政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません
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自分のすぐ側で安心して眠りにつく妻を見下ろし、彼はこの生きた心地のしなかった五日間を思い出す。
クリスティアーヌが行方不明になり、手がかりもないまま一夜が明けた。
徹夜で彼女の捜索に当たっていたルイスレーンが一時的に邸に戻ると、ギオーヴが神妙な顔でナタリーと現れた。
「どうした?」
嫌な予感が脳裏を掠め、慌てて駆け寄るとギオーヴがナタリーの頭を押さえつけその場に土下座した。
「すみません!」
ごつんと額を床に打ち付ける音と共にギオーヴが声を発した。
「何を……」
「今回のこと、こいつが手引きしてしでかしたことだ。俺がこいつを護衛に付けた。俺にも責任がある」
「な……」
二人の後頭部を呆然として見詰め、一瞬思考が停止した。
「こいつが……金をもらって今回の騒動を手助けした。何かおかしいと思って問い詰めたら、白状した、ナタリー」
「も、申し訳ございません!ひと晩どこかに閉じ込めたら帰すと、危害は加えないと言われて、でも夜が明けても奥様が戻ってこないのでおかしいと思い……すいません!」
悲壮な声で叫び額をすり付けて告白するナタリーを見下ろし、ルイスレーンは怒りがこみ上げて拳を間接が白くなるほど握りしめた。
「人選は俺の責任だ。罰は俺も受ける」
「いいえ、ギオーヴ様、これは私の責任です!私一人の」
「仔細を話せ!」
凍てついた絶対零度の空気が立ち昇る。ナタリーは彼の妻の護衛として赴任するまで、当然の如く侯爵との面識はなかった。
ギオーヴに見出だされ初めて彼と対面し、それから護衛となるクリスティアーヌに紹介された。
鉄面皮で愛想がない。妻といる侯爵は噂に聞いていたのと違い、物腰が柔らかく穏やかに見えた。
それは奥方も同じで、彼女は貴族の奥方とは思えない腰の低さで自分達に丁寧なまでに接した。護衛として行った先も、贅沢な買い物や芝居見物などでなく、戦で身内を亡くした人達の所だった。彼女は時には娘のように、時には友達のように彼女たちに心を砕き、自ら焼いた菓子を振る舞う。また別の日には診療所に併設した保育園なる場所を訪問し、食べ物でべたべたになった子ども達が衣服を触っても気にしない。
そんな彼女の様子はナタリー別の意味で彼女を戸惑わせた。自分が知っている貴族と明らかに違ったからだ。
「私が奥様の護衛になってすぐに、街で士官学校時代の同期と会いました。特に親しかったわけではありませんが、誘われるまま酒を飲み交わし、互いの近況について語りました。ハミルというその同期は卒業してルクレンティオ侯爵家に雇われ、邸の警護をしております」
地方の貧乏男爵の娘のナタリーと同じく貧乏子爵の次男のハミルはライバルにも成り得なかった。士官学校時代、ハミルはその技能においてナタリーの足元にも及ばなかった。
なのに卒業後ナタリーが得た職は日雇いの商人の護衛。ハミルは筆頭侯爵家に就職が決まった。それは彼が男でナタリーが女だから。女の護衛に対しての世間の風は厳しかった。
ナタリーには年の離れた弟、ジュードがいる。いずれは男爵家を継ぐ利口なジュードに、出来れば王都でいい教育を受けさせたかった。
そのためにお金がいる。
ハミルは彼女がクリスティアーヌの護衛に雇われたと聞きつけ、彼女に今回の話を持ちかけた。
「ルクレンティオ侯爵家……首謀者は誰だ?当主かそれとも……」
「ご息女のヴァネッサ様です」
ナタリーは侯爵の穏やかな物言いが、ひとえに奥方が側にいたからだとこの時悟った。
今その奥方が拐かされ、彼の怒りは頂点に達している。少しでも触れれば致命傷を負いかねない鋭い刃のようだ。
「ヴァネッサ……あのあばずれ」
ぎりりと歯ぎしりして獣の咆哮のような恐ろしい声を耳にし、ちらりと見れば俯いているギオーヴも冷や汗を滴し青ざめ震えている。
それでも彼は怒りに任せて怒鳴り散らすのでなく、それが返って恐ろしく思えた。
「ダレク!」
不意に侯爵が外に向かって叫んだ。
「はい、旦那様」
すかさず扉を開けて人が入ってくる。ナタリーがちらりと俯いたまま視線だけを動かすと、何度も彼女を出迎えてくれたこの家の執事だった。
「今夜から三日の内に開かれる夜会を調べろ!同時に開かれていても構わない。それら全てに私が参加してもいいか伝えろ!主催者には丁寧に突然の参加を詫びてな」
「………畏まりました」
執事は何故と訊ねることなく承諾して部屋を出ていった。
「頭を上げて立て」
執事が出ていくと侯爵がギオーヴたちに命令する。言われるまま二人は顔を見合わせながら立ち上がる。ギオーヴの額は擦りきれ血が滲み出ていた。
「ギオーヴ殿に免じて今は処罰しない。その代わり妻が見つかるまで休息はないと思え」
「「御意」」
少しの躊躇いもなく一礼する。
「それで、どうされるのですか?」
先ほどの執事に下した命令の意図をギオーヴが訊ねた。
「餌を撒く。夜会に赴きそのあばずれがのこのこと出てきた所を上手く引っ張り出して誰に頼んだか自白させる」
そう言う彼の目は獲物を捕捉する野獣のように光った。
自分のすぐ側で安心して眠りにつく妻を見下ろし、彼はこの生きた心地のしなかった五日間を思い出す。
クリスティアーヌが行方不明になり、手がかりもないまま一夜が明けた。
徹夜で彼女の捜索に当たっていたルイスレーンが一時的に邸に戻ると、ギオーヴが神妙な顔でナタリーと現れた。
「どうした?」
嫌な予感が脳裏を掠め、慌てて駆け寄るとギオーヴがナタリーの頭を押さえつけその場に土下座した。
「すみません!」
ごつんと額を床に打ち付ける音と共にギオーヴが声を発した。
「何を……」
「今回のこと、こいつが手引きしてしでかしたことだ。俺がこいつを護衛に付けた。俺にも責任がある」
「な……」
二人の後頭部を呆然として見詰め、一瞬思考が停止した。
「こいつが……金をもらって今回の騒動を手助けした。何かおかしいと思って問い詰めたら、白状した、ナタリー」
「も、申し訳ございません!ひと晩どこかに閉じ込めたら帰すと、危害は加えないと言われて、でも夜が明けても奥様が戻ってこないのでおかしいと思い……すいません!」
悲壮な声で叫び額をすり付けて告白するナタリーを見下ろし、ルイスレーンは怒りがこみ上げて拳を間接が白くなるほど握りしめた。
「人選は俺の責任だ。罰は俺も受ける」
「いいえ、ギオーヴ様、これは私の責任です!私一人の」
「仔細を話せ!」
凍てついた絶対零度の空気が立ち昇る。ナタリーは彼の妻の護衛として赴任するまで、当然の如く侯爵との面識はなかった。
ギオーヴに見出だされ初めて彼と対面し、それから護衛となるクリスティアーヌに紹介された。
鉄面皮で愛想がない。妻といる侯爵は噂に聞いていたのと違い、物腰が柔らかく穏やかに見えた。
それは奥方も同じで、彼女は貴族の奥方とは思えない腰の低さで自分達に丁寧なまでに接した。護衛として行った先も、贅沢な買い物や芝居見物などでなく、戦で身内を亡くした人達の所だった。彼女は時には娘のように、時には友達のように彼女たちに心を砕き、自ら焼いた菓子を振る舞う。また別の日には診療所に併設した保育園なる場所を訪問し、食べ物でべたべたになった子ども達が衣服を触っても気にしない。
そんな彼女の様子はナタリー別の意味で彼女を戸惑わせた。自分が知っている貴族と明らかに違ったからだ。
「私が奥様の護衛になってすぐに、街で士官学校時代の同期と会いました。特に親しかったわけではありませんが、誘われるまま酒を飲み交わし、互いの近況について語りました。ハミルというその同期は卒業してルクレンティオ侯爵家に雇われ、邸の警護をしております」
地方の貧乏男爵の娘のナタリーと同じく貧乏子爵の次男のハミルはライバルにも成り得なかった。士官学校時代、ハミルはその技能においてナタリーの足元にも及ばなかった。
なのに卒業後ナタリーが得た職は日雇いの商人の護衛。ハミルは筆頭侯爵家に就職が決まった。それは彼が男でナタリーが女だから。女の護衛に対しての世間の風は厳しかった。
ナタリーには年の離れた弟、ジュードがいる。いずれは男爵家を継ぐ利口なジュードに、出来れば王都でいい教育を受けさせたかった。
そのためにお金がいる。
ハミルは彼女がクリスティアーヌの護衛に雇われたと聞きつけ、彼女に今回の話を持ちかけた。
「ルクレンティオ侯爵家……首謀者は誰だ?当主かそれとも……」
「ご息女のヴァネッサ様です」
ナタリーは侯爵の穏やかな物言いが、ひとえに奥方が側にいたからだとこの時悟った。
今その奥方が拐かされ、彼の怒りは頂点に達している。少しでも触れれば致命傷を負いかねない鋭い刃のようだ。
「ヴァネッサ……あのあばずれ」
ぎりりと歯ぎしりして獣の咆哮のような恐ろしい声を耳にし、ちらりと見れば俯いているギオーヴも冷や汗を滴し青ざめ震えている。
それでも彼は怒りに任せて怒鳴り散らすのでなく、それが返って恐ろしく思えた。
「ダレク!」
不意に侯爵が外に向かって叫んだ。
「はい、旦那様」
すかさず扉を開けて人が入ってくる。ナタリーがちらりと俯いたまま視線だけを動かすと、何度も彼女を出迎えてくれたこの家の執事だった。
「今夜から三日の内に開かれる夜会を調べろ!同時に開かれていても構わない。それら全てに私が参加してもいいか伝えろ!主催者には丁寧に突然の参加を詫びてな」
「………畏まりました」
執事は何故と訊ねることなく承諾して部屋を出ていった。
「頭を上げて立て」
執事が出ていくと侯爵がギオーヴたちに命令する。言われるまま二人は顔を見合わせながら立ち上がる。ギオーヴの額は擦りきれ血が滲み出ていた。
「ギオーヴ殿に免じて今は処罰しない。その代わり妻が見つかるまで休息はないと思え」
「「御意」」
少しの躊躇いもなく一礼する。
「それで、どうされるのですか?」
先ほどの執事に下した命令の意図をギオーヴが訊ねた。
「餌を撒く。夜会に赴きそのあばずれがのこのこと出てきた所を上手く引っ張り出して誰に頼んだか自白させる」
そう言う彼の目は獲物を捕捉する野獣のように光った。