政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
「このお酒の魅力は甘いのに、どんな料理にも合うというところなんです。すっきりとした甘さなんですよね。さすがは婚礼酒と言われるだけあります。しかも伝統の味ですから製法が昔からほとんど変わっていないんです。それってすっごく貴重なことで……」

 紫色の切子ガラスのグラスの中の乳白色の液体を見つめながら、由梨は少し興奮気味に話しをする。隣で隆之が同じ酒を飲みながら、目を細めて聞いていた。
 夕食をおみやげの酒とともにふたりで囲んだ後、リビングへ移動してきた。ソファに座り、ゆっくりと夫婦の時間を過ごしている。
 会話の内容は由梨の日本酒うんちくだ。
 日本酒や食べ物の話になると、こんな風に夢中になってしまうのは、もはや由梨のクセみたいなものだった。
 日本の名産品や日本酒に関しての研究はもともと由梨の趣味だったが、企画課に配属になってから、さらに打ち込んで続けている。仕事にも役立つのだからまさに一石二鳥だ。

「原材料は……」

 でもそこで、由梨は隆之がニコニコして由梨の髪を撫でていることに気が付いて口を噤ぐむ。また夢中になりすぎてしまった。

「どうした?」

 急に黙り込んだ由梨に、手にしていたグラスを置いて隆之が首を傾げる。
 由梨は少し気まずい思いで口を開いた。

「私また夢中になりすぎちゃった。隆之さんはこんな話知っているだろうから、面白くないでしょう?」

 隆之が首を横に振った。

「そんなことないよ。由梨の説明は、根底に商品への愛があるからね。着眼点が面白い。細かく調べてあるから、勉強になるよ」

 由梨の髪に指を絡めて、隆之は言う。
 大手商社の社長である彼からしてみれば、由梨の知識など小学生の自由研究みたいなものだろう。でもこんな風に認めてくれるのが嬉しかった。

「それに俺は、由梨が楽しそうに話しているのを見ているのが好きなんだ。一週間の疲れが取れるような気がしてさ」

 ソファにもたれかかり心底リラックスしている様子の隆之に、由梨は嬉しくなってグラスの中の日本酒をひと口飲む。さわやかな甘い香りが口いっぱいに広がった。

「なんだか不思議な気分です」

 少しふわふわとして由梨は口を開く。
 隆之が先を促すように眉を上げた。

「前にこのお酒を飲んだ時は、私なんか、隆之さんのお嫁さんに相応しくないって思っていたんです。全然自信がなくて……。でも今はこうしていられるでしょう? なんか奇跡みたいな気がして」

 隆之がフッと笑った。

「はじめから俺は由梨しか考えられなかったのに。出会ってすぐに恋に落ちたんだから」

 情熱的なその言葉に、どこかひっかかりを覚えてしまい由梨はうーむと考え込む。甘い香りでふわふわとする思考の中であれこれ考えを巡らせた。

「由梨?」

 尋ねられて、思いついたことをそのまま口にする。

「でも隆之さん、彼女はずっといたんでしょう? 奈々ちゃんが言ってたわ。よく噂になってるって」

 由梨にしては珍しい率直な問いかけに、隆之が意外そうに眉を上げる。そして即座に否定した。

「いや、由梨と出会ってからはずっといない。そんな気分にならなくなったんだ。噂は、あくまでも噂だよ」

 言い切る隆之に、普段の由梨ならすぐに頷いていただろう。でもなぜか今は素直に納得できなくて、考えながら、酒をもうひと口、口に含んだ。

「たしかに長坂先輩はそう言ってたような……。でもちょっと信じられない……」

 ぶつぶつ言いながらもうひと口飲む。
 ぐい呑みは空になった。

「由梨、本当だ」

 頬を大きな手が包み彼の方を向かされる。咎めるような眼差しで見つめられてもまだ由梨は頷けなかった。
 その由梨に隆之がまた口を開く。

「由梨と出会ってからは、プライベートで女性とふたりで会うのもやめた。本当にそんな気になれなかったんだ」

 それこそ信じられないと由梨は思う。
 だって、モデルと付き合っていたような人が、由梨に一目惚れをして、その由梨のためにひっきりなしにあるであろう美女たちからの誘いをすべて断るなんて。
 どう考えても、非現実的すぎる話だ。

「だって、隆之さんの昔の恋人は素敵な女性ばかりだったんでしょう? それなのに、まったく普通の私に一目惚れなんて信じられない」

 ありもしないことをリップサービスとして言う隆之に由梨は少しぷりぷりとして、空になったグラスに再び酒を注ごうと白い瓶に手を伸ばす。
 でもそれを隆之によって阻止された。

「あっ……!」

 あっという間に由梨の世界は反転して、ソファの上に優しく押し倒されてしまう。
 見下ろす隆之が眉を寄せた。

「酔っぱらう由梨は可愛いが、これ以上はダメだ」

 そこでようやく由梨は自分が少し飲みすぎてしまったことに気がついた。
 酔いがまわって、あまり考えがまとまらないままに、好き放題によくないことを口走った。普段なら絶対に言わないようなことを。

「あ……、ごめんなさい」

 眉を下げてしょんぼりしてそう言うと、隆之が肩を揺らしてくっくっと笑う。

「隆之さん……?」

「こんなに俺を狂わせておいて、"信じられない"なんてよく言うよ」

「え? あ、んっ……!」

 反論する間も与えられず唇が塞がれた。頭がくらくらするような手加減なしの口づけは、彼を疑ったおしおきと言わんばかりに激しかった。そしてそれは由梨の中のちょっとしたこだわりを、あっという間に押し流してゆく。

「ん、んん……」

 彼からの愛で由梨の胸は満たされて、思考は幸せな色に染められてゆく。

「由梨がどれだけ俺にとって特別なのか。たっぷり思い知らせてやる」

 唇をぺろりと舐めて、隆之がなにやら不穏な言葉を口にする。

「あ、た、隆之さ……」

「あの夜のやり直しをしよう」

 どこか楽しげにそう言って、彼は由梨のあちこちに口づけを落とし始める。
 柔らかくて熱い彼の唇が吸い付くように首筋を辿る感覚に、由梨の背中が甘く痺れて身体の力が抜けてゆく。
 温かい大きな手があちこちを辿りだすのがこれ以上ないくらいに心地いい。

「由梨、愛してるよ。こんなに俺をおかしくさせるのは、後にも先にも君だけだ」

 愛の言葉に誘われて、由梨はゆっくりと目を閉じる。そこには、ふたりだけ存在する心地のいい世界が広がっていた。
 大好きな旦那さまの温かくて大きな腕に包まれてすっかり安心してしまった由梨を、突如としてふわふわした眠気が襲う。
 とにかくなにもかもが気持ちよくて仕方がない。

「隆之さん……」

 抗えなない心地よさに、由梨はそのまま夢の世界へ行ってしまう。

「由梨、由梨……?」

 呼びかけられても、もはや答えることはできなかった。

「………………まいったな」

 その後の隆之のため息は、幸せな夢を見る由梨の耳には届かなかった。
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