大好きな貴方、婚約を解消しましょう
愚か者は僕だった
「おい、我が弟のジメ男。暇だろう?領地視察に付き合え」
いきなりばたんと扉を開け、兄が入って来たと思ったらそんな事を言う。
自分の兄ながら尊大な態度に溜息を吐きながら、僕は椅子から立ち上がった。
「兄さん、僕にも色々と予定が……」
「どうせ元婚約者の事を考えてウジウジジメジメしてるだけだろう。今のお前がいくら考えた所で何かが変わるわけは無いんだ。気分を切り替えろ。いい加減屋敷にカビが生えるぞ。
明日から一週間、見て回るから準備しとけよ」
兄はそれだけ言うと出て行き、再びばたんと扉を閉めた。
僕は再び溜息を吐き、準備をしようとのろのろとクローゼットに近寄った。
嫌だと言っても強制的に連れて行くだろうと思って。
その中で、乱雑に仕舞いこまれていた元婚約者の彼女から貰ったスカーフが目に止まり、手に取った。
『貴方の瞳の色で、とてもキレイだったから似合うかな、と思って。
あと、ほら、ここに刺繍もしてみたのよ』
婚約してから初めての誕生日前に貰ったっけ。
スカーフの端に縫い付けられた四葉のクローバーと僕の名前。
「……僕の名前…」
ずっと呼ばれて無かったそれは、婚約者なら知ってて当然で。
でもなぜ呼ばれて無かったかなんて。
「僕が、呼ばせなかったから……」
そんな簡単な事に、今更気付く。
『ねえ』
『貴方が好きよ』
『貴方の家が不利益にならないようにも、言うわ』
「名前を、呼ばせる事も、婚約者にしないとか」
彼女の方が高位貴族なんだから、呼びたかったら呼べば良かったんだ。
でも、そうしなかった。
ただ、僕の許可を、待っていたんだ…。
僕が彼女に呼ばれて振り向いた時の嬉しそうな顔を思い出す。
例え名を呼べなくても、振り向いただけで喜んでくれていた彼女。
「バカじゃないのか……」
僕は自分の馬鹿さ加減に叫びたくなった。
彼女から貰ったスカーフを握り締めて、必死に嗚咽を堪える。
僕に泣く資格なんかない。
泣きたいのは彼女の方だ。
婚約者から一線を引かれ、それでも気持ちを伝えてくれていたのに僕は見て見ぬ振りをした。
兄の言う通り、愚か者は僕だった。
こんなだから婚約解消されたんだ。
信頼関係の始点にも立たせなかった。
自分が苦しいのも、全部彼女のせいにした。
その方が、自分が楽だったから。
自分が何もできない理由を、人のせいに、彼女のせいにすれば、できなくても、責められないから、と。
「こんな僕じゃ、見捨てられて当然だ」
友人からも、彼女からも。
とうとう堪えきれずあふれたモノを乱暴に拭い取る。
泣いていい資格なんかない。
常に僕の幸せを願ってくれていた彼女を傷付け続けた僕が、悲しいからって泣くのは傲慢だ。
必死に歯を食いしばり、膝の上で拳を強く握って目を瞑る。
ゆっくりと深呼吸をして鼻の奥にツンと溜まったものを吐き出すようにして息をする。
今更気付いても取り返しはつかない。
遅かったのだ。
時間が戻るなんて夢物語は無い。
苦しくても、この結果を選んだのは僕なんだ。
視察に行く際、彼女から貰ったスカーフを身に着けた。
何となく、彼女から力を貰えるような気がしたから。
「よく似合ってるよ、それ。さすがだな」
「ありがとうございます」
馬車で移動中、兄は僕の胸元を指して言った。
派手過ぎず、地味過ぎず、でも僕の胸元を彩るそれは確かに存在感があって、でも邪魔しない。
もっと早く身に着けていたら。
身に着けた姿を彼女が見たら、喜んでくれただろうか。
「6年間、お前がゴミクズに成り果てていた間に、侯爵家がしてくれていた事、侯爵令嬢が残して行ったものをお前に見せてやる」
「……………」
仮にも弟にゴミクズとか言うか?と思ったけど、実際に第三者から見たらそうだから何も言い返せない。
「うちの領地はそう広くは無い。だが狭くもない。これと言っためぼしい特産も無いが、害になる物も無い。要するに可もなく不可もなく、平凡な領地だった」
「……だった……。過去形?」
馬車から領地を見やると、のどかな風景に紛れた道行く領民達は、穏やかな顔をしている。
生活に困っている風でも無さそうだ。
「お前が候爵令嬢と婚約してすぐ、彼女の父の侯爵様が視察に来て下さった。そしてすぐに問題点を洗い出し、改善策を講じてくれた。
お前が侯爵令嬢との交流を断り始めた頃、令嬢も視察に来た事がある。
孤児院や救貧院へ慰問して、子どもたちに懐かれてたよ」
……知らなかった。
交流を断った時、僕は自室に篭っていたから。
机にかじりついて、勉強して、必死なフリをしていた。
「机に座って資料や教科書だけ見ても分からない事はある。実際に見て、聞いて、触れて、初めて理解できる事もあるんだ。
彼女と見に来れば良かったんだよ。分からないなら聞けば良かった。
そしたらお前も、もう少し理解できたかもしれないな」
どれだけ机で資料の数字とにらめっこしても、実際に見ないとどれくらいなのか分からない。
分からないからその場しのぎの策しか思いつかない。
「……あ……」
幼馴染みに頼る事も、結局その場しのぎでしか無かった。
逃げ続けるのは、何の解決にもならなかった。
本当に苦しいなら、彼女を頼れば良かったんだ。
きっと喜んで一緒に考えて、悩んでくれただろう。
胸元のスカーフを握り締める。
無性に彼女に会いたくなった。
だけど、もう会えない。
そもそも、こんなどうしようもない奴に会いたいと思わないだろう。
それにもし会えたとしても、今の僕には、彼女に合わせる顔が無い。
「この視察中に、せめて再利用できるゴミになれ。そして考える物から最終的に人間にまで成長しろ」
相変わらず口が悪い兄の言葉。
でも、僕にはそれが兄なりの優しさなんだと分かっている。
友人たちにも見放された僕を見捨てず、成長させようとしてくれている。
「ありがとう、兄さん……」
その優しさが、身に沁みて痛かった。