政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません

「結婚して七ヶ月程になるが、ずっと戦地に居たので妻とも殆ど会話をしていなかった。最近になりようやく落ち着いて話すようになり、彼女の話とこちらが聞き及んでいた話に齟齬があると思った。だからその書類を提出した。これで納得したか」
「その齟齬とは?」

「ミゲル・モンドリオールが破綻寸前だと聞いているが、亡くなった先代……妻の父の代からそうだったと現子爵が言うので本当かどうか知りたかった。妻は父上を亡くしたときは十歳。その辺の事情は良く知らない。母上も既に亡くなっているので、確認しようとしたのだ」

彼女の父母の死に纏わる疑惑は語らず、それだけ伝えると長官は持っていた書類を机に置き、隣で自分たちのやり取りをはらはらと見守る部下の方を見た。

「なるほど……確かに十歳では自分の家の財政について知らないのも道理。ルース、あれを出しなさい」
「はい長官」

言われて彼はずっと抱えていた書類を机に広げた。

「結論から言えば、先代子爵の頃はそれほど窮状しておりません。むしろ堅実な運営をしていたと言えましょう。時折大金が動いておりますが、子爵は収支をきちんと操作し、うまく運営されていた方でしょう。閣下のおっしゃる負債はどこにも見当たりませんでした。遺された奥様とお嬢様が無理に切り詰めなくても生活できるだけの財産はあったかと」
「では、妻の叔父が嘘を?」
「どういう意図でそのようなことを言ったのかは存じませんが、恐らく兄の家族に渡すお金がないと主張したかったのでしょう。経営が危ないのは彼が爵位を継いでから、今の子爵はお世辞にも運営が上手いとは言えない。その上無駄な出費が多すぎます。貴族というのは財務局へ提出する書類に何らかの手を加えてうまく隠し財産を持っているものですが……失礼、閣下の所がそうだと言っているわけではありません」
「当たり前だ。我が家は後ろ指を指されるようなことは一切ない」

「とにかく、モンドリオール子爵家の報告は穴だらけ。再三報告書の手直しを要求してもまるで取り合ってくださらず、局員も手を焼いておりました」

長官は広げられた書類を確認し、いくつかをルイスレーンに渡す。

「私が見ても大丈夫なのか?私は部外者だぞ」
「構いません長官権限でお見せします。機密文書など閣下の所の方が多いでしょう」
「それもそうだ」

渡された書類をじっくりと見て、長官を見返した。

「なるほど……長官は私がその書類を出す前からこのことを知っていたのか?もしや陛下からの指示で?」
「穴だらけとは言え不正と言えるものではないのでどうすべきか考えておりました。閣下が提出された書類のお影で立証できそうです」

「まさに渡りに船ということか……それでどうする?」
「近日中に捜査令状が発行されるでしょう。子爵の財産は凍結のうえ差し押さえ、国家を謀った罪で投獄は免れないかと。悟られないよう閣下のこの書類は一旦私が預かります」

「わかった……妻の意向で別にお金が欲しいわけではない。真実がわかって妻の父が立派な当主だったとわかれば、それでいいのだ」
「一ダルもいらないと?」
「私の妻は欲がない。宝石もドレスも私が与えられる。それさえも必要以上にはいらないと言う。私が彼女の作ったものを美味しそうに食べるのを見る方が幸せだと言うのだ」

「え」

話を聞いて書類を纏めかけていたルースが手を止め、長官も今何を聞いたかわからず目をしばたかせた。

「………それは、控えめな方ですね……閣下の奥方は……侯爵夫人が厨房に立たれるとは初めて聞きました」
「家の者にも評判がいい。陛下にも召し上がって頂いたこともある」
「そ、そうですか……陛下まで……」
「私は甘いものは好まないのだが、そのことも考えてくれる」
「わ、私の妻もそこそこ料理は得意ですが……閣下がお羨ましいですな。それでは我々はこれで……結果は追ってお知らせ致します」

「わかった。朝早くからすまなかった」
「いえ、これも仕事ですから……奥様にもよろしくお伝えください」

そう言って二人は部屋を出ていった。

「わざわざ長官まで来てもらって申し訳なかったな」

横で控えていた侍従のカインを振り返ると、今まで見たこともない複雑な顔をしていた。

「どうしたカイン……」
「いえ………閣下の今の話が信じられなくて……その我が耳を疑っておりました」
「何のことだ?それより今の長官との話は当分内密に頼む。少しでも漏れたら彼らの仕事に支障が出る」

「わかっております。それより閣下の方こそ彼らに口止めされなくて良かったのですか?」
「何をだ?」
「奥様のことですよ。財務局長官と一役人にあんな惚気話……泣く子も黙る鉄面皮の副官で通っている閣下があんな……にやけた顔で……正直信じられません。彼らもきっとそう思っているでしょう」

「にやけ……私はそんな顔をしていたのか?」

「自覚なかったんですか……」

呆れたように肩を竦める侍従を見て、アイリへの思いが顔に出ていた知り、これはかなり重症だと気づいた。
初めはクリスティアーヌの事情を知り護りたいと思った。それは庇護欲の域を出ない思いだった。しかし少しずつクリスティアーヌでありアイリのことを知る内にどんどん気持ちが変化していった。
そして体を重ねて全てが一変した。
愛しさは更に募り、これまで抱いたことのない渇望に襲われた。クリスティアーヌが、アイリが欲しい。朝な夕なに一日中彼女と過ごせたらどんなに幸せだろう。

今日長官から聞いた話を知れば彼女はどう思うだろう。

しかしその日の夕方、帰宅の準備を進めている所にもたらされた知らせに驚愕した。

ベイル医師の所へ行っていたクリスティアーヌが行方知れずになった。
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