政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません
沈黙に耐えきれず先に口を開いたのは私だった。

「あの……怒っていらっしゃいますか?」

そう訊ねたのは彼の唇が固く引き結ばれたからだった。

「怒ってはいない……侯爵夫人が訪問することに怖じ気づく方々がいるのに、よく子守りをさせてくれるものだ」

「いえ……私が侯爵夫人だと知っているのは先生だけで、他の方は知りません。私は平民のクリッシーと名乗っています」
「クリッシー……」

そう呟いて今度は両手で顔を覆って俯いてしまった。

「あの……旦那様?」

呆れてしまったのだろうか。私の行動は生粋の貴族の彼には受け入れられない話なのだろう。

「どうしてそういうことになったのか、訪ねても?ベイル氏との繋がりはフォルトナー先生からだとわかるし、彼は医者だ。あなたに起こったことについて相談したところまでは理解できるが」

顔を上げて真っ向から言われて躊躇った。

「えっとですね。最初は働きたいと言ったのですが……」

「働く!?」

「それはダレクやマリアンナに反対されました」

「当然のことだ」

ほっとした彼を見て何だか自分がとても悪い子になった気になる。

やっぱりそうだよね。社長夫人でも働いたりできたのは地球だからだ。

「そもそも働くとか、そんな発想は一体どこから」

「それは………記憶を失くして先生に色々と教わってはいたのですが、私自身自分に自信がないというか……」

ルイスレーン様に捨てられても生きていけるように、と思ってとはとても言えない。

「少し人の役に立つことをすれば自信が持てるのではないかと……社会奉仕なら貴族としてよくやっていることだと先生が……」
「少し意味が違うと思うが……社会奉仕と言っても働く貴族はいない。せいぜい孤児院や診療所を慰問したりするくらいだ。直接世話をすることはまずない」

「綺麗な服を着て、ただご機嫌伺いしたいわけではないのです」

「その考えはどこからくるのだ?過去を全て忘れたわけではないのか?働くという考えまで先生の受け売りではないだろう。誰の入れ知恵だ。侯爵夫人では……私の妻では嫌なのか」

彼の言うことももっともだ。記憶喪失になったのに、今の私の言動はおかしい。
私の事情をわかってもらうためには、私が『愛理』であることを明かさなければ理由が立たない。

せっかく打ち解けかけたのに、彼の目には私に対する不信感が表れている。

「……………」

「私には打ち明けてはくれないのか?」

黙ってしまった私にルイスレーン様が訊ねる。

「今日が無理なら、今すぐでなくても構わない。私が納得できるように話してくれるまで、診療所に行くことは許可しない。慰問については、それなりの安全が確保できるなら時々なら行ってもいい」

「それなりの安全?」
「侯爵家の人間としてきちんと護衛を付け、訪問先も前もって確認する。周囲の環境やその人物についても調べさせてもらう」

「そんな……それでは訪問先の方が怯えてしまいます」
「侯爵夫人が訪問するならそれでもまだ万全とは言えない」

どの部分で私は間違ったのだろう。
彼の許可なく行動したから?
侯爵夫人としての自覚が足りなかったから?
私の考えが足りなかったせいで彼を怒らせてしまった。

「王都がどれ程危険かわかっているのか。治安部隊が維持に努めているが、人口も多く、市井で生まれ育った者でも簡単に犯罪に巻き込まれると言うのに、あなたのような世間知らずがのこのこ出歩いては餌食にしてくださいと言っているようなものだ。これまで大丈夫だからと言ってこれからも何も起こらないとは断定できない」

都会での生活ならわかっている。東京だって同じくらい都会だった。

でも如月愛理は社長令嬢だったが平民だ。VIP扱いされる程の身分ではなかった。
ここでの貴族の奥方がどのように世間に見られているのか、のほほんと出歩くのは論外だったのかもしれない。

「失礼いたします。旦那様、奥様」

マリアンナが書斎にやってきて昼食の用意ができたことを告げた。

「この話は一旦保留だ。昼食が済めば今夜の支度もあるだろう。どの道明日も陛下に招待されているから、暫くはどこにも行けない」

タイミングが悪かったのか、私の言い方が悪かったのか。どちらの話もすんなり許可は貰えなかった。

貴族名鑑を閉じルイスレーン様が先に立ち上がり、私が立ち上がるために手を伸ばしてくれる。
怒っている様子でもそうやって気遣ってくれるのを目の当たりにすると、エスコートが身に付いているのだなぁと感心する。
#あの人__・・・__#ならとっとと私を置いて行っただろうが、ルイスレーン様はちゃんと私に手を差し伸べてくれる。
そんな彼に丁寧に扱われると、自分も満更でない気がしてくるから我ながら現金だとも思った。
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