ヤンデレくんは監禁できない!
6.大団円?

母、襲来(二人目)

芽衣里は目を開けた。
部屋は暗い。ずいぶん長いこと眠っていたらしい。
腕時計を見れば、あと一時間ほどで明日になろうとしていた。

(メイク落として……お風呂入らないと……)

怠さが残る身体でゆっくりと起き上がる。せっかくの服もしわにならないよう手入れをしなくては。
ぼんやりする頭で考えながらも、思考の一部は凌に占められている。

(あたしには、肝心なことは何も教えてくれない)

メイク落としジェルの残りを確認する。……この分ならまだ二回は使えそうだ。芽衣里は服を脱いでしまうと、ジェルを手に取りそっと顔を覆う。

(信用してほしかった)

シャワーの栓をひねる。お湯が身体全体に降り注ぎ、温められていく。

(……何も教えなかったのは私も同じか)

温かな雨に打たれながら、ジェルを丁寧に落としていった。頬を伝う滴を感じながら、入院する原因となった事件を思い出す。

(あの時は……なんだかんだで連絡が遅くなったし)

湯気が浴室に充満し始めた。たっぷり水分を含んだ空気を吸い込んで、ボディソープをつかむ。

(とにかく、明日凌に会おう)

会ってから何を話せば良いか考えよう、と芽衣里はボディソープを泡立てながら決意した。


エントランスでインターホンを繋げてもらうと、タイミング悪く留守だった。もしかしたら居留守を使われているのか、と思考がネガティブに傾いたが、頭を振ってスマートフォンを取り出す。
とりあえずメッセージだけでも残しておこう。そう決めて画面を操作しようとして──

「あの……すみません」

そう声をかけられた。
すごく最近似たようなことがあったなぁ、と思いながら芽衣里は振り返る。そこには中年の女性が佇んでいた。
薄手のトレーナーに、カーディガンを羽織ったその女性は普通のおばさんに見える。スーパーや公園で見かけるような、日常に溶け込む容姿だ。

(ここに住んでる人? でもどうして私に声を?)

芽衣里が訝しんでいると、女性は眉を八の字にして微笑んだ。

「ごめんなさいね、突然」

「ああ、いえ」芽衣里は狼狽えながらも問いかける。「あの、何か用事でも?」

「はい、私──」

女性はそこで大きく深呼吸した。

「凌の母親で、羽根村 芳江と申します」


芽衣里は近くの喫茶店まで彼女を案内した。エントランスで立ち話をするような状況ではないと判断したのだ。
芽衣里の提案に羽根村は二つ返事で承諾し、凌のマンションから十分もかからない喫茶店まで静かについてきた。
席に案内され、二人は飲み物を注文した。程なくしてアイスコーヒーが二人分運ばれてくると、羽根村はほんの少し口をつける。芽衣里も同じように唇を湿らせるだけに留めた。

「その……何から話せば良いか……」

羽根村は視線をアイスコーヒーに落としたまま、そう言ったきり口を閉ざしてしまった。芽衣里は強制するでもなく、ストローでグラスをかき回した。氷がぶつかる音と、曲名のわからない洋楽が二人を包む。

「凌は、私と光滝 和也さんとの間に生まれた子なんです」

「光滝 和也……」

「光滝 雅貴──和也さんの腹違いの兄で、敏代さんの夫です」

「えっと、じゃあ凌は……養子なんですか」

羽根村は控えめに頷いた。

「凌はそれを……知ってるんですか」

「ええ。……養子になったのは、あの子が十歳の時でしたから」

芽衣里は顎に手を当てた。十歳ならば、記憶には十分に残っているだろう。親から引き離されて、知らない大人と暮らさなければならなくなったら──相当なストレスだ。

「その……今でも交流はあるんですか?」

せめて実の両親と定期的に会っていたならば、凌の負担も軽かっただろう。そう願いを込めるように聞いた。

「凌は……」

しかし聞いた途端、羽根村は両手で顔を覆い肩を震わせた。何事かと他の客からちらちらと視線を浴びせられる。

「ごめんなさい……!」

羽根村はそれだけ言うと化粧室へと小走りで向かった。
芽衣里は中途半端に伸ばした手を引っ込めて、彼女が戻るのを待つことにした。
その間に、今までの話を整理してみる。
凌は光滝 和也と羽根村 芳江の間に生まれたが、何らかの事情で光滝 雅貴と敏代の養子になった。反応からして、彼女の意に反するものだったようだ。

(それにしても……光滝 雅貴ってどこかで聞いたような……)

芽衣里はスマートフォンを取り出して検索をかけた。数秒で結果は画面に表示され、芽衣里は思わず声を上げそうになった。

(そうだ、この人……この前テレビで見た政治家の!)

芽衣里が凝視しているのは、顔写真と共に記載された光滝 雅貴の経歴だ。大物左派政治家で、貧困層や高齢者など社会的弱者の救済を掲げている。妻は光滝 敏代、華道の家元で、父親も有名な華道家。大学時代に知り合い結婚、子どもは──

「ごめんなさいね。急に席を立ったりして……」

羽根村が戻ってきたので読めたのはそこまでだった。芽衣里は愛想笑いを浮かべ、スマートフォンをさっとバッグに戻した。
ハンカチで口元を抑える彼女を見れば、まつ毛は濡れ、瞳は潤んでいる。今にも泣き出しそうな顔で、羽根村は自身の過去を語り始めた。

「私と和也さんが出会ったのは、バイト先の居酒屋でね。彼が新人として入ってきて……私が教育係として彼について……お付き合いするようになったの」

「お二人は……将来のこととかも約束してたんですか?」

羽根村は昔を懐かしむように目を細めた。

「ええ。お互いちゃんと就職して、生活が安定したら結婚しようって……そう話していたの」

「それが、どうして……」

「……和也さんの家は、光滝家は医者とか弁護士とか代議士が多い家でね。和也さんにもそうなってほしかったらしいんだけど……」

「歌手になりたいと家を出てしまったの」とため息混じりにつぶやいた。

「それは……すごく大変な道ですよね? 結婚や子どもどころではないんじゃ……」

「もちろん。でもあの人も私も若くて……愛さえあればって思っちゃったのよね……」

彼女の話から、芽衣里は連想ゲームを繰り広げる。
──世間の荒波に揉まれてない男女。男は金持ちのボンボン。女は夢見がち。昂ぶる熱情に任せ同棲。妊娠。

「凌ができて、生活に行き詰まって……恥もプライドも捨ててもうすぐ臨月って時に和也さんの両親に援助をお願いしに行ったの」

「……やっぱり、怒られて拒否された、とか」

羽根村は苦笑した。

「拒否はされなかったわ」

芽衣里は心の中で胸を撫で下ろした。

「ただ……条件付きでね。これから十年間、努力して歌手になれなかったら光滝家に戻ってもらう。凌はこの家で育てる。それから──」

ここで羽根村は言葉を切って、息を深く吸った。

「私とは、別れてもらう」

「……」

「その時は、他に良い手段が思いつかなくて……受け入れるしかなかった……」

「それから、どうなさったんですか」

羽根村はふっと笑った。

「そのままよ。凌は生まれてすぐ取り上げられて、私は手切れ金を握らされ、もう二度と関わらないようにと地方に追いやられた」

「和也さんは……」

「歌手にはなれなくて、家に連れ戻されたわ。それからお酒に溺れて……」

羽根村は皆まで言わなかったが、光滝 和也の末路は十分に予測がついた。なぜ十歳の時に養子になったのか、この謎もわかった。

「凌のお父さんが歌手になれたら、凌の戸籍はそのまま。なれなかったから、身元がしっかりした二人の養子になったんですね」

「……あの人たちはね、一般庶民を同じ人間だと思ってないのよ」

羽根村は低い声で悪態をついた。

「今でも思い出せるわ……『世の中にはね、釣り合いというものがございますの。あぁ“釣り合い”の意味お教えしましょうか』って」

「……その、失礼ですけど、本当に和也さんの子なのかって聞かれたりとかは」

「それはなかった……というよりあえてしなかったの」

芽衣里は羽根村の“あえて”という言葉が引っかかり、首を横にひねった。

「それはどういう……?」

「私が和也さんと一緒に援助をお願いしに行った時、すでに雅貴さんと敏代さんは結婚していてね……子どもを亡くしたばかりだったわ」

「子どもを……」

「ひどい事故でお腹にいた子どもを亡くしたらしくて……その時に、子宮ごと手術で取るしかなかったって……」

「そんなことが……」

「凌が男の子だって知ったら、あの人たちすぐ態度を変えたわ」

芽衣里は太ももに置いた手を組み直した。羽根村の話は筋が通っていると言えばそうだ。凌が頑なに家族について話さなかった理由。敏代の態度。色々と納得するところは多い。

「つまり、男の子なら光滝家としては都合が良かったと」

「まぁ、そういうことね」

羽根村がアイスコーヒーを口に含む。見る間に黒い部分が減っていき、残すところ三分の一ぐらいまでになった。

「それからずっと、凌のことを考えない日はなかったわ。誕生日にはケーキを買って、一人でお祝いしたりしてね」

「……」

「けど、二年前に凌が小説家になっているのを知って……どうしても会いたくて、自分で調べたの」

「凌の小説が映画化した年、ですよね」

それまでに凌の作品は何度かドラマ化されていたが、映画化は初めての快挙だった。横手山さんが言うには、凌本人は特に喜んだりしてはいなかったらしい。
芽衣里は受験で忙しくて映画どころではなかったが、世間でもてはやされていた空気は覚えている。

「そう。それで、凌が〝夢川 止水〟だってテレビで偶然知って……」

「テレビで本名を流してたんですか?」

「いえそうじゃなくて。あまりにも顔が和也さんそっくりだったものだから、びっくりして……」

芽衣里は納得してうなずいた。羽根村はそのまま言葉を続ける。

「時間はかかったけど、凌が暮らしているマンションやあなたのことがわかって、それで……覚悟を決めて、ここまで来てみたの」

「……凌は、その……今はちょっと留守みたいで。何時ごろ帰ってくるか私もよくわからなくて」

しどろもどろになる芽衣里に、羽根村は優しく口の端を上げた。

「良いのよ。あなたに会えただけで十分」

「羽根村さん……」

「でも……そうね、欲を言えば、凌とあなたとで食事でもできたらと思うわ」

「……私、もう一度凌に連絡してみます」

芽衣里は居ても立ってもいられず、店の外へ出ると凌に電話をかける。どうか出てほしいと祈りながら。
何度か呼び出し音が鳴って、無機質な音声が留守録に切り替わることを芽衣里に伝えた。

「凌、あたしだけど、羽根村さんと今マンションの近くの喫茶店にいるの。凌に会いたいって言われて……これ聞いたら、なるべく早く連絡して? お願い」

芽衣里は電話を切ると、店に戻った。だが羽根村の姿はない。
どうしたのだろうとテーブルまで戻ると、空になったグラスと一緒に、メモ用紙が置かれていた。

〝すみません、仕事でトラブルがあったので今日は失礼します〟

角張った字で、その下には電話番号が書かれている。芽衣里は伝票も置きっぱなしなのに気づき、席に座って何やら考え始めた。
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