政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません

昨夜ここに来ることを公言したお陰で、目当ての人物がやって来た。

ゲイエノートン伯爵の夜会は彼自身がそうであるように華やかで有名だった。

ルイスレーンも昨夜と売って変わり、銀糸の刺繍が入った明るい青のジャケットに黒のスラックスを合わせている。

「ごきげんよう……リンドバルク卿」

目を輝かせ上目使いにそう挨拶するのはヴァネッサ・ルクレンティオ。ルイスレーンは獲物を見つけた捕捉者の如く目を光らせ、かかった獲物を見定めた。

「ごきげんよう、ヴァネッサ嬢。相変わらず……美しいですね」

それを成し遂げるための使用人の苦労が伺える程に複雑な髪型をして、細かい細工の櫛を差している。
相変わらず露出の激しい肩見せの明るい黄色のドレスにこれでもかと真珠が散りばめられている。

「美しいだなんて……ルイスレーン様にそのように言って頂けるなんて……」

名前呼びを許可した覚えもないのにすり寄ってくるのを逃げないように必死で耐える。
一緒に来た筈のエスコート役の青年のことなどすでに彼女の頭にはいないようだ。

彼はこちらを厳しい目で睨んでいるが、こちらが侯爵家当主であると分かっているので何も言ってこない。それこそが礼儀であり明らかに彼女の行動は礼儀を欠いていると言える。

叱責したいのを堪え、何度も鏡の前で練習した笑顔を見せた。クリスティアーヌになら自然に見せられる笑顔がこんなにも難しいとは思わなかった。

「今日こそは私と踊ってくださいね」

必死で自分の側に張り付き、他の女性が近づくのを牽制する。すがり付く腕に胸を押し付けてこられ、これが妻ならと無理やり脳内で変換する。

「私……ルイスレーン様の妻になるのが運命だと思っておりました。なのに、いくら陛下のご命令とは言え、あんな貧乏臭い子を花嫁になさるんだもの……ルイスレーン様がお気の毒だわ」

「貧乏臭い……確かに宝石やドレスの価値もわかっていないようです」

彼女はそんなことを知る必要などない。自分や周りの人間がいればそれで事足りる。
彼女を輝かせるのは彼女自身だ。目の前のからっぽの令嬢とは違う。

「本当の貴族というのはどれほど贅を尽くしても価値あるものを身につけるべきなのです。それが貴族として生まれた者の特権ですもの」

貴族が何のためにあるのか、貴族がその地位に胡座をかいて贅沢三昧することが良いとは思っていない。そこには義務も発生する。

彼女が今夜身に纏っているもの全てにかかった費用はいかほどか。そのドレス一着の値段で何人の平民がどれだけ働かずに生きていけるだろう。

「なるほど……だからあなたは美しいのですね。ご自分をよくわかっていらっしゃる」
「まあ、美しいだなんて……後は完璧な夫がいれば最高なんですけど」

ちらりとこちらを見て明らかに媚を売る仕草に込み上げる吐き気と戦いながら、この時のために用意したとっておきの笑みを向ける。

どんなに恥ずかしくとも成さねばならない。

クリスティアーヌを……アイリを見つけるために。

「そのことについて、二人きりでお話したいのですが、あなたのお時間をいただけますか?」
「え…ええ……もちろんよ」
「とは言っても私はまだ妻がいる身。二人一緒に抜け出しては変に思われてしまいます。先に出て待っていますので、様子を見て裏口から出て来ていただけますか?」

彼女の手を取り甲に軽く口づけると、頬を染めて目を潤ませる。

「待っていますよ、美しい人」

彼女と離れて伯爵に暇を告げ、馬車に乗り込む。
そこにはナタリーが項垂れて座っていた。

「餌に食いついたぞ。上手くいけば私から処分はしない。無事にクリスティアーヌが戻るまで死に物狂いでことに当たれ」
「はい閣下」
「ギオーヴ、馬車を裏に廻してくれ」

御者台にいるギオーヴに声をかけると馬車が動き出した。

裏口に着いて程なくすると馬車の扉を叩く音がしてカーテンを開けると顔を紅潮させたルクレンティオ侯爵令嬢が立っていた。

「早かったですね。誰にも悟られませんでしたか?」
「ええ、私、抜け出すのは得意ですの」

手を差しのべて中へ招き入れると彼女は私以外の人物がいることに驚いた。

「だ、誰?」

「心配しないで、護衛ですよ」

「護衛?そうなの……珍しいですわね。女性の護衛なんて」

彼女を自分の隣に座らせると外からギオーヴが扉を閉めて鍵をかけた。

「ルイスレーン様……なぜ鍵を?」

彼女が不思議がって訊ねる。

「もちろん、あなたを逃がさないためですよ。ヴァネッサ」

もう愛想を振り撒く必要もないため、甘い声音はかなぐり捨てる。明らかに声の調子が変わったことに、頭の中身が自分に都合よく出来ている彼女も警戒する。

「ル、ルイスレーン様?」
「彼女はナタリー。護衛だ」
「ええ、それは先ほど……」
「私ではなく、私の妻の護衛だ。あなたが買収し、私の妻を拐う手引きをさせた、護衛のナタリーだ」

そこで改めて彼女はナタリーを見る。魔石の灯りを点して浮かび上がったナタリーの顔を彼女は青ざめた顔で見詰めた。
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