声が、否応なしに耳に入ってくる。
龍斗だけが、その場で遠い目をしてそれを受け流していた。
私は自分で息子だと紹介しておきながら、複雑な感覚に襲われていた。
優越感を抱いたのは、誰から見ても素敵な息子だから?
それとも…その龍斗が私に好意を抱いているから…?
「あなたの顔を見て、みんなが喜んでくれてよかったわ。直属の上司にもあなたを紹介できたし、今日はありがとう。あとは最後に社長へ挨拶したら、約束通り帰っていいから」
社長が待機している控え室へと続く、静かな長い廊下をヒールを鳴らして、龍斗の前を歩く。
しばらくして、後ろから聞こえていた革靴の音が、ぴたりと止まったことに気付いて振り返った。
「…?」
龍斗がこちらを見つめながら、急に私の名前をそっと呼んだ。
「…遥ちゃん」
「…何?」
一瞬の沈黙があった。
換気のために開け放たれていた廊下の窓から、生暖かい風が二人の間を通り抜けていく。
「………こないだのこと、全部なかったことにしよう」
「…え…?」
思わず戸惑った声を上げてしまった。
「俺は何も言わなかったし、遥ちゃんも何も聞かなかった」
「………龍斗?」
訝しげな私の表情を真っ直ぐに見つめながら、龍斗は戸惑うことなく続ける。
「あの誕生日の夜は何もなかった。遥ちゃんは今もこれからもずっと何も知らない。俺の気持ちを消すには時間がかかるけど、遥ちゃんが望むなら、これから先もずっとただの息子でいるよ」
また風が、二人の髪をそっと揺らした。
「俺、遥ちゃんとこんな気まずい関係になりたかったわけじゃないからさ。それに親と子に戻っても、遥ちゃんが大切なことには一生変わりないから。俺が家を出ても、それだけは忘れないで」
そう言い終わると、立ち止まっている私の横をすり抜け、龍斗が先を歩いて行く。
少しだけ肩の力が抜けたように感じられる黒いスーツの背中を見つめて、何とも言えない感情が込み上げた。
今さら聞かなかったことになんかできるのだろうか。
散々こっちを悩ませておいて、あなたは言わなかったことになんて、できるの…?
無言のその背中に声を掛けようとした時、ちょうど前から社長の姿が見えた。
「おおー!これは龍斗くんじゃないか!大きくなったなあ。随分と色男になって」
「ご無沙汰しています。今日はお招きありがとうございます」
龍斗が大人びた笑顔を見せる。
「いい大学入ったんだって?優秀優秀!先々有望だな。就職先に悩んだら、ぜひうちに来てくれて構わないよ」
「ありがとうございます。考えておきます」
はにかんだような笑顔を見せる龍斗に、社長もご満悦といった様子でこちらを振り返った。
「いやあ、副島くん。礼儀正しくて、優秀な子に育ってるじゃないか。君の子育ての賜物だな。こんな息子がいたら自慢したくて仕方ないだろう?」
自慢の息子か…
その言葉にまた違和感を感じた。
「恐れ入ります。…でも社長、彼はもう、私の息子ではないんです」
ん?と社長が首をかしげた。
龍斗も不可解だとでも言わんばかりの目を、こちらに向けた。
「もう、息子じゃないんです。先日二十歳になって、監護義務もなくなりましたし、彼ももう子供ではなく、立派な一人の男性ですから」
「ああ~、そうか。もう二十歳か!早いなあ。初めて会ったときは、まだ小学生だったのにな!」
「はい、時が経つのは早いものですね…」
「遥ちゃん…?」
「いやいや、とにかく今日は最後まで楽しんでいってくれよ!それじゃ私はこれで」
去り行く社長に二人で軽く会釈をした。
社長の姿が見えなくなってから、龍斗が私の肩を掴んで声を荒げた。
「遥ちゃん!!あんなこと言われたら、期待してしまうよ!やっと諦める決心つけたのに!せっかく…」
困惑した表情で、私の顔を見つめている龍斗に冷めた口調を投げた。
「だって事実でしょ?監護義務なくなったのは。あなたが散々言ってたのよ、もう息子じゃないって」
「そうだけど!…何で今っ…息子としか思えないって、遥ちゃんだってそればっかり言ってたじゃん!!」
「じゃあ、挨拶も済んだし、私は会場に戻ってやらなきゃいけないこともあるからもう行くけど、あなたは帰っていいわよ」
「あ、それと帰りは遅くなるから先に寝といて。パーティー終わったら、葛城といつものバーで飲み直そうって約束してるから」
私はそう言い残してその場をあとにした。
ああ、もう私も元には戻れない。
なかったことにされることが、耐えられなかったなんて、とても口には出せなかった。