政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません
「大事ないか?」
まだ体の中に彼が入っていた感触は残っていて、擦れたところが痺れていたが、気持ちよさが上回っていた。
気だるげな体の痺れが逆に心地よく、彼にわかるように頷いた。
過去のあの人との記憶など既にどこかに飛んでしまった。
裸で抱き合いながら、耳に聞こえる鼓動が次第に落ち着くのを聞きながら、優しく背中や腕を撫でてくれる彼の手の気持ちよさに瞼が重くなり、やがて眠ってしまった。
クスクス。ヒソヒソ。
聞こえて来る笑い声やヒソヒソ話が全て自分に向けられている気持ちになる。
くすんだ緑のドレスの裳裾をぎゅっと握りしめ、ただひたすら俯いて壁の花に徹する。
淑女としては何の教育も受けていないので、こういう時に何をどうすればいいかわからない。
母が用意してくれたドレスを見たのは、まさにデビューの日、当日だった。
「お母さま……これ」
くすんだ緑色のドレスを見て私は愕然とした。
「素敵な色でしょ?あなたの髪色がとても良く映えると思うの」
本気で言っているのだろうか。屈託のない笑顔でそう言う。
叔父からの手当ては最近では殆ど回ってこず、人を雇うこともできないため、通いの者さえいない。
母のかつてのドレスは既に食糧などに化けていた。
母がどこかの古着屋からただ同然で手に入れてきたドレス。これを着ていくには今のクリスティアーヌは些か細すぎた。
それでも行かないわけにはいかなかった。
自分のような境遇でも、王宮へ行くことが出来る最初で最後の機会だったから。
俯いたまま、視線だけを動かして周囲の同年代の人達の様子を窺う。
皆、この日に合わせてドレスも髪型も何もかも完璧に整えてきている。
その中で自分だけが不似合いな衣裳を着て、何の装飾品も付けず、櫛を入れて軽く頭の低い位置で纏めただけの髪型で立っている。
馬車などないので、外套を羽織って王宮まで歩いてきた。慣れない靴で足も既に痛くて立っているのも辛い。
入り口で招待状を見せた時の係員の戸惑った表情が思い起こされる。
何度も何度も招待状が偽物ではないかと確認され、自分より後から到着した人達がどんどん先に通されていく。
「ベリル、一人通すのにどれ程の時間がかかっているのだ」
「閣下」
背後から低温の厳しい声が聞こえ、目の前にいるベリルと呼ばれた男性がビシッと敬礼した。
閣下と言うのだからきっと偉い人なのだろう。
もっと偉い人が出てきてしまった。
声の調子や目の前の男性の強張った顔を見て、とても怖い人なのだろうと思うと、怖くて後ろを振り向けない。
「この者の持つ招待状が怪しいので確認しておりました」
「だから……違います…これは正真正銘私に来たもので……」
「ご令嬢はこのように言っているが、なぜ偽物だと思うのだ。招待状は特別な紙を使用していて、簡単には偽造できない。その見分け方も聞いているだろう」
そうなのか。手触りが普通と違うと思った。
「それは、そうなのですが、しかしこの出で立ちは……」
ベリルが私の頭から爪先までを眉を寄せて眺める。
ここに来るような格好でないと思っているのだろう。
「特に問題はないように思うが?確かに少し大きさが合っていないように見えるが、控え目で露出の激しいものに比べればいいではないか。それに彼女の着ているものは公序良俗に反しているわけではい。招待状が本物である限り、通して差し上げなさい」
公序良俗に反していない……つまりは露出が過ぎるものとはまるで正反対の私のドレスであると彼は言った。自分でも不恰好だと認識しているこの服装を、そんな見方もあったのかと私自身驚いた。
「は、畏まりました」
閣下に一喝され、これまで頑として場所を譲ってくれなかった彼がすっと動いた。
信じられない思いで呆然とする。
「部下が失礼なことをした。こんなことで大事な夜を台無しにして申し訳ない。これに懲りずどうか今夜は楽しんでくれたまえ。成人おめでとう。ベリル、そなたも謝りなさい」
「大変失礼いたしました」
「あ、ありがとうございます」
先程までの高圧的な態度からうって変わって丁寧に言われて、後ろを振り返ると、その人はもう後ろを向いて立ち去る所だった。
濃紺の軍服の背中が見えた。
肩より少し長めのダークブロンドの髪色をした、体格のいい人だった。
「クリスティアーヌ……」
誰かが優しく声をかけて目元に触れた。
皆があからさまに蔑み、嘲笑する中でただ一人、優しい言葉をかけてくれた人だった。
「クリスティアーヌ」
再び名を呼ばれ、はっとする。
薄ぼんやりとした暗闇の中で、自分を見下ろす人影があった。
「きゃあ!」
「危ない」
びっくりして跳ね起き、向こう側に転げ落ちそうになったのを引き留められた。
肘をがっちりと掴まれ、寸でのところで寝台から転げ落ちるのを免れた。
「すまない。驚かせた」
寝ぼけている私の耳に聞こえて来る声。暗闇に目がなれてくると、だんだんと目の前にいる人の顔が判別できた。
「ル……ルイスレーン……様?」
「そうだ」
見渡して侯爵家のさっきまでいた部屋であることを確認し、もう一度自分の両腕を掴む人物の顔を見つめた。
まだ体の中に彼が入っていた感触は残っていて、擦れたところが痺れていたが、気持ちよさが上回っていた。
気だるげな体の痺れが逆に心地よく、彼にわかるように頷いた。
過去のあの人との記憶など既にどこかに飛んでしまった。
裸で抱き合いながら、耳に聞こえる鼓動が次第に落ち着くのを聞きながら、優しく背中や腕を撫でてくれる彼の手の気持ちよさに瞼が重くなり、やがて眠ってしまった。
クスクス。ヒソヒソ。
聞こえて来る笑い声やヒソヒソ話が全て自分に向けられている気持ちになる。
くすんだ緑のドレスの裳裾をぎゅっと握りしめ、ただひたすら俯いて壁の花に徹する。
淑女としては何の教育も受けていないので、こういう時に何をどうすればいいかわからない。
母が用意してくれたドレスを見たのは、まさにデビューの日、当日だった。
「お母さま……これ」
くすんだ緑色のドレスを見て私は愕然とした。
「素敵な色でしょ?あなたの髪色がとても良く映えると思うの」
本気で言っているのだろうか。屈託のない笑顔でそう言う。
叔父からの手当ては最近では殆ど回ってこず、人を雇うこともできないため、通いの者さえいない。
母のかつてのドレスは既に食糧などに化けていた。
母がどこかの古着屋からただ同然で手に入れてきたドレス。これを着ていくには今のクリスティアーヌは些か細すぎた。
それでも行かないわけにはいかなかった。
自分のような境遇でも、王宮へ行くことが出来る最初で最後の機会だったから。
俯いたまま、視線だけを動かして周囲の同年代の人達の様子を窺う。
皆、この日に合わせてドレスも髪型も何もかも完璧に整えてきている。
その中で自分だけが不似合いな衣裳を着て、何の装飾品も付けず、櫛を入れて軽く頭の低い位置で纏めただけの髪型で立っている。
馬車などないので、外套を羽織って王宮まで歩いてきた。慣れない靴で足も既に痛くて立っているのも辛い。
入り口で招待状を見せた時の係員の戸惑った表情が思い起こされる。
何度も何度も招待状が偽物ではないかと確認され、自分より後から到着した人達がどんどん先に通されていく。
「ベリル、一人通すのにどれ程の時間がかかっているのだ」
「閣下」
背後から低温の厳しい声が聞こえ、目の前にいるベリルと呼ばれた男性がビシッと敬礼した。
閣下と言うのだからきっと偉い人なのだろう。
もっと偉い人が出てきてしまった。
声の調子や目の前の男性の強張った顔を見て、とても怖い人なのだろうと思うと、怖くて後ろを振り向けない。
「この者の持つ招待状が怪しいので確認しておりました」
「だから……違います…これは正真正銘私に来たもので……」
「ご令嬢はこのように言っているが、なぜ偽物だと思うのだ。招待状は特別な紙を使用していて、簡単には偽造できない。その見分け方も聞いているだろう」
そうなのか。手触りが普通と違うと思った。
「それは、そうなのですが、しかしこの出で立ちは……」
ベリルが私の頭から爪先までを眉を寄せて眺める。
ここに来るような格好でないと思っているのだろう。
「特に問題はないように思うが?確かに少し大きさが合っていないように見えるが、控え目で露出の激しいものに比べればいいではないか。それに彼女の着ているものは公序良俗に反しているわけではい。招待状が本物である限り、通して差し上げなさい」
公序良俗に反していない……つまりは露出が過ぎるものとはまるで正反対の私のドレスであると彼は言った。自分でも不恰好だと認識しているこの服装を、そんな見方もあったのかと私自身驚いた。
「は、畏まりました」
閣下に一喝され、これまで頑として場所を譲ってくれなかった彼がすっと動いた。
信じられない思いで呆然とする。
「部下が失礼なことをした。こんなことで大事な夜を台無しにして申し訳ない。これに懲りずどうか今夜は楽しんでくれたまえ。成人おめでとう。ベリル、そなたも謝りなさい」
「大変失礼いたしました」
「あ、ありがとうございます」
先程までの高圧的な態度からうって変わって丁寧に言われて、後ろを振り返ると、その人はもう後ろを向いて立ち去る所だった。
濃紺の軍服の背中が見えた。
肩より少し長めのダークブロンドの髪色をした、体格のいい人だった。
「クリスティアーヌ……」
誰かが優しく声をかけて目元に触れた。
皆があからさまに蔑み、嘲笑する中でただ一人、優しい言葉をかけてくれた人だった。
「クリスティアーヌ」
再び名を呼ばれ、はっとする。
薄ぼんやりとした暗闇の中で、自分を見下ろす人影があった。
「きゃあ!」
「危ない」
びっくりして跳ね起き、向こう側に転げ落ちそうになったのを引き留められた。
肘をがっちりと掴まれ、寸でのところで寝台から転げ落ちるのを免れた。
「すまない。驚かせた」
寝ぼけている私の耳に聞こえて来る声。暗闇に目がなれてくると、だんだんと目の前にいる人の顔が判別できた。
「ル……ルイスレーン……様?」
「そうだ」
見渡して侯爵家のさっきまでいた部屋であることを確認し、もう一度自分の両腕を掴む人物の顔を見つめた。