『政略結婚は純愛のように』番外編集
家に着いた頃にはもううっすらと地面が白くなっていた。
玄関で隆之は急いで靴を脱ぐ。そのまま廊下を足速に進むと、リビングには明かりがついていた。
「由梨!」
やや乱暴にドアを開けると、彼女はソファに座って雑誌を広げていた。ただいまも言わずに、突然現れた隆之に目を丸くしている。
「お、おかえりなさい」
隆之は大股に歩み寄り由梨の前で床に膝をつく。そして彼女を見上げた。
「どこか具合でも悪いのか⁉︎」
余裕なく尋ねる隆之に、由梨が驚いて瞬きをしている。その顔色は悪くないように思えた。でもだからといって隆之はまったく安心はできなかった。病院へ行ったのならそれなりの理由があるはずだ。
隆之は彼女の両腕を力を入れすぎないように掴んだ。
「病院へ行ったんだろう?」
単刀直入に聞きすぎだと自分でも思う。
あらかじめ病院へ行くと決めていたのに彼女が自分に言わなかったのは、言えない事情があったからだ。
だったらその意思を尊重して、さりげなく尋ねるか、彼女が自分から言うのを待つべきなのだ。
もちろん普段の隆之なら、そして相手が由梨でなかったら、そうしていただろう。
でもそんなあたりまえのことが、彼女に対してはできなくなってしまう。
「身体は大丈夫なのか?」
重ねて尋ねると、彼女は頬を染めて頷いた。
「大丈夫です、心配しないでください。あの……早退のこと、企画課で聞いたんですか?」
「ああ、午後に。……俺が無理やり聞いたんだ。彼らを責めないでやってくれ」
今更そうフォローをすると、由梨は素直に頷いた。
「それは大丈夫です。黙っててごめんなさい。病気とか怪我とかそういうことじゃないんです……」
そう言って頬を染める。どこか嬉しそうにも思えるその表情に、隆之は眉を寄せた。病気でも怪我でもないけれど、わざわざ早退をして病院へ行く……いったいどういうことか、わけがわからない。
でもそこで彼女が手にしている本が目に入り息を呑んだ。
表紙は小さな赤ん坊と優しい表情の女性、タイトルは『はじめてママのマタニティライフ』とある。
「由梨、もしかして……」
そう言いながら再び由梨を見ると、彼女は頬を染めて頷いた。
「……来年の夏の初めになるそうです」
「…………」
問いかけておきながら、返ってきた答えに隆之はすぐに反応できなかった。
初めての感情が胸の中から溢れ出して、隆之の頭からこのような場面で夫が妻に言うのにふさわしい言葉を押し流してゆく。
隆之が初めて本気で愛した人、由梨。
愛おしい彼女の中に自分の子が宿ったという事実に、沸き起こるこの気持ちを言い表す言葉が見つけられない。
ただ隣に腰掛けて、彼女の膝に置かれた手を握ると、シンプルな言葉が口から出る。
「ありがとう、嬉しいよ」
でもそれで、想いは十分伝わったようだった。
「隆之さん、私も嬉しい」
シンプルな言葉が返ってくる。
それがふたりのすべてだった。
ふたりの間に芽生えた小さな命を嬉しいと思えること、それがこれ以上ないくらいありがたい。
少し前にそれぞれのアルバムを見せ合った時のことが隆之の頭に浮かんだ。
幼少期の写真が隆之に比べて少ないことを由梨は随分気にしていた。
確かに量だけを見ればそうだろう。
隆之は加賀家の長男として親戚中から大切にされていた。
だが実際のところあたりまえの家族の温もりを知っているかと言われれば、彼女とそう変わらないと隆之は思っている。
母は早くに亡くなって、父は仕事でほとんど家にいない、そんな幼少期だったのだから。
由梨が持っていた彼女が小さい頃の家族写真。
それを羨ましいとすら思ったくらいなのだ。
由梨に出会うまで、結婚というものにまったく興味が持てなかったのも、その過去と無関係ではないだろう。
でもあの夜、アルバムの中の弾けるような小さな由梨の笑顔を見た時に、隆之の前に新しい未来が広がったのだ。
彼女と自分に子ができたら、こんな笑顔が溢れる温かい家庭を築きたい。そしてそれを全力で守りぬくのだ。
自分はきっとそのために生まれてきたのだ。
「ふふふ、楽しみ」
自分のお腹に手を当ててはにかむ由梨をこの世で一番美しいと思う。
熱いものが込み上げるのを感じながら、隆之は由梨を抱き寄せた。
「俺もだ。由梨、愛してるよ」
玄関で隆之は急いで靴を脱ぐ。そのまま廊下を足速に進むと、リビングには明かりがついていた。
「由梨!」
やや乱暴にドアを開けると、彼女はソファに座って雑誌を広げていた。ただいまも言わずに、突然現れた隆之に目を丸くしている。
「お、おかえりなさい」
隆之は大股に歩み寄り由梨の前で床に膝をつく。そして彼女を見上げた。
「どこか具合でも悪いのか⁉︎」
余裕なく尋ねる隆之に、由梨が驚いて瞬きをしている。その顔色は悪くないように思えた。でもだからといって隆之はまったく安心はできなかった。病院へ行ったのならそれなりの理由があるはずだ。
隆之は彼女の両腕を力を入れすぎないように掴んだ。
「病院へ行ったんだろう?」
単刀直入に聞きすぎだと自分でも思う。
あらかじめ病院へ行くと決めていたのに彼女が自分に言わなかったのは、言えない事情があったからだ。
だったらその意思を尊重して、さりげなく尋ねるか、彼女が自分から言うのを待つべきなのだ。
もちろん普段の隆之なら、そして相手が由梨でなかったら、そうしていただろう。
でもそんなあたりまえのことが、彼女に対してはできなくなってしまう。
「身体は大丈夫なのか?」
重ねて尋ねると、彼女は頬を染めて頷いた。
「大丈夫です、心配しないでください。あの……早退のこと、企画課で聞いたんですか?」
「ああ、午後に。……俺が無理やり聞いたんだ。彼らを責めないでやってくれ」
今更そうフォローをすると、由梨は素直に頷いた。
「それは大丈夫です。黙っててごめんなさい。病気とか怪我とかそういうことじゃないんです……」
そう言って頬を染める。どこか嬉しそうにも思えるその表情に、隆之は眉を寄せた。病気でも怪我でもないけれど、わざわざ早退をして病院へ行く……いったいどういうことか、わけがわからない。
でもそこで彼女が手にしている本が目に入り息を呑んだ。
表紙は小さな赤ん坊と優しい表情の女性、タイトルは『はじめてママのマタニティライフ』とある。
「由梨、もしかして……」
そう言いながら再び由梨を見ると、彼女は頬を染めて頷いた。
「……来年の夏の初めになるそうです」
「…………」
問いかけておきながら、返ってきた答えに隆之はすぐに反応できなかった。
初めての感情が胸の中から溢れ出して、隆之の頭からこのような場面で夫が妻に言うのにふさわしい言葉を押し流してゆく。
隆之が初めて本気で愛した人、由梨。
愛おしい彼女の中に自分の子が宿ったという事実に、沸き起こるこの気持ちを言い表す言葉が見つけられない。
ただ隣に腰掛けて、彼女の膝に置かれた手を握ると、シンプルな言葉が口から出る。
「ありがとう、嬉しいよ」
でもそれで、想いは十分伝わったようだった。
「隆之さん、私も嬉しい」
シンプルな言葉が返ってくる。
それがふたりのすべてだった。
ふたりの間に芽生えた小さな命を嬉しいと思えること、それがこれ以上ないくらいありがたい。
少し前にそれぞれのアルバムを見せ合った時のことが隆之の頭に浮かんだ。
幼少期の写真が隆之に比べて少ないことを由梨は随分気にしていた。
確かに量だけを見ればそうだろう。
隆之は加賀家の長男として親戚中から大切にされていた。
だが実際のところあたりまえの家族の温もりを知っているかと言われれば、彼女とそう変わらないと隆之は思っている。
母は早くに亡くなって、父は仕事でほとんど家にいない、そんな幼少期だったのだから。
由梨が持っていた彼女が小さい頃の家族写真。
それを羨ましいとすら思ったくらいなのだ。
由梨に出会うまで、結婚というものにまったく興味が持てなかったのも、その過去と無関係ではないだろう。
でもあの夜、アルバムの中の弾けるような小さな由梨の笑顔を見た時に、隆之の前に新しい未来が広がったのだ。
彼女と自分に子ができたら、こんな笑顔が溢れる温かい家庭を築きたい。そしてそれを全力で守りぬくのだ。
自分はきっとそのために生まれてきたのだ。
「ふふふ、楽しみ」
自分のお腹に手を当ててはにかむ由梨をこの世で一番美しいと思う。
熱いものが込み上げるのを感じながら、隆之は由梨を抱き寄せた。
「俺もだ。由梨、愛してるよ」