政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
 バスルームで湯に浸かると、東京まで行った疲れは幾分か癒された。
 いつもより少し長めの風呂からあがると、リビングにはまだ明かりがついている。
 由梨は足を止めて少し迷う。でも結局そこへは寄らずに直接寝室へ向かいそのままベッドへ潜り込んだ。
 隆之とふたりで寝るための広いベッドの隅っこに、彼が眠るであろう場所に背を向けて目を閉じる。
 大丈夫。
 このままなにも考えずに眠ってしまえば、朝にはこの惨めな気持ちはなくなっているはず。
 朝になれば……。
 でも身体は疲れているはずなのに、頭の中心がしんと冷えて、なかなか眠ることはできなかった。
 しばらくすると隆之が寝室へやってきて、ベッドに上がる気配がする。
 パチンとサイドテーブルのルームランプがついた音。
 なにやら違和感を覚えて、由梨はうっすらと目を開ける。

「あ……」

 いつのまにか、両脇についた隆之の腕に囲われて、彼に見下ろされていた。

「隆之さん……」

「由梨、俺は夫婦だからといって、なにもかもを共有しようとは思わない。どんなに愛し合っていても、同一人物にはなれないからね」

 唐突に始まった彼の話、でもなにを言わんとしているかくらいは由梨にもわかる。
 今夜の由梨の振る舞いは自分でもわかるくらいに不自然だった。
 ましてや勘のいい彼のこと、何も思わないはずがない。
 黙ったまま彼を見上げる由梨を、ジッと見つめて隆之がまた口を開いた。

「言えないことは言わなくてもいいし、由梨が言いたくないのに、無理に聞き出したりもしない。でもあきらかに様子がおかしい妻を放っておいてあげられるほど、俺は聞き分けのいい夫でもないんだ」

「たか……きゃっ!」

 隆之が由梨をぐいっと引っ張って、自らの腕に閉じ込める。そしてそのままゴロンと横になった。

「言えないなら言わなくていい。でもベッドの隅で、ひとりで寝るのは許さない。今夜はこうやって俺の腕の中で眠るんだ。わかったな」

 彼らしい少し強引な言葉と自分を包む力強い腕に由梨の視界がじわりと滲む。
 頬から感じる大好きな彼の香りが、由梨の心と身体に染み込んで、胸のざわざわを溶かしてゆく。
 この街へ来て隆之と出会い自分は強くなったと思っていたけれど、実は逆だったのかもしれない。
 孤独、恐れ、不安。
 東京にいた頃は、たくさんの思いをひとりきりで乗り越えてきた。それがあたりまえだったはずなのに。
 今はもう彼なしではどれひとつとして、乗り越えられそうにない。
 でもそれで、いいのだと思う。

「隆之さん……」

 彼の胸に顔を埋めたまま、由梨は口を開いた。

「ん?」

「私、ここへ来てたくさんの人と出会って、隆之さんと結婚して、すごくすごく幸せなんです。毎日が夢を見てるみたいに。でも時々ちょっとしたきっかけで、実家にいた頃の寂しい気持ちを思い出して、どうにもならなくなる時があるんです」

 言いながら顔を上げると、ルームランプの柔らかな明かりのもと、隆之が優しく頷いた。

「うん」

 由梨は小さくため息をついた。

「本当ならこれは私の問題なんだから、自分の中でなんとかするべきだって思います。今まではそうしてきたし……。でも今隆之さんがこうやって抱いてくれただけで、あっというまに寂しい気持ちがなくなっちゃったんです。魔法みたいに。もし次にまたこういう気分なった時は、こうしてもらってもいいですか?」

「もちろんだ」

 隆之が微笑んで、腕にギュッと力を込めた。

「俺は、そのためにいると思ってくれていい」

 眉をあげて、どこか得意そうにそんなことを言う隆之に、由梨はくすりと笑みを漏らす。

 そしてまた彼の胸に顔を埋めた。

「隆之さん、大好き」

 寂しい気持ちになるたびにこうやって抱きしめてもらえるなら、なにも怖いものはない。そういう気にすらなるのだから、それこそ彼の存在は本当に魔法のようなものだ。
 温かい腕に包まれて由梨は心からそう思う。ついさっきまで孤独に震えていたというのが嘘のようだった。
 隆之が大きな手で由梨の髪を梳いて、ため息をついた。

「やっぱり、ひとりで行かせるんじゃなかった」

 申し訳なさそうなその言葉に、由梨はぱっちりと目を開いた。
 彼は由梨がひとりで実家に帰ったことが、由梨の中の寂しい思いを呼び起こす"ちょっとしたきっかけ"になったのだと思ったようだ。
 もちろん元を辿ればそうなのだけれど……。
 由梨は少し考えてから、むくりと起き上がる。

「ちょっと待っててください」

と隆之に告げて部屋の電気をつけて、ウォークインクローゼットへ行く。
 ある物を抱えて戻ってくると、同じように起き上がり不思議そうに見守る隆之の前にそれを置いた。

「私のアルバムです。生まれてからこっちに引っ越してくる前のもの全部を実家から持ってきました」

 はじめはほかの荷物と一緒に全てダンボールに入れて送ってもらうつもりだった。
 でもそれが万が一にでも届いた時に彼に見られることになってしまったらつらいと思い、アルバムだけをボストンバックに入れて持って帰ってきたのだ。
 ベッドの上に並べられた、たった四冊のアルバムを隆之はジッと見つめている。

「これだけなんです」

 思いを込めて由梨は言う。
 隆之とは全然違うアルバムの量に彼との違いを思い知らされて寂しくなってしまったのだと。
 隆之がその一つを手に取り、そっと丁寧に開く。
 由梨はこくりと喉を鳴らして彼の言葉を待った。
 二十何年も、しかも彼と同じように名家と呼ばれる家で育ったのに、これだけの記録しかない妻を、彼はいったいどう思うだろう。
 由梨は彼をジッと見つめる。その表情からは何も窺い知れなかった。
 しばらくして、ようやく隆之が口を開く。
 でもその言葉は由梨の予想とは少し違っていた。

「……これは、七五三?」

 思いがけない問いかけに由梨は目をパチパチさせてから写真を覗き込む。
 彼が指を指している写真は赤い着物を着た小さい由梨だった。

「……そうですね。……多分」

 記憶にはないけれど、千歳飴を持っているからきっとそうだろう。
 でも今はそういうことを話したいんじゃなくて……。

「あの……」

「この方がお母さん?」

 由梨の隣の母を指して隆之はまた問いかける。

「え? あ……はい、そうです」

「綺麗な方だね。……由梨はお母さん似だな」

 呟いて隆之はページをめくる。
 あまりに熱心に見ているので、なんだか恥ずかしくなってしまう。
 それに由梨は思い出話をしようと思ってアルバムを持ってきたのではない。
 アルバムが少ないことを気にしていたのだと伝えたかったのだ。
 由梨はまた口を開く。

「あの、隆之さ……」

「三つ編み、かわいいな」

 隆之が体操服姿の由梨の写真を指さした。

「……小学生の運動会ですね」

 隆之が頷いて、目を細めて写真を見つめている。
 どうやらさっきの由梨の意図は伝わらなかったようだと由梨は思った。

「隆之さん?」

 でも呼びかける由梨に彼は答えてくれなかった。一冊目を見終えて、二冊目を手に取っている。
 全体的に少ない由梨の写真は、小学生の時期が特に少ない。
 母はすでに亡くなっていて、父も娘の写真を撮るという人ではなかったからだ。
 中学生になって自分で友人と撮れるようになってからは少し増える。
 その中学生の由梨に、隆之が反応した。

「由梨、中学の頃はポニーテールだったのか?」

「え? あ、はい。……夏だけでしたけど」

「へぇ……いいな」

 呟いて眩しそうに目を細めている。
 でもすぐになにかに気がついたように眉を寄せて、確認するように問いかけた。

「学校は女子校だったよな?」

「……そうですよ。中学からずっと」

「なら、いいか」

 なにがいいのかは不明だが隆之は納得して、また楽しげにページをめくっている。
 由梨は遠慮がちに口を開く。

「あのー」

「あ、これはもう今に近いな」

「……成人式ですね」

「着物姿が綺麗だ。結婚前にレセプションに来てくれた時のことを思い出すよ」

 懐かしそうに彼は言う。
 由梨は頷いた。
 あの時由梨が貸してもらった彼の母親の振袖ほどではないけれど、この写真の振袖もそれなりにいい物だったはず。なにせこの写真は……。

「お見合い写真にもするから、ちゃんとした物を撮れって言われて」

「見合い?」

 隆之が眉を寄せた。

「……会長はこれを誰かに渡したのか?」

 財界のトップである叔父相手に、場合によっては文句でも言いに行きかねない剣幕の隆之に、由梨は慌てて首を振る。

「そ、それはないと思います。私は短大を卒業してすぐにこっちにきましたし……」

 本当は、見合いうんぬんは由梨はおろか父でさえも預かり知らぬ話だった。
 写真を誰かに渡して打診くらいはしたかもしれないが、少なくとも隆之との縁談が持ち上がるまでは由梨自身は具体的な話を聞いたことはなかった。

「まぁ、それはそうか。これを見て断る男なんかいないだろうし……」

 難しい顔のまま隆之は一応納得する。そして三冊目を手に取ったところで、由梨は我慢できなくなってしまって大きな声を出した。

「隆之さんっ!」

 このまま彼に付き合っていたら夜が明けてしまいそうだ。

「私、写真を見てもらうためにアルバムを持ってきたわけじゃないんですけど……」

 隆之が顔を上げて不思議そうに由梨を見る。

「え? あーそうだったな。それでえーと、……なんだっけ」

 三冊目を手にしたまま首を傾げる隆之に、由梨は思わず吹き出した。

「もう、隆之ったら。ふふふ」

「ごめん、ごめん。つい夢中になってしまった。この間俺のアルバムを見てた時の由梨の気持ちがわかったよ」

 そう言って照れたように笑う彼を見ていたら、アルバムの量に対するこだわりなんてどうでもいいように思えてくる。
 笑いが止まらなかった。

「隆之さんにはたくさんアルバムがあったのに、私にはこれだけなんだってことを寂しく思ったんですけど、ふふふ、もういいです。隆之さんったら、全然話を聞いてくれないんだもの。ふふふ」

「なるほどな」

 隆之が頷いた。
 そして少し考えて、一冊目を手に取る。ページをめくって七五三の着物のまま千歳飴にかぶりつく由梨を指さした。

「でもこの頃の由梨はとても幸せそうだ」

「ふふふ、母がまだいましたからね。案外やんちゃだったのかな」

 次に三冊目を開いた。

「中学の頃は、友達とはよく撮ったみたいじゃないか」

「そうですね。行事なんかがあると。この頃の友達とはまだ仲がいいんですよ。今回東京で会ったのもこの子たちです」

 不思議だった。
 今井家のがらんとした由梨の部屋でこのアルバムは、色褪せたつまらない、いらない物だった。
 忌まわしい過去の証拠のようにすら思えたのに。
 こうやって彼と一緒に見てみると、ひとつひとつがキラキラと輝いて大切な宝物のように思えてくる。
 やっぱり彼は奇跡みたいな人だ。

「社長も若いなぁ」

 いつのまにか彼は四冊目に手を伸ばしている。
 そこには結婚直後の父と母、そして生まれたばかりの由梨がいた。
 その写真を隆之が愛おしそうに手で撫でて、ぽつりと呟いた。

「……女の子がほしいな」

 由梨の胸がドキンと鳴る。
 瞬きをして彼を見ると、隆之が軽く咳払いをした。

「あ、いや……もしそういう時がきたら、このアルバムの中の由梨にそっくりは女の子がいいなと思って」

 そう言って照れたように微笑む隆之は、初めて見るような優しい表情をしている。
 もしそういう時がきたら。
 由梨の脳裏に赤ん坊を腕に抱く彼が浮かんだ。
 今と同じ優しい眼差しで腕の中を見つめる彼の姿が。
 見たい、と心から思う。
 彼と自分の子を。
 かけがえのないその存在を。
 そしてその子を腕に抱く彼の姿を。
 千歳飴にかぶりつく小さな由梨を優しく見つめるこのアルバムの中の父と母のように。

「隆之さん」

「ん?」

「私たち、幸せな家庭が築けますよね」

 由梨の頬を一筋の光が伝った。

「ああ、もちろんだ」

 隆之の指がそれをそっとすくった。
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