政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
あの夜のやり直し
少し前に取引先で見かけて一目惚れして買った大ぶりの土鍋。その中に張った琥珀色の汁の中で、大根、卵、三角に切ったこんにゃく、ちくわ……が、くつくつと沸いて美味しそうに色づいている。
部屋いっぱいに広がる出汁のいい香りを吸い込んで由梨は微笑んだ。
「うまくできたかな」
おでんである。
結婚してから覚えたレパートリーのひとつだった。
実家では家族の誰も自ら料理をする人はいなかった。専属のシェフが洋食を中心にメニューを決めていたから、こっちに来るまでは、由梨はおでん自体ほとんど食べたことはなかった。
でも結婚して、秋元におそわってからはよく作る。それは由梨自身が優しいこの味を気に入ったからでもあるが、なによりも隆之が好きだからだ。
北国の少し短い秋が終わり、ぐんと気温が下がった土曜日のこの日、朝から仕込みを始めて今シーズンはじめてのおでんを作った。
隆之の方は休日出勤で朝早くに出かけて行った。でも夕食までには帰れると言っていたから、こうやって彼が帰ってきたらすぐに食べられるように準備をしているのである。
本音を言えば、せっかくの休日を彼と一緒に過ごせないのは少し寂しい。でもふたりで一緒に夕食を食べるのを想像しながら料理をするのも、それはそれでまた楽しいことだった。
幸せな笑みを浮かべコンロの火を止めたその時、玄関から誰かが帰ってきた気配する。しばらくすると、リビングのドアが開いて隆之が現れた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
柔らかい笑みを浮かべる隆之に、由梨の胸がドキンと跳ねる。
スーツ姿の彼など見慣れているはずなのにいつまで経ってもこうなのだ。
ビジネスシーンにふさわしいキチンと撫でつけられた黒い髪、ダークブラウンのスーツの下に今日はベストを合わせている。ネクタイをくつろげる手、由梨を見て少し緩む目元も、何もかもが由梨の心を惹きつける。
いつになったら、この素敵な人が自分の旦那さまだということに慣れるのだろう。
「おでんか。嬉しいな」
そう言って彼はすぐそばまでやってきて由梨を腕に閉じ込める。由梨の方も彼の背中に腕を回した。目を閉じて、彼の香りを胸いっぱいに感じ取る。
由梨の大好きな瞬間だった。
自分と彼は家族なのだと強く感じられるからだ。
「土曜日なのに、ひとりにしてごめん」
由梨の髪にキスを落として彼は言う。
大企業の社長である彼に土曜も日曜も関係ない。それはかつて彼の秘書だった由梨はよくわかっている。謝られることなどなにもないのに、こうやって思いやってくれるのが嬉しかった。
「ふふ、隆之さんが喜ぶかなって思いながらおでんを作ってたので、寂しくはなかったですよ」
彼の胸に頬ずりをしてそう言うと、顎に優しく手が添えられる。上を向くと、そのまま唇を奪われた。
「ん……」
ただいまのキスにしては少し濃厚な口づけに、由梨は背中に回した手で彼のスーツを握りしめる。あっというまに、頭の中が彼のことでいっぱいになってゆく。ゆっくりと唇が離れて目を開くと、視線の先で隆之がにっこりとした。
「おでんなら、ちょうどよかったかな」
「え?」
「おみやげだ。今日出先で見かけたから買ってきたんだよ」
差し出された白い紙袋をまだ少しぼんやりとしたまま、受け取る。
「ありがとうございます」
彼は時々こうやって、出先で由梨の好きそうな物を買って帰ってくれる。重さから考えて日本酒だろうとあたりをつけて由梨は袋を覗き込み、思わず「あ」と声を漏らした。
「隆之さん、これ……」
「由梨、好きだろう? 日本酒」
「はい。……そうですけど、これ……」
「ん? この銘柄は好きじゃなかったか?」
「そ、そうじゃないですけど、でも……」
胡散臭いくらいにこやかに、隆之が首を傾げる。
絶対に由梨の言いたいことなどお見通しのはずなのに、とぼけて見せるその彼に、由梨はどうすればいいかわからずに「もう」と呟いて彼の胸に顔を埋める。
隆之が噴き出した。
「ごめんごめん。今日偶然見かけたんだ、それで懐かしいなと思って」
ふたりの結婚式の日に出された銘柄の酒だった。
ここは古い風習や言い伝えが、まだかすかに残る街。
結婚式の日に花嫁が飲むといいと言われている伝統ある銘柄の酒がある。
結婚式の日、極度の緊張の中でこの酒をたくさん飲んだ由梨は酔い潰れ、あろうことか初夜をすっぽかしてしまったのだ。
アルコールにはそれほど弱くないはずの由梨があんな失態を犯したのは後にも先にもあの時だけだ。
日本酒が好きで普段もよく飲む由梨だけれど、あれ以来この銘柄だけは一度も口にしていなかった。
「いいじゃないか。由梨はこの酒嫌い?」
隆之が心底おかしそうに、肩を揺らして笑っている。彼の方も初夜に起こった出来事を思い出しているに違いない。
由梨は彼の腕に顔を埋めたまま、首を横に振った。
「そ、そうじゃないです。すごく美味しいと思います! でも……」
初夜をすっぽかしたことを彼は優しく許してくれた。
あの時由梨の方はまだ本当の意味で彼の妻になるための心の準備はできていなかったのだから、結果的にはあれでよかったのだとも思う。
でも由梨にとっては苦い思い出であることは確かなのだ。
「由梨」
顎に添えられた手に優しく上を向かせられると、アーモンド色の瞳が由梨を見下ろしていた。
「まだ気にしてたのか」
「あたりまえです。普通ならありえないでしょう?」
特殊な環境で育ったせいで、恋愛のことに関しては世間とずれている自覚がある由梨でもそれくらいははっきりわかる。相手が隆之でなかったら、その後の夫婦関係に影響していてもおかしくはない。
「隆之さんも、本当は呆れたんでしょう?」
「いや」
隆之が、くすりと笑ってそれを否定した。
「呆れてなんかいないよ。あの日は頑張ってくれたからな。疲れたんだなと思っただけだ」
「……本当に?」
「本当だ」
優しい眼差しと説得力のある声音に由梨はホッと息を吐く。思い悩んでいたわけではないけれど、どこかでこだわっていた胸のつっかえが取れたような気がした。
「なら、よかったです」
由梨は安堵の笑みを浮かべる。おみやげのお酒も素直な気持ちで味わうことができそうだ。
でもそこで、隆之が少し意味深な笑みを浮かべているような気がして、首を傾げる。
「……隆之さん?」
隆之が眉を上げて、由梨の耳に囁いた。
「ただ俺の方は、気が狂いそうだったけど」
「っ……!」
彼の息が耳元をくすぐる感覚に、由梨はぴくりと肩を揺らす。唇を噛んで声が漏れるのをなんとか堪えた。
「ずっと好きだった人が甘い香りをさせて自分のベッドで寝てるんだ。襲い掛からないように、自分を抑えるのに苦労したよ」
からかうように言いながら隆之が耳を甘噛みする。由梨は必死で彼のスーツを握りしめた。
「あ、た、隆之さ……っ」
「まるで試されているような気分だったな」
くっくっと笑いながら実に楽しげに彼は言う。
あの夜のことを気にしていないのは本当でも、どうやら彼はそのまま由梨を無罪放免とするつもりはないようだ。
「由梨、こっちを見て」
視線を合わせてジッと見つめられては、もう由梨になすすべはない。
隆之が、まるで獲物を仕留めた直後の狼のように唇をぺろりと舐めた。
「だから今日はリベンジをさせてもらうことにするよ」
部屋いっぱいに広がる出汁のいい香りを吸い込んで由梨は微笑んだ。
「うまくできたかな」
おでんである。
結婚してから覚えたレパートリーのひとつだった。
実家では家族の誰も自ら料理をする人はいなかった。専属のシェフが洋食を中心にメニューを決めていたから、こっちに来るまでは、由梨はおでん自体ほとんど食べたことはなかった。
でも結婚して、秋元におそわってからはよく作る。それは由梨自身が優しいこの味を気に入ったからでもあるが、なによりも隆之が好きだからだ。
北国の少し短い秋が終わり、ぐんと気温が下がった土曜日のこの日、朝から仕込みを始めて今シーズンはじめてのおでんを作った。
隆之の方は休日出勤で朝早くに出かけて行った。でも夕食までには帰れると言っていたから、こうやって彼が帰ってきたらすぐに食べられるように準備をしているのである。
本音を言えば、せっかくの休日を彼と一緒に過ごせないのは少し寂しい。でもふたりで一緒に夕食を食べるのを想像しながら料理をするのも、それはそれでまた楽しいことだった。
幸せな笑みを浮かべコンロの火を止めたその時、玄関から誰かが帰ってきた気配する。しばらくすると、リビングのドアが開いて隆之が現れた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
柔らかい笑みを浮かべる隆之に、由梨の胸がドキンと跳ねる。
スーツ姿の彼など見慣れているはずなのにいつまで経ってもこうなのだ。
ビジネスシーンにふさわしいキチンと撫でつけられた黒い髪、ダークブラウンのスーツの下に今日はベストを合わせている。ネクタイをくつろげる手、由梨を見て少し緩む目元も、何もかもが由梨の心を惹きつける。
いつになったら、この素敵な人が自分の旦那さまだということに慣れるのだろう。
「おでんか。嬉しいな」
そう言って彼はすぐそばまでやってきて由梨を腕に閉じ込める。由梨の方も彼の背中に腕を回した。目を閉じて、彼の香りを胸いっぱいに感じ取る。
由梨の大好きな瞬間だった。
自分と彼は家族なのだと強く感じられるからだ。
「土曜日なのに、ひとりにしてごめん」
由梨の髪にキスを落として彼は言う。
大企業の社長である彼に土曜も日曜も関係ない。それはかつて彼の秘書だった由梨はよくわかっている。謝られることなどなにもないのに、こうやって思いやってくれるのが嬉しかった。
「ふふ、隆之さんが喜ぶかなって思いながらおでんを作ってたので、寂しくはなかったですよ」
彼の胸に頬ずりをしてそう言うと、顎に優しく手が添えられる。上を向くと、そのまま唇を奪われた。
「ん……」
ただいまのキスにしては少し濃厚な口づけに、由梨は背中に回した手で彼のスーツを握りしめる。あっというまに、頭の中が彼のことでいっぱいになってゆく。ゆっくりと唇が離れて目を開くと、視線の先で隆之がにっこりとした。
「おでんなら、ちょうどよかったかな」
「え?」
「おみやげだ。今日出先で見かけたから買ってきたんだよ」
差し出された白い紙袋をまだ少しぼんやりとしたまま、受け取る。
「ありがとうございます」
彼は時々こうやって、出先で由梨の好きそうな物を買って帰ってくれる。重さから考えて日本酒だろうとあたりをつけて由梨は袋を覗き込み、思わず「あ」と声を漏らした。
「隆之さん、これ……」
「由梨、好きだろう? 日本酒」
「はい。……そうですけど、これ……」
「ん? この銘柄は好きじゃなかったか?」
「そ、そうじゃないですけど、でも……」
胡散臭いくらいにこやかに、隆之が首を傾げる。
絶対に由梨の言いたいことなどお見通しのはずなのに、とぼけて見せるその彼に、由梨はどうすればいいかわからずに「もう」と呟いて彼の胸に顔を埋める。
隆之が噴き出した。
「ごめんごめん。今日偶然見かけたんだ、それで懐かしいなと思って」
ふたりの結婚式の日に出された銘柄の酒だった。
ここは古い風習や言い伝えが、まだかすかに残る街。
結婚式の日に花嫁が飲むといいと言われている伝統ある銘柄の酒がある。
結婚式の日、極度の緊張の中でこの酒をたくさん飲んだ由梨は酔い潰れ、あろうことか初夜をすっぽかしてしまったのだ。
アルコールにはそれほど弱くないはずの由梨があんな失態を犯したのは後にも先にもあの時だけだ。
日本酒が好きで普段もよく飲む由梨だけれど、あれ以来この銘柄だけは一度も口にしていなかった。
「いいじゃないか。由梨はこの酒嫌い?」
隆之が心底おかしそうに、肩を揺らして笑っている。彼の方も初夜に起こった出来事を思い出しているに違いない。
由梨は彼の腕に顔を埋めたまま、首を横に振った。
「そ、そうじゃないです。すごく美味しいと思います! でも……」
初夜をすっぽかしたことを彼は優しく許してくれた。
あの時由梨の方はまだ本当の意味で彼の妻になるための心の準備はできていなかったのだから、結果的にはあれでよかったのだとも思う。
でも由梨にとっては苦い思い出であることは確かなのだ。
「由梨」
顎に添えられた手に優しく上を向かせられると、アーモンド色の瞳が由梨を見下ろしていた。
「まだ気にしてたのか」
「あたりまえです。普通ならありえないでしょう?」
特殊な環境で育ったせいで、恋愛のことに関しては世間とずれている自覚がある由梨でもそれくらいははっきりわかる。相手が隆之でなかったら、その後の夫婦関係に影響していてもおかしくはない。
「隆之さんも、本当は呆れたんでしょう?」
「いや」
隆之が、くすりと笑ってそれを否定した。
「呆れてなんかいないよ。あの日は頑張ってくれたからな。疲れたんだなと思っただけだ」
「……本当に?」
「本当だ」
優しい眼差しと説得力のある声音に由梨はホッと息を吐く。思い悩んでいたわけではないけれど、どこかでこだわっていた胸のつっかえが取れたような気がした。
「なら、よかったです」
由梨は安堵の笑みを浮かべる。おみやげのお酒も素直な気持ちで味わうことができそうだ。
でもそこで、隆之が少し意味深な笑みを浮かべているような気がして、首を傾げる。
「……隆之さん?」
隆之が眉を上げて、由梨の耳に囁いた。
「ただ俺の方は、気が狂いそうだったけど」
「っ……!」
彼の息が耳元をくすぐる感覚に、由梨はぴくりと肩を揺らす。唇を噛んで声が漏れるのをなんとか堪えた。
「ずっと好きだった人が甘い香りをさせて自分のベッドで寝てるんだ。襲い掛からないように、自分を抑えるのに苦労したよ」
からかうように言いながら隆之が耳を甘噛みする。由梨は必死で彼のスーツを握りしめた。
「あ、た、隆之さ……っ」
「まるで試されているような気分だったな」
くっくっと笑いながら実に楽しげに彼は言う。
あの夜のことを気にしていないのは本当でも、どうやら彼はそのまま由梨を無罪放免とするつもりはないようだ。
「由梨、こっちを見て」
視線を合わせてジッと見つめられては、もう由梨になすすべはない。
隆之が、まるで獲物を仕留めた直後の狼のように唇をぺろりと舐めた。
「だから今日はリベンジをさせてもらうことにするよ」