政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません
ルイスレーン様の口元が引き結ばれ、先ほど離縁の話をした時のような空気が漂った。
「なぜ今そんなことを言う?」
ぐっと何かを堪えて彼が訊ねる。
「それはあなたが気にすることではない。私はあなたが欲しいのだ。『アイリ』で『クリスティアーヌ』のあなたが。上手いとか下手とか、ただ性欲の捌け口に抱くのではなく、全てを分かち合いたいと思う相手と、ひとつになりたいと言っている。技術ではない。ここの問題だ」
言って自分の胸の中心に私の手を持っていく。
「あなたがそう言うのは、あのクズのせいか。ヤツがあなたに何か呪いでもかけたのか」
呪い……その言葉を聞いてはっとする。
「アイリ」
自分の胸に私の手を当てたまま、彼が顔を覗き込む。
「まだ私のことを信じられないか?私よりあなたを裏切り傷つけたその男の方を未だに信じているのか」
「いえ……私が愚かでした……どうでもいいと思っているなら、あんなことは言いません。失望させたくなくて……もし嫌われたらって思って……」
「それなら私だって……自慢できるほどの経験はない。知っているだろう、私の評判を。甘い言葉を囁いて女性を喜ばせるより、厳つい顔をして警備に就く方を優先してきた。女性を喜ばせる方法がわからず、右往左往しているような男だ。もう自分のことを無価値な人間のように思うのはやめなさい。あなたは十分に魅力的だ。誰が戦争で家族を亡くした人達を思いやれる。他人の子の面倒を見ることだって簡単ではない。あなたを信頼して任せてくれる人がいるのだ。フォルトナー先生も仰っていではないか。すぐに音を上げると思っていたベイル氏のところの手伝いも、粘り強くやり通したことを自慢しろと。皆、あなたを気に入っている。レジーナ殿だってアッシュハルクの奥方も……この邸に勤める者の誰一人としてあなたを嫌うものなどいない。それどころか主の私に意見までしてあなたを護ろうとしていた」
彼の言葉は、あの人の呪いに縛られている私の心を揺り動かした。この世界に生まれ変わり、突然『クリスティアーヌ』としての人生が始まり、急いでこちらの知識を詰め込んだものの、未だに過去に向かっている心に響いた。
「誰も自分の生まれる場所を選べない。あなたがアイリとして生を受けて歩んできた人生を否定するつもりはない。だが、人は過去の経験から学べるものだ。あなたの言うクズとの経験からあなたが臆病になるのはわかるが、だからと言って全てのことが同じとは限らない。あなたがアイリとして成し得なかったことを成そうと足掻き努力しているなら、アイリと同じ結末にはならないのではないか。少なくとも私にはあなた以外に思う人などいない。それだけでも既に同じ運命とはならないのではないか?」
諭すように彼が言う言葉でかちかちだった私の気持ちが溶けていくのがわかる。
「アイリ………そんなに固くなるな。私も緊張してくるではないか。私だって……本当に久しぶりだから……」
ルイスレーン様が初めてだとは思わなかったが、でも久しぶりって……どれくらい?
「士官学校時代に……厳しい父から離れて解放感を感じたのだろうな。一時悪い友達とつるんで羽目を外したことがある。すぐに学業が忙しくなってそんな時間も無くなったが」
「相手はどんな人だったのですか?」
ルイスレーン様がどんな女性が好みなのか単純に気になって訊ねた。そんなことを訊かれると思っていなかったのだろう。僅かに眉を上げて少し考えてから語りだした。
「他愛ない、思春期によくある衝動的な行動だ。気になるのか?」
「……私の、前の夫のことは話したので……それに、どんな人が好みだったのかなと……」
「好みか……好きか嫌いかと訊かれれば、好意は持っていたが、どこまで好きだったかと訊かれたらわからないな。私が十七、相手は……三つほど年上で自由奔放な人だった。街で出会って意気投合して……でも体を重ねてわかった。彼女には申し訳ないが、やはり心がないと空しいだけだと。その時一度きりで、それからは誰とも……大して面白くもない経験だ。過去に戻ってあの時の自分に助言できるなら、いずれ心から欲した女性が現れるまで我慢しろと言ってやりたい」
「でも、そのことがあってそう思うなら必要なことだったと思いますよ。その方のこと、その時はいいと思って抱かれたのなら、無駄ではなかったかと……」
「私としては……もう少し嫉妬してくれると嬉しいが…」
「過去のことを含めて私だと以前言ってくれましたよね。私も同じ気持ちです」
クリスティアーヌとしては経験がなくても、気持ちの上では彼が初めてではなくて、何となく気が咎めていた。互いに別々の人生を歩んできた者同士が、こうやって共に時間を共有する。人の縁とは本当に奇妙だ。
「なぜ今そんなことを言う?」
ぐっと何かを堪えて彼が訊ねる。
「それはあなたが気にすることではない。私はあなたが欲しいのだ。『アイリ』で『クリスティアーヌ』のあなたが。上手いとか下手とか、ただ性欲の捌け口に抱くのではなく、全てを分かち合いたいと思う相手と、ひとつになりたいと言っている。技術ではない。ここの問題だ」
言って自分の胸の中心に私の手を持っていく。
「あなたがそう言うのは、あのクズのせいか。ヤツがあなたに何か呪いでもかけたのか」
呪い……その言葉を聞いてはっとする。
「アイリ」
自分の胸に私の手を当てたまま、彼が顔を覗き込む。
「まだ私のことを信じられないか?私よりあなたを裏切り傷つけたその男の方を未だに信じているのか」
「いえ……私が愚かでした……どうでもいいと思っているなら、あんなことは言いません。失望させたくなくて……もし嫌われたらって思って……」
「それなら私だって……自慢できるほどの経験はない。知っているだろう、私の評判を。甘い言葉を囁いて女性を喜ばせるより、厳つい顔をして警備に就く方を優先してきた。女性を喜ばせる方法がわからず、右往左往しているような男だ。もう自分のことを無価値な人間のように思うのはやめなさい。あなたは十分に魅力的だ。誰が戦争で家族を亡くした人達を思いやれる。他人の子の面倒を見ることだって簡単ではない。あなたを信頼して任せてくれる人がいるのだ。フォルトナー先生も仰っていではないか。すぐに音を上げると思っていたベイル氏のところの手伝いも、粘り強くやり通したことを自慢しろと。皆、あなたを気に入っている。レジーナ殿だってアッシュハルクの奥方も……この邸に勤める者の誰一人としてあなたを嫌うものなどいない。それどころか主の私に意見までしてあなたを護ろうとしていた」
彼の言葉は、あの人の呪いに縛られている私の心を揺り動かした。この世界に生まれ変わり、突然『クリスティアーヌ』としての人生が始まり、急いでこちらの知識を詰め込んだものの、未だに過去に向かっている心に響いた。
「誰も自分の生まれる場所を選べない。あなたがアイリとして生を受けて歩んできた人生を否定するつもりはない。だが、人は過去の経験から学べるものだ。あなたの言うクズとの経験からあなたが臆病になるのはわかるが、だからと言って全てのことが同じとは限らない。あなたがアイリとして成し得なかったことを成そうと足掻き努力しているなら、アイリと同じ結末にはならないのではないか。少なくとも私にはあなた以外に思う人などいない。それだけでも既に同じ運命とはならないのではないか?」
諭すように彼が言う言葉でかちかちだった私の気持ちが溶けていくのがわかる。
「アイリ………そんなに固くなるな。私も緊張してくるではないか。私だって……本当に久しぶりだから……」
ルイスレーン様が初めてだとは思わなかったが、でも久しぶりって……どれくらい?
「士官学校時代に……厳しい父から離れて解放感を感じたのだろうな。一時悪い友達とつるんで羽目を外したことがある。すぐに学業が忙しくなってそんな時間も無くなったが」
「相手はどんな人だったのですか?」
ルイスレーン様がどんな女性が好みなのか単純に気になって訊ねた。そんなことを訊かれると思っていなかったのだろう。僅かに眉を上げて少し考えてから語りだした。
「他愛ない、思春期によくある衝動的な行動だ。気になるのか?」
「……私の、前の夫のことは話したので……それに、どんな人が好みだったのかなと……」
「好みか……好きか嫌いかと訊かれれば、好意は持っていたが、どこまで好きだったかと訊かれたらわからないな。私が十七、相手は……三つほど年上で自由奔放な人だった。街で出会って意気投合して……でも体を重ねてわかった。彼女には申し訳ないが、やはり心がないと空しいだけだと。その時一度きりで、それからは誰とも……大して面白くもない経験だ。過去に戻ってあの時の自分に助言できるなら、いずれ心から欲した女性が現れるまで我慢しろと言ってやりたい」
「でも、そのことがあってそう思うなら必要なことだったと思いますよ。その方のこと、その時はいいと思って抱かれたのなら、無駄ではなかったかと……」
「私としては……もう少し嫉妬してくれると嬉しいが…」
「過去のことを含めて私だと以前言ってくれましたよね。私も同じ気持ちです」
クリスティアーヌとしては経験がなくても、気持ちの上では彼が初めてではなくて、何となく気が咎めていた。互いに別々の人生を歩んできた者同士が、こうやって共に時間を共有する。人の縁とは本当に奇妙だ。