愛でて育てたあの子は、いつしか私に優しい牙を剥く
6,崩れていく想い出と新しい未来
「連れて行った夏祭りで、お小遣いあげたのよ。五百円玉。何か欲しいもの買っておいでって。そしたら、何買って来たと思う?ヘアピン。つけてくれたの、遥ちゃん可愛いねって!可愛いでしょ?ああ、なんて親想いの子だろうって思って、その時すごく嬉しかったのよね」
ああ、あの日もこの日も龍斗は、幼いながらも男として接していたんだ。
私が自分の気持ちに素直になれないのは、一緒に綴ってきた二人の思い出が、一つずつ崩れていく気がして、私はそれが寂しくもあるのかもしれない。
「酔ってきてんな?お前、酔うとすぐ昔話始めるからな」
葛城とは大学からの友人で、今の会社の同期でもある。
5年前に結婚した妻と3歳の娘がいる。
切磋琢磨し、互いにそれぞれのポジションまで登り詰めてきた。
また葛城は、龍斗の亡くなった父親の友達だった。
もちろん龍斗の両親の馴れ初めも知っているし、二人が亡き後も龍斗の成長を見守ってきた一人でもある。
「あいつらが急に死んで、お前があの子を引き取るって言い出したときは、とんでもないことになったと思ったが、あながちお前の子育ては間違えてはなかったんだな。そんなにまともに育ってんなら」
そうしみじみと言いながら、葛城がジンのソーダ割りを口に含んだ。
「ううん、私の子育ては何一つうまくなんていってなかったのよ」
少なくとも龍斗にとっては、子育てされてる気なんてさらさらなかったんだから。
私は首を振って、小さな気泡が点在する白いワインを口に運んだ。
「お前が自己評価下げる発言するなんて珍しいな」
「年頃の息子を育てるなんて生半可じゃないのよ、ホントに」
「まあ、いろいろあるだろうが、あのイケメン息子が巣立ったら、これでようやくお前も自分の幸せを考えられるな」
「え…?」
思わずきょとんと葛城の顔を見つめた。
「え?って、そりゃそうだろ!龍のために今まで結婚もせずに必死で働いてきたんだろ?これからは監護義務はなくなるんだし、恋愛も結婚もお前の自由だよ」
私の幸せ…?
恋愛…?結婚…?
ふと頭を抱えた。
この先の私の人生に、龍斗はいない?
龍斗には龍斗の人生があり、そこにもまた私は存在しない?
そう思うと、急に背筋が冷えていくのが分かった。
恐怖にも似た虚無感が一気に私を支配して、立ち眩みを起こしそうになった。
私がこれから誰かに出逢い、一から恋愛をして、結婚をして、龍斗と交わることなく新しい人生を生きていくなんて考えもしていなかった。
龍斗も大学を卒業して、社会に出れば新しい出逢いも山ほどあって、その出逢いの中で恋愛をして、結婚もして、いつか父親になり、私の知らないところで新しい家族を築いていく。
それが子の幸せであり、親の幸せでもある。
「えっ!おい、ちょっと!急にどうしたんだよ?!」
パタリと木製のテーブルに、一滴の雫が染み込んで消えた。
「何で、泣いてんだよ」
そんな、親なら感じる当たり前のことを、これまで考えたこともなかった。
私以外の人と、幸せに生きる龍斗の姿を思い浮かべるだけで、苦しくなってしまう私も、結局親にはなりきれていなかったのかもしれない。
「ごめん、今日は帰るね!付き合ってくれてありがとう」
「あ、おい!副島?!」
テーブルに5千円札を置いて、バーを出ると夕方まで晴れていたはずの外は雨で濡れていた。
ああ、まるで私の心情を読んだみたい。
どうやって帰ろうと、一瞬途方に暮れていると急に頭上が傘の形に翳った。
「龍…斗?」
「迎えに来た。雨降ってきたけど、家に遥ちゃんの傘置いたままだったから。迷惑かなっても考えたけど、葛城さんといつものバーに行くっ…て…」
傘の中で申し訳なさそうに苦笑しながら、こちらを見下ろす龍斗が、なぜだか“息子”ではなく、初めて“一人の男”に見えた。
酔っているからかもしれない。
でも今はそんなことどうでもよかった。
気がつくと、一目も憚らず龍斗の厚い胸を抱き締めていた。
「遥ちゃ…ん…?」
二十歳の誕生日、俺らも恋人に見えるかな?と聞いた龍斗の言葉を思い出した。
今、この周りを行き交う人々の中で、私たちを見て、親子のような関係だと気付く人はどれくらいいるだろうか?
それは願望なのか、きっと年の離れた恋人同士だと思うに、違いないとなぜだかぼんやりと思った。
龍斗が戸惑いながら泣きそうになった顔のまま、私の肩に頭をもたげた。
「遥ちゃん…」
耳元で囁くように呼ぶ龍斗の声が、こんなにも優しく、すっと心に染み入ったのは初めてだった。
傘を持っていない腕で私をぎゅっと抱いた温もりが、肩越しに伝わってくる。
あぁ、私は多分きっとこれから先も、この温もりを手離せない。
本当の親子でなくてよかったと、心底今思ってしまう自分の気持ちを、恋だと言う勇気はまだない。
だけど、明らかに今までとは違う龍斗への感情が、芽生えていることだけは、確かだった。
葛城が、泣いていた私を心配して、後を追うようにすぐにバーから慌てて出てきていたことを知ったのは、翌日だった。
サラサラと降り注ぐ雨の中で、葛城は二人が抱き合うその光景を見て、声を掛けることもできず、ただ立ち尽くしていた。
二人の間に漂う空気が、自分の知り得る親子というものには、程遠く感じられたからだった。
ああ、あの日もこの日も龍斗は、幼いながらも男として接していたんだ。
私が自分の気持ちに素直になれないのは、一緒に綴ってきた二人の思い出が、一つずつ崩れていく気がして、私はそれが寂しくもあるのかもしれない。
「酔ってきてんな?お前、酔うとすぐ昔話始めるからな」
葛城とは大学からの友人で、今の会社の同期でもある。
5年前に結婚した妻と3歳の娘がいる。
切磋琢磨し、互いにそれぞれのポジションまで登り詰めてきた。
また葛城は、龍斗の亡くなった父親の友達だった。
もちろん龍斗の両親の馴れ初めも知っているし、二人が亡き後も龍斗の成長を見守ってきた一人でもある。
「あいつらが急に死んで、お前があの子を引き取るって言い出したときは、とんでもないことになったと思ったが、あながちお前の子育ては間違えてはなかったんだな。そんなにまともに育ってんなら」
そうしみじみと言いながら、葛城がジンのソーダ割りを口に含んだ。
「ううん、私の子育ては何一つうまくなんていってなかったのよ」
少なくとも龍斗にとっては、子育てされてる気なんてさらさらなかったんだから。
私は首を振って、小さな気泡が点在する白いワインを口に運んだ。
「お前が自己評価下げる発言するなんて珍しいな」
「年頃の息子を育てるなんて生半可じゃないのよ、ホントに」
「まあ、いろいろあるだろうが、あのイケメン息子が巣立ったら、これでようやくお前も自分の幸せを考えられるな」
「え…?」
思わずきょとんと葛城の顔を見つめた。
「え?って、そりゃそうだろ!龍のために今まで結婚もせずに必死で働いてきたんだろ?これからは監護義務はなくなるんだし、恋愛も結婚もお前の自由だよ」
私の幸せ…?
恋愛…?結婚…?
ふと頭を抱えた。
この先の私の人生に、龍斗はいない?
龍斗には龍斗の人生があり、そこにもまた私は存在しない?
そう思うと、急に背筋が冷えていくのが分かった。
恐怖にも似た虚無感が一気に私を支配して、立ち眩みを起こしそうになった。
私がこれから誰かに出逢い、一から恋愛をして、結婚をして、龍斗と交わることなく新しい人生を生きていくなんて考えもしていなかった。
龍斗も大学を卒業して、社会に出れば新しい出逢いも山ほどあって、その出逢いの中で恋愛をして、結婚もして、いつか父親になり、私の知らないところで新しい家族を築いていく。
それが子の幸せであり、親の幸せでもある。
「えっ!おい、ちょっと!急にどうしたんだよ?!」
パタリと木製のテーブルに、一滴の雫が染み込んで消えた。
「何で、泣いてんだよ」
そんな、親なら感じる当たり前のことを、これまで考えたこともなかった。
私以外の人と、幸せに生きる龍斗の姿を思い浮かべるだけで、苦しくなってしまう私も、結局親にはなりきれていなかったのかもしれない。
「ごめん、今日は帰るね!付き合ってくれてありがとう」
「あ、おい!副島?!」
テーブルに5千円札を置いて、バーを出ると夕方まで晴れていたはずの外は雨で濡れていた。
ああ、まるで私の心情を読んだみたい。
どうやって帰ろうと、一瞬途方に暮れていると急に頭上が傘の形に翳った。
「龍…斗?」
「迎えに来た。雨降ってきたけど、家に遥ちゃんの傘置いたままだったから。迷惑かなっても考えたけど、葛城さんといつものバーに行くっ…て…」
傘の中で申し訳なさそうに苦笑しながら、こちらを見下ろす龍斗が、なぜだか“息子”ではなく、初めて“一人の男”に見えた。
酔っているからかもしれない。
でも今はそんなことどうでもよかった。
気がつくと、一目も憚らず龍斗の厚い胸を抱き締めていた。
「遥ちゃ…ん…?」
二十歳の誕生日、俺らも恋人に見えるかな?と聞いた龍斗の言葉を思い出した。
今、この周りを行き交う人々の中で、私たちを見て、親子のような関係だと気付く人はどれくらいいるだろうか?
それは願望なのか、きっと年の離れた恋人同士だと思うに、違いないとなぜだかぼんやりと思った。
龍斗が戸惑いながら泣きそうになった顔のまま、私の肩に頭をもたげた。
「遥ちゃん…」
耳元で囁くように呼ぶ龍斗の声が、こんなにも優しく、すっと心に染み入ったのは初めてだった。
傘を持っていない腕で私をぎゅっと抱いた温もりが、肩越しに伝わってくる。
あぁ、私は多分きっとこれから先も、この温もりを手離せない。
本当の親子でなくてよかったと、心底今思ってしまう自分の気持ちを、恋だと言う勇気はまだない。
だけど、明らかに今までとは違う龍斗への感情が、芽生えていることだけは、確かだった。
葛城が、泣いていた私を心配して、後を追うようにすぐにバーから慌てて出てきていたことを知ったのは、翌日だった。
サラサラと降り注ぐ雨の中で、葛城は二人が抱き合うその光景を見て、声を掛けることもできず、ただ立ち尽くしていた。
二人の間に漂う空気が、自分の知り得る親子というものには、程遠く感じられたからだった。