政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません
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副官として与えられた二間続きの部屋の一室で、湯浴みを終えて野営地での埃と垢を落とすと、侍従が食事を持ってくる間にルイスレーンはもう一度ダレクからの手紙に目を通した。
皇子の気遣いはわかっていたが、帰りたいかと訊かれれば、わからないというのが彼の本音だった。
泣いて怯えている彼女しか知らない。
それに今彼女は記憶を失くしている。
自分が戻って彼女が喜んでくれるかわからない。医者ではない自分が戻ったところでできることは何もないのではないか。
身の回りのことはダレクやマリアンナがいれば不自由はない。
彼の人生で妻の姿を見たのは二度。
一度目は彼女のデビューの日。軍人として会場の警備で見かけた。二度目は結婚式の日。
デビューの日に見かけた彼女は、女性の衣装というものに関心のない彼でも何だか奇妙だと感じるものだった。
誰もが楽しげに会場入りする中で、彼女は下を向き恥ずかしげにやってきた。
明るい茶色の髪(キャラメル色と言うらしい)を緩く結い上げ、装飾品らしいものもなく、くすんだ緑の衣装を着ていた。
明らかに誰かのお下がり。しかもかなり昔のもので、サイズも合っていないのか、服の中で体が泳いでいる感じだ。
思った通り彼女にダンスを申し込む者はおらず、最後まで壁の花だった。自分が職務中でなければ何とかしたかもしれない。
「いくら何でもあれはないな」
警備の控え室で同僚たちが話していた。
「母方が王家の血を引いているとは言え、かなり昔のことだ。その上有力な親族もなく、十分な持参金もない」
「それに見たか、あの衣装……いつの時代のやつだ」
「母と娘で亡くなった子爵の弟の世話になっているそうだ」
それが彼女のことを言っているとわかった。
その時、彼女が誰かを知った。
そして七ヶ月前に国王陛下から親族に連なる姫で両親を亡くし、よるべない身の上の者がいる。嫁にもらってくれないかと言われ、名前と年齢だけを聞いただけで他は何も聞かず承諾した。
クリスティアーヌ・モンドリオール。十九歳。
もともと結婚というものに幻想を抱いておらず、周りの既婚者の話を耳にするも、最初は幸せそうにしていてもすぐに愚痴ばかり口にしているのを見ると、自分には無理だと感じていた。
母親が亡くなってずっと父と二人だったので身近に手本がなかったのもあり、結婚は家のためにするものと何となく受け入れていた、
だから自分が結婚することで人助けになるならと承諾した。
花嫁の希望があればできるだけ叶えるようにと執事に頼み、結婚式当日の朝早く滑り込むように式場にやって来た。
デビューの時とは違い、きちんと彼女の体に合わせて作られた純白の花嫁衣装。
首の辺りから胸までを美しいレースが覆い、手首まで続いている。胸の辺りに銀糸と真珠が美しく飾られている。
ほっそりとした彼女の腰から真っ直ぐ伸びるスカートは膝の辺りで広がっていた。
薄い短いベールに侯爵家に伝わるティアラを付け、首にはダイヤモンドのチョーカーを身につけていた。
装飾品ひとつ付けていなかったデビューとは何もかも違っていた。
この美しい女性が自分の花嫁。自分のために今日、この場にいる。花嫁が結婚式に一番輝くのは当たり前だが、思わず息を飲む自分がいた。
そして近づくにつれそのきめ細かい肌の色艶がわかり、父親役を買って出てくれた軍曹から自分に移る彼女の白くほっそりした手を握ると、心がざわついた。
いつかは子どもをつくるための結婚はしなくてはならないとは思っていた。
世紀の恋と言える相手でなくても尊重はできる。妻として母として大事にできる自信はあった。
それが今、こうして思いがけず結婚することになった。
国王に言われただけで結婚を決めたわけではない。
なぜか彼女を気にかける自分がいた。
緊張する彼女を少しでも落ち着かせようと笑おうとしたが、うまく笑えたのかわからない。
怯えて見上げるその時の金の瞳と、結婚式の翌朝の彼女の姿が鮮明に思い出される。
どんな場所でも短い仮眠を取ることに慣れている彼だが、その夜ほど早く夜が明けて欲しいと思った時はなかった。
まんじりともせず朝を告げる鳥の囀りを耳にして起きると、丸まってこちらを向いている彼女の寝顔があった。
副官として与えられた二間続きの部屋の一室で、湯浴みを終えて野営地での埃と垢を落とすと、侍従が食事を持ってくる間にルイスレーンはもう一度ダレクからの手紙に目を通した。
皇子の気遣いはわかっていたが、帰りたいかと訊かれれば、わからないというのが彼の本音だった。
泣いて怯えている彼女しか知らない。
それに今彼女は記憶を失くしている。
自分が戻って彼女が喜んでくれるかわからない。医者ではない自分が戻ったところでできることは何もないのではないか。
身の回りのことはダレクやマリアンナがいれば不自由はない。
彼の人生で妻の姿を見たのは二度。
一度目は彼女のデビューの日。軍人として会場の警備で見かけた。二度目は結婚式の日。
デビューの日に見かけた彼女は、女性の衣装というものに関心のない彼でも何だか奇妙だと感じるものだった。
誰もが楽しげに会場入りする中で、彼女は下を向き恥ずかしげにやってきた。
明るい茶色の髪(キャラメル色と言うらしい)を緩く結い上げ、装飾品らしいものもなく、くすんだ緑の衣装を着ていた。
明らかに誰かのお下がり。しかもかなり昔のもので、サイズも合っていないのか、服の中で体が泳いでいる感じだ。
思った通り彼女にダンスを申し込む者はおらず、最後まで壁の花だった。自分が職務中でなければ何とかしたかもしれない。
「いくら何でもあれはないな」
警備の控え室で同僚たちが話していた。
「母方が王家の血を引いているとは言え、かなり昔のことだ。その上有力な親族もなく、十分な持参金もない」
「それに見たか、あの衣装……いつの時代のやつだ」
「母と娘で亡くなった子爵の弟の世話になっているそうだ」
それが彼女のことを言っているとわかった。
その時、彼女が誰かを知った。
そして七ヶ月前に国王陛下から親族に連なる姫で両親を亡くし、よるべない身の上の者がいる。嫁にもらってくれないかと言われ、名前と年齢だけを聞いただけで他は何も聞かず承諾した。
クリスティアーヌ・モンドリオール。十九歳。
もともと結婚というものに幻想を抱いておらず、周りの既婚者の話を耳にするも、最初は幸せそうにしていてもすぐに愚痴ばかり口にしているのを見ると、自分には無理だと感じていた。
母親が亡くなってずっと父と二人だったので身近に手本がなかったのもあり、結婚は家のためにするものと何となく受け入れていた、
だから自分が結婚することで人助けになるならと承諾した。
花嫁の希望があればできるだけ叶えるようにと執事に頼み、結婚式当日の朝早く滑り込むように式場にやって来た。
デビューの時とは違い、きちんと彼女の体に合わせて作られた純白の花嫁衣装。
首の辺りから胸までを美しいレースが覆い、手首まで続いている。胸の辺りに銀糸と真珠が美しく飾られている。
ほっそりとした彼女の腰から真っ直ぐ伸びるスカートは膝の辺りで広がっていた。
薄い短いベールに侯爵家に伝わるティアラを付け、首にはダイヤモンドのチョーカーを身につけていた。
装飾品ひとつ付けていなかったデビューとは何もかも違っていた。
この美しい女性が自分の花嫁。自分のために今日、この場にいる。花嫁が結婚式に一番輝くのは当たり前だが、思わず息を飲む自分がいた。
そして近づくにつれそのきめ細かい肌の色艶がわかり、父親役を買って出てくれた軍曹から自分に移る彼女の白くほっそりした手を握ると、心がざわついた。
いつかは子どもをつくるための結婚はしなくてはならないとは思っていた。
世紀の恋と言える相手でなくても尊重はできる。妻として母として大事にできる自信はあった。
それが今、こうして思いがけず結婚することになった。
国王に言われただけで結婚を決めたわけではない。
なぜか彼女を気にかける自分がいた。
緊張する彼女を少しでも落ち着かせようと笑おうとしたが、うまく笑えたのかわからない。
怯えて見上げるその時の金の瞳と、結婚式の翌朝の彼女の姿が鮮明に思い出される。
どんな場所でも短い仮眠を取ることに慣れている彼だが、その夜ほど早く夜が明けて欲しいと思った時はなかった。
まんじりともせず朝を告げる鳥の囀りを耳にして起きると、丸まってこちらを向いている彼女の寝顔があった。