愛を知るまでは★ビターチョコレート編★
通夜
俺はバイトを、家庭教師と居酒屋の店員、と二足のわらじを履くようになった。
それというのも、陽平の結婚が決まり、伯父の家に陽平の妻となる女を住まわせることになったからだ。
その女は陽平の大学時代のサークル仲間で、和風美人のお嬢様育ちで、少し人見知りな性格らしかった。
新婚夫婦の家庭に、舅の伯父だけでなく、俺のような野郎がいたら、陽平の奥さんもくつろげないだろう。
陽平はいつまでも家にいてくれていいと言ってくれたが、俺の方からそれを拒否した。
マルコは陽平夫婦の元で飼われることになった。
俺にとってそれは淋しいことではあるが、伯父の家に遊びに行けばいつでも会えるわけだし、この別れは永遠のものではない。
陽平夫婦はきっとマルコを可愛がってくれることだろう。
マルコが幸せならば、それでいい。
結婚式は桜がまだ持つか持たないか微妙な季節である来年の4月末。
早々に伯父の家から出て、狭くてもいいから自分の部屋を借りなければならない。
幸い俺にはバイトで稼いだ金があった。
服にも物にもこだわりの無い俺は、余計な金を使うこともなかったので、高校の時からコツコツと貯めてきた金はそれなりにあった。
けれど金はあればあるだけいい。
俺は今まで以上にバイトに精を出すことにした。
そんなある日、信二が急に喪服を買いに行かなきゃいけなくなった、と言い出した。
「喪服?誰かの葬式に行くのか?」
俺が尋ねると信二は珍しく神妙な面持ちになった。
「兄貴の奥さん、つまり俺の義理の姉ね。その真理子さんのお母さんが亡くなったんだ。
ずっと兄貴の家で同居していたんだけど、昨年心臓の病気が見つかってさ。もう長くないってわかっていたからバアさん本人の希望でずっと自宅療養していたんだけど、最近体調が急変したらしい。お通夜が明後日で、俺の家族も参列するんだ。親戚だからな。」
・・・ということはつぐみの母方の祖母さんか。
同居までしていたのだから、きっとつぐみとも親しかったに違いない。
考える余裕もなく、とっさに言葉が口から飛び出していた。
「俺も参列するよ。」
信二は思いがけない俺の申し出に、驚きを隠せない様子だった。
「え?そんなに気にしなくていいよ。弘毅にとっては遠い存在だろ?」
「信二の家族には世話になっているし、その親戚なら俺にとっても赤の他人とは思えない。」
「でも香典代だってかかるぜ?お前、バイト掛け持ちしてまで金貯めているんだろ?そんな余計な出費をしていいのか?」
「そういう時のために金を貯めているんだ。全然余計な出費なんかじゃない。」
「弘毅・・・。お前って本当に義理堅いヤツだな。」
信二は少し呆れたような顔で俺の肩を叩いた。
違う。義理堅いとか、俺はそんなに高尚な人間じゃない。
ただ悲しみで打ちひしがれているであろうつぐみを、声は掛けられなくても遠くからそっと見守ってあげたい、そんな不純な動機で赤の他人の通夜に参列しようとしている卑劣な男だ。
「わかった。通夜は明後日の夜六時から。詳しいことはラインで送るよ。弘毅は喪服持っているのか?」
「ああ。俺も親戚が最近亡くなったから。」
俺の父の姉、つまり伯母がつい先月、肺がんで亡くなった。
伯父と陽平も一緒に、その葬儀に参加した。
父とみれいも参列していたが、俺はふたりを無視していた。
「弘毅君、元気にしている?もう大学生なのね。すっかり大人になって。ねえ、そろそろ実家に帰って来ない?」
みれいの、カビの生えたチーズのような異臭のするねちっこい声音は相変わらずで、俺は胃から酸っぱいものが逆流するような吐き気を覚えた。
その日の夜、俺はまたあの悪夢を見ていた。
みれいから犯され・・・そしてつぐみが助けてくれる夢。
俺は、あの世界で一番憎んでいる女に、身体を支配されている。
動きたいのに体の自由が利かない。
俺の手足は呪いにかかったかのように、冷たい寝具の上で固定されている。
手足に楔を繋がれ、もがいてももうどうしようもならない。
逃れようとしても執拗に俺の身体の上をあの女が這いまわる。
それは、蛆虫が這いまわるような不快な感触。
泥沼のような異臭を放つ女。
やがて俺は真っ暗な土の中に埋められる。
まるで土の中で脱皮を待っている幼虫みたいだ。
俺は次第にあがらう気力を失い、だらりとした手足を力なく伸ばす。
女の姿はやがて赤い舌をチョロチョロと出しながらくねくねと動き回る、濁った色の蛇になった。
その蛇が俺の首にまとわりつき、首を絞められ、呼吸もおぼつかなくなってゆく。
「ねえ。いいことしない?」
蛇が生温かい息を吐きながら、そう囁きかける。
「ねえ。いいことしない?」
「ねえ。いいことしない?」
「ねえ。いいことしない?」
「ねえ・・・。弘毅君・・・」
「やめろっ・・・来るなっ!」
俺はその蛇から逃れるように、腕を大きく伸ばし助けを求める。
その腕はしばし虚空を彷徨い、絶望的な気持ちが呼応したかのように辺りを暗黒に染める。
俺は心の中で呪文のように一人の女の名を唱える。
「つぐみ・・・助けて・・・つぐみ・・・つぐみ・・・」
「つぐみ・・・」
「つぐみ・・・その姿を俺に見せて・・・」
その呪文が天に届いたかのように、しばらくすると、その暗闇が少しづつ、明け方の空のように薄く透明になってゆく。
キラキラと瞬く星達が、湖のように澄んだ空一杯に、広がり始める。
そしてその空はやがて薄ピンクのコスモス色に変化する。
いつの間に現れたのか、天使の羽根を広げたつぐみが、慈愛に満ちた表情で俺に手を差し伸べてくれる。
地獄の底から、天国への道に光を差してくれる。
「つぐみ・・・つぐみ・・・」
俺は愛を乞う哀れな子羊のように、その名を呼び続ける。
天使のつぐみはその羽根を広げ、天から地獄の底にいる俺の元までそっと降りて来る。
その華奢なつま先を地面につけ、羽根をしまい、春風のような空気をまとい、俺をそっと抱きしめてくれる。
一転、そこは楽園となり、色とりどりの花が咲き乱れ、その濃厚な香りが辺りに広がる。
柔らかいつぐみの肌に顔をこすりつけ、その体温で自らの凍った身体に暖を取る。
つぐみは優しく、俺の髪を撫でてくれる。
「弘毅・・・大丈夫よ・・・私がいるからもう大丈夫・・・。」
俺の耳元で、何度も何度もそう囁いてくれる。
「つぐみ・・・会いたかった・・・」
俺はつぐみをきつく抱きしめる。
もうどこへも行かないでくれ・・・つぐみ・・・。
いつまでもそうしていたいのに、しばらくするとつぐみは俺の顔を包み込み俺の鼻先に口づけをし、微笑だけを残し、くるりと背中を向け、再び羽根を広げ、遠い空へ帰っていく。
俺は立ち去るつぐみを追いかけるように、その名を再び叫ぶ。
「・・・つぐみっ!」
そう大声で呼んだ瞬間、俺は現実世界へと覚醒した。
つぐみの母方の祖母のお通夜は小雨降る肩が冷たい夜、しめやかに取り行われた。
喪主である信二の兄、山本健太郎、その妻真理子、そしてつぐみは亡き故人の写真が掲げられた祭壇の中央より向かって右側の席に、悲痛な面持ちで参列していた。
つぐみの目から涙は流れていなかったが、泣きはらしたであろうその瞳は真っ赤に充血し、必死になにかを堪えるように口元が小刻みに震えていた。
信二と康太郎おじさんはパイプ椅子が並んでいる前の方の席に座っている。
俺は一般客に紛れ込んで焼香をし、つぐみが座っている山本家の方を向き、深くお辞儀をした。
機械仕掛けのように、通り一遍のお辞儀を繰り返すつぐみの視線に、俺の姿は映らなかったに違いない。
それでも同じ空間で、つぐみの息遣いを感じられただけで、俺の中のなにかが満たされた。
俺が葬儀場から帰ろうとすると、信二の母である信江さんに思いがけなく声を掛けられた。
「鹿内君!来てくれていたのね。」
「こんばんは、おばさん。この度はご愁傷様です。」
俺は再び、深く頭を下げた。
「私、お通夜の会計係を頼まれてね。計算が苦手なのに、困っちゃう。」
信江さんは湿っぽい空気を和らげるように、小さく笑った。
「そうだ!この後なにか予定ある?」
「いえ。特には。」
「だったら信二やウチのお父さんと一緒にご飯食べて帰らない?この辺りに美味しい中華屋さんがあるの。」
「おばさん達、残らなくてもいいんですか?」
「ええ。今日は息子家族だけで水入らずに過ごしてもらおうと思ってね。」
俺はお通夜帰りに、信二の家族と「宝来」という、かに玉と餃子が美味しいと評判の中華料理屋で夕食をとることになった。
俺達はビールで献杯をし、運ばれた料理を黙々と食べ始めた。
その沈黙を破ったのは、やっぱり信江さんだった。
「・・・こう言っちゃなんだけど、真理子さんのお母さん、良い老後を送れたと思うわよ。
実の娘さん夫婦と可愛い孫に囲まれて過ごせたんだもの。
信二も早くお嫁さんもらって、つぐみみたいな可愛い孫を見せて頂戴。」
「俺、まだ大学生なんだからもっと遊ばせてよ。それに家みたいな狭い家じゃ子育てなんて出来ないから、もし結婚したら家をでるからね。」
「それはいいけど・・・新居は絶対近くにかまえなさいよ。実家とスープが冷めない距離くらいのところにね。そしたら孫の面倒みてあげるから。」
「そんな話、まだ早いって~。勘弁してよ。」
餃子に舌鼓を打ちながら、信二がそう嘆いた。
「鹿内君は伯父さんの家に住んでいるんだっけ?どう?住み心地は。」
康太郎おじさんが、俺に話題の矛先を向けた。
「住み心地はいいんですけど、近々伯父の家を出なければならなくなりまして・・・。」
「あら。どうして?」
「同居している弘毅の従兄が結婚するんだって!そんなところにいたらお邪魔虫になってしまうだろ?弘毅だって気まずいだろうし。」
信二が俺の代わりに、今の状況を信江さんに説明してくれた。
「それじゃ住むところを探さないといけないじゃない。大変ね。いつ頃その家を出る予定なの?」
「来年の4月に従兄の結婚式が控えているので、そのくらいまでには。」
「そう・・・。」
そう頷いた後、信江さんは何かを考えているようだった。
「引っ越しの費用は大丈夫なの?」
俺が金の心配はない、と言おうとする前に、信二がそれを遮った。
「弘毅はそのために、今バイトを二つ掛け持ちしているんだ。エライだろ?」
まるで自分がエライと言われたいように、鼻高々に信二はドヤ顔をした。
すると信江さんは何かを思いついたように、左手のこぶしを右手の手の平で叩いた。
「いいこと思いついちゃった!鹿内君、健太郎の家に住まわせてもらったら?
こんなこと通夜が終わったばかりで言うのも不謹慎かもしれないけど、今回のことで健太郎の家の部屋がひとつ空いたわけでしょ?お金が貯まる間だけ、あそこにお世話になればいいわよ。健太郎も真理子さんも明るくて、家に人を呼ぶのが大好きだから、きっと受け入れてくれるに違いないわ。」
・・・俺がつぐみの家に住む?
あまりにも俺にとって都合の良い展開になり、白飯の入った茶碗の上にぽろりとかに玉の黄色い部分を落としてしまった。
「どう?鹿内君。」
信江さんは自分の出した提案に俺がどう反応するか、興味津々な顔をしていた。
「それは・・・俺にとってはありがたい話ですが・・・。」
「そう。つぐみがな~。」
信二が天を仰いだ。
「まあ、つぐみは大反対するだろうな。家に知らない男が住むなんて冗談じゃない、とかなんとか言って、猛抗議するのは目に見えている。」
康太郎おじさんのつぶやきに信江おばさんが、箸を康太郎おじさん方に向けて熱弁した。
「そうやってつぐみを甘やかしていたら、あの子の将来はお先真っ暗よ。男性なんてどこにでもいるんだから、あの男嫌いを治さないと世間を渡っていけないわ。その点、鹿内君は頼りがいもあって真面目ないい子だから、つぐみのリハビリ相手にはうってつけだと思うの。」
リハビリ相手・・・か。
それでもつぐみに近づけるなら、お安い御用だ。
「でも弘毅、大丈夫か?お前も女が嫌いだろ?いいよる女どもを蹴散らしているもんな?」
「あらそうなの?イケメンの無駄遣いね。」
この千載一遇の機会に、心臓は音を立てて波打っていたが、俺はこのチャンスに乗っかることを決意した。
「つぐみちゃんの事は大丈夫だと思います。俺はつぐみちゃんと同い年の従妹がいて、あれくらいの女の子の相手は慣れていますし、教師になるための経験の一環にもなると思います。
もし可能ならば、信二のお兄さんの家に居候させてもらいたいです。金が貯まったらすぐに出て行くので。」
従妹なんていないが、この話が立ち消えにならないための嘘がスラスラと口から飛び出した。
「わかった。俺から兄さんにお願いしてみるよ。」
信二が俺に助け舟をだしてくれた。
「私たちからも、健太郎に連絡を入れておくわね。鹿内君は信頼できる子だから、力になってあげて頂戴って。」
信江さんもそう言って、私に任せなさいという風に、身体をピンと伸ばした。
・・・やっとつぐみの糸と俺の糸が交差する。
同じ屋根の下で、生身のつぐみと話し、一緒に生活することが出来るのだ。
もちろん、つぐみは男が大嫌いだから、最初から受け入れてもらえるとは思っていない。
けれどつぐみからの同情や関心を引き出せるのなら、俺の暗い過去だって、女嫌いという称号だって、切り札として使ってみせる。
そう、どんな手を使っても、必ずつぐみを俺の方へ振り向かせる。
たとえ、それが少々強引なやり方でも。
俺は信二にダメ元で聞いてみた。
「俺、つぐみちゃんとなるべくなら仲良くなりたいと思っているんだけど、なにかいい案はないかな?」
信二は少し考え込んでいたが、何かを思い出したように、ひとり頷いた。
「弘毅、5万くらいの金なら融通きくか?」
「ああ。まあ5万くらいなら。」
本当はもっと手持ちはあるが、そこは隠しておかなければならない。
信二は誰も周りにいないのに、小さな声でこっそり話し出した。
「実はとっておきの話がある。弘毅だから話すけど、つぐみのヤツ中学の時、真理子さんが兄さんから贈られて大事にとっておいた、初めての結婚記念日のマグカップを割ってしまったんだ。それで俺のところへお金を貸して欲しいって泣きついてきたけど、俺、そのとき手持ちの金がなくて、自分で弁償したほうがいいよって説教しちゃったんだよね。それを買ってあげたら、つぐみは恩を感じて弘毅に心を開いてくれるかも。」
「へえ。どんなマグカップ?」
「えっと、俺がつぐみに教えてもらったのは・・・えーと・・・たしかこのショッピングサイトの・・・ああ、これ!」
信二はスマホで、とあるショッピングサイトを開き、「マグカップ・有田焼・藍色・5万円」と検索し、その商品を探し当てた。
「なるほど。それをプレゼントしてみるよ。信二、有益な情報をありがとう。」
「つぐみと仲良くなれるといいな。俺も陰ながら応援するぜ。」
信二はそう言って、親指を立てて見せた。