政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません
「妙な噂を聞いた」
オリヴァー殿下が悩ましげにそう言った。
場所は王都とベルトラン砦とのちょうど中間にある街、デランチェア。
その街の領主の屋敷の一室で二人で凱旋についての打ち合わせをしていた。
砦を出立してすでに一週間。通りすぎる街や村で第二皇子の軍は人々に歓待を受けた。
そのまま通りすぎる場所もあれば、一夜を明かすため滞在した所もある。
殿下や幹部は村長や領主の邸の一部を借り受け、その他は宿屋や周辺の野原で夜営をしてきた。
早駆けの少人数で王都を往復した時とは違い、総勢一万程の行軍である。遅々として歩みが遅いのは致し方ない。
「妙な噂……ですか?」
ルイスレーンは向かいに座る殿下を見やり、自分の知っている情報を頭の中で整理し、どんな噂だろうと目測する。
自分が知らない噂が、自分を通り越して殿下の耳に入っているのかもしれない。
「堅物で知られるリンドバルク侯爵閣下が、侍従に夫婦の極意とは何かを訊いたとか訊かないとか……更に『恋』とはどんなものか訊ねたとか……」
ばさり。手に持っていた書類が落ちた。
慌てて落ちた書類を拾い上げる。殿下の足元にも一枚滑り、殿下が拾って渡してくれた。
「………そ、そのような……」
「侯爵閣下が望む答えが出来なかったと嘆いた侍従が、侍従仲間や既婚の者に色々と訊ね回っているそうだ」
そう言ってこちらを見るオリヴァーの目に、どんな戦局でも常に冷静を心がけている部下の顔に動揺が映るのが見えた。
ーこういうことでこいつをからかう時が来ようとは……
心の中でオリヴァーがほくそ笑む。
「一応私も妻がいる身。独り身の侍従ではなく私を頼って訊いてくれてもよかったのでは?」
「私事で殿下を煩わせるなど、畏れ多い………」
「私は一向に構わん。信頼できる部下ではあるが、むしろそなたとは無二の親友として在りたいと思っている。どんなことでも頼ってくれればうれしい」
「もったいなきお言葉です……」
「それで、『恋』とは……誰か気になる女人でも?」
オリヴァーがわざと誰とは言わずに訊ねる。
「誰……とは……妻以外あり得ません」
わかってはいたが、彼の答えにオリヴァーは更に疑問を投げ掛ける。
「急にどうしてそんなことを?もう半年以上もそなたら夫婦は会っていないだろう。ここ最近は手紙のやり取りをしているようだが、それだけではないのか?」
「実は……」
オリヴァーの問いにルイスレーンは王都で偶然会ったことや国王から聞いたことをかいつまんで話した。
「俄には信じられないな……もちろん私もそなたほども彼女のことは知らないが、本当にそれは奥方なのか?」
街に出てニコラス・ベイルが始めた診療所で子どもたちの世話をしているということに、オリヴァーもルイスレーン同様、実際見たことがないだけに疑った。
「国王陛下がおっしゃるのですから間違いはないかと」
「それは父上のことだから、嘘は言っていないだろうが……そう言えば以前王宮で茶会を催した時のことだが」
「はい。砦に派遣されている兵士の妻たちを集めたという、あれですね」
「あの後イヴァンジェリンから手紙が来た。そなたの奥方と話したことについて報せてくれた」
それを聞いてルイスレーンが立ち上がる。
「……お妃様方は何とおっしゃっておりましたか?彼女は何か失礼なことでも?そうでしたら今回ばかりは私に免じて大目に見てください。彼女は父親である子爵を亡くしてから苦労しており、此度は記憶も……」
「まあ、そう結論を急ぐな。何も失態などおかしていない。私がそなたに手紙も寄越さない薄情な妻だと言ったせいで、むしろ最初に偏見の目で見ていたこちらが悪いくらいだ」
「それでは……」
「ほんの短い時間に言葉を交わしただけなので、イヴァンジェリンもエレノア様もはっきりと断定はできないが、とにかく分を弁えた頭の良さを誉めていた。たった一人で皇太子妃と第二皇子妃に対峙しても、きちんと対応していたそうだ」
陛下も同じようなことを言っていたことを思い出す。
その言葉にホッとして体の緊張が解けた。
必死で妻を庇おうとした彼の様子にオリヴァーは驚きを禁じ得なかった。
「よほど大事に思っていると見える」
口元を綻ばせ、新鮮な彼の反応に心から楽しそうな顔をする。
「それは王族の姫として、陛下から預かった大事な……」
「本当はそれだけでないことは、自分でも気づいているのではないのか?そなたに取っては慣れない感情だろうが、頭でっかちに考えず素直に感じたらどうだ?女として意識して妻として大切にしたいと思っているのだろう?」
殿下に言われた言葉を反芻し、自問自答する。
「……しかし、彼女とはまだ殆ど一緒に過ごしておりません」
「理屈や時間ではない。長く一緒にいたからと言って必ずしも好きになるとは限らない。どんな女性が好みとか条件を並べてみたところで、そんなものは好きになってしまえば何の役にも立たない」
「……私が……彼女を?」
「今すぐ答えがわからなくても、そなたらは既に夫婦だ。そばにいる内に私の言っていた意味がわかるだろう」
考え込むルイスレーンを見てオリヴァーはこの話はここまでだと、凱旋パレードについて話を戻した。
ルイスレーンの頭の中でオリヴァーに言われたことを、何度も繰り返すことになる。
王都まで後四日。
自分にこの問題について答えが出せるのだろうか。
オリヴァー殿下が悩ましげにそう言った。
場所は王都とベルトラン砦とのちょうど中間にある街、デランチェア。
その街の領主の屋敷の一室で二人で凱旋についての打ち合わせをしていた。
砦を出立してすでに一週間。通りすぎる街や村で第二皇子の軍は人々に歓待を受けた。
そのまま通りすぎる場所もあれば、一夜を明かすため滞在した所もある。
殿下や幹部は村長や領主の邸の一部を借り受け、その他は宿屋や周辺の野原で夜営をしてきた。
早駆けの少人数で王都を往復した時とは違い、総勢一万程の行軍である。遅々として歩みが遅いのは致し方ない。
「妙な噂……ですか?」
ルイスレーンは向かいに座る殿下を見やり、自分の知っている情報を頭の中で整理し、どんな噂だろうと目測する。
自分が知らない噂が、自分を通り越して殿下の耳に入っているのかもしれない。
「堅物で知られるリンドバルク侯爵閣下が、侍従に夫婦の極意とは何かを訊いたとか訊かないとか……更に『恋』とはどんなものか訊ねたとか……」
ばさり。手に持っていた書類が落ちた。
慌てて落ちた書類を拾い上げる。殿下の足元にも一枚滑り、殿下が拾って渡してくれた。
「………そ、そのような……」
「侯爵閣下が望む答えが出来なかったと嘆いた侍従が、侍従仲間や既婚の者に色々と訊ね回っているそうだ」
そう言ってこちらを見るオリヴァーの目に、どんな戦局でも常に冷静を心がけている部下の顔に動揺が映るのが見えた。
ーこういうことでこいつをからかう時が来ようとは……
心の中でオリヴァーがほくそ笑む。
「一応私も妻がいる身。独り身の侍従ではなく私を頼って訊いてくれてもよかったのでは?」
「私事で殿下を煩わせるなど、畏れ多い………」
「私は一向に構わん。信頼できる部下ではあるが、むしろそなたとは無二の親友として在りたいと思っている。どんなことでも頼ってくれればうれしい」
「もったいなきお言葉です……」
「それで、『恋』とは……誰か気になる女人でも?」
オリヴァーがわざと誰とは言わずに訊ねる。
「誰……とは……妻以外あり得ません」
わかってはいたが、彼の答えにオリヴァーは更に疑問を投げ掛ける。
「急にどうしてそんなことを?もう半年以上もそなたら夫婦は会っていないだろう。ここ最近は手紙のやり取りをしているようだが、それだけではないのか?」
「実は……」
オリヴァーの問いにルイスレーンは王都で偶然会ったことや国王から聞いたことをかいつまんで話した。
「俄には信じられないな……もちろん私もそなたほども彼女のことは知らないが、本当にそれは奥方なのか?」
街に出てニコラス・ベイルが始めた診療所で子どもたちの世話をしているということに、オリヴァーもルイスレーン同様、実際見たことがないだけに疑った。
「国王陛下がおっしゃるのですから間違いはないかと」
「それは父上のことだから、嘘は言っていないだろうが……そう言えば以前王宮で茶会を催した時のことだが」
「はい。砦に派遣されている兵士の妻たちを集めたという、あれですね」
「あの後イヴァンジェリンから手紙が来た。そなたの奥方と話したことについて報せてくれた」
それを聞いてルイスレーンが立ち上がる。
「……お妃様方は何とおっしゃっておりましたか?彼女は何か失礼なことでも?そうでしたら今回ばかりは私に免じて大目に見てください。彼女は父親である子爵を亡くしてから苦労しており、此度は記憶も……」
「まあ、そう結論を急ぐな。何も失態などおかしていない。私がそなたに手紙も寄越さない薄情な妻だと言ったせいで、むしろ最初に偏見の目で見ていたこちらが悪いくらいだ」
「それでは……」
「ほんの短い時間に言葉を交わしただけなので、イヴァンジェリンもエレノア様もはっきりと断定はできないが、とにかく分を弁えた頭の良さを誉めていた。たった一人で皇太子妃と第二皇子妃に対峙しても、きちんと対応していたそうだ」
陛下も同じようなことを言っていたことを思い出す。
その言葉にホッとして体の緊張が解けた。
必死で妻を庇おうとした彼の様子にオリヴァーは驚きを禁じ得なかった。
「よほど大事に思っていると見える」
口元を綻ばせ、新鮮な彼の反応に心から楽しそうな顔をする。
「それは王族の姫として、陛下から預かった大事な……」
「本当はそれだけでないことは、自分でも気づいているのではないのか?そなたに取っては慣れない感情だろうが、頭でっかちに考えず素直に感じたらどうだ?女として意識して妻として大切にしたいと思っているのだろう?」
殿下に言われた言葉を反芻し、自問自答する。
「……しかし、彼女とはまだ殆ど一緒に過ごしておりません」
「理屈や時間ではない。長く一緒にいたからと言って必ずしも好きになるとは限らない。どんな女性が好みとか条件を並べてみたところで、そんなものは好きになってしまえば何の役にも立たない」
「……私が……彼女を?」
「今すぐ答えがわからなくても、そなたらは既に夫婦だ。そばにいる内に私の言っていた意味がわかるだろう」
考え込むルイスレーンを見てオリヴァーはこの話はここまでだと、凱旋パレードについて話を戻した。
ルイスレーンの頭の中でオリヴァーに言われたことを、何度も繰り返すことになる。
王都まで後四日。
自分にこの問題について答えが出せるのだろうか。