政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
噂話
「そういえばさっきいたね、社長の奥さん」
ドアを一枚隔てた向こう側から聞こえてくる声に、由梨はドキリとして鍵を開けようとしていた手を止める。
別の声が応えた。
「いたいた、最近よく食堂に来るようになったよね」
息を潜めて身を固くしたまま、由梨は会話の内容に耳を傾ける。ずっと前にもこんなことがあったなと思いながら。
北部支社が加賀ホールディングスの傘下に入り北部物産と社名を変更してから、一カ月が経った。
由梨は、妊娠四カ月を過ぎたところ。
お腹も少し目立ってきた。
検診では毎回順調と太鼓判を押されるが、とにかく疲れやすくて強い眠気を感じる。
朝はぎりぎりまで起きられなくて、毎日作っていたお弁当はここのところすっかりご無沙汰だ。
でもそれで困るということは今の由梨にはない。
企画課の同僚と外に食べに行くか、食堂で食べればいいだけなのだから。
この会社で由梨が目立つ存在であることは以前も今も変わらないが、それを気にすることをやめてしまえば、食堂だってへっちゃらだ。
でも帰りに寄ったトイレの個室で、噂話を耳にしてしまうのはあまり気持ちのいいものではなかった。
さすがにこの状況で出て行く気にはなれないから、由梨はそのまま彼女たちがトイレから出て行くのを待つことにした。
「もう堂々としたものよね、奥さん。あんなことがあったんだもん。開き直ってるんだろうね」
「恐いものなしだよ」
由梨の頬が熱くなる。
彼女たちの言う"あんなこと"がなにを指しているのかすぐにわかったからだ。
隆之が北部支社に帰ってきた日、会社のエントランスで倒れそうになった由梨を彼が抱き止めたことである。
あの時由梨は、とにかくすべてがうまくいったことに対する安堵感で周りが見えなくなっていた。
それまでの出来事からしてみれば、あれくらいなんでもないことに思えたのだ。
けれど、あとになって考えたらやっぱりありえないことだった。
たくさんの社員が見守る中で社長である隆之と抱き合うだなんて。
ふたりが一緒にいるところを見慣れている企画課の仲間からも、しばらくはからかわれる始末だった。
一カ月経って、ようやく言われないようになってきたのに、完全に沈静化するのにはまだ時間がかかりそうだと由梨は心の中でため息をついた。
すると別の声が彼女たちを笑った。
「あんたたち、まだ社長に夢見てるの? ムダムダ、去年の忘年会で言われたじゃない。俺の片思いだったって。叶いっこない夢はさっさと捨てないと時間を無駄にするよ」
では、彼女たちは去年の忘年会で隆之が言いくるめた総務課の社員たちなのだ。
恥ずかしいところを二度も見られてしまっていて、いったいなにを言われるのやらと由梨は身構える。
ため息混じりの声が応えた。
「まぁ、それはそうなんだけど。でもあんなにかっこいい人滅多にいないじゃない? 見た目だけじゃなくて中身も抜群だし。だからなかなか諦められないんだよね。もちろん本気でどうにかなろうなんて思ってないけど、なんていうのかなー推しが結婚しちゃった感じ?」
「わかるー! 私の癒しを返せーって心の叫びがどうにもならない!」
彼女たちの掛け合いに由梨は思わず笑みを漏らす。どこか無邪気なやりとりにホッと胸を撫で下ろす。
「もーしょうがないなー。あ、でもそれなら、営業の友達が言ってたよ。社長と奥さんが一緒にいるところを見たら諦めがつくって」
でもその言葉には、眉をひそめる。
一緒にいるところを見れば諦められるとはいったいどういうことだろう。まったく身に覚えがない話だった。
基本的に由梨と隆之は会社では接触がない。 もちろん彼が企画課へ来ることはあるが、そんな時も由梨は意識して関係のないふりをしているし、彼の方も話しかけてくることはない。
由梨がそうお願いしているからだ。
「どういうこと?」
もうひとりの社員が問いかける。
由梨は耳を澄ませた。
「奥さん企画課にいるでしょう? 営業は企画課の隣だからさ、社長が企画課に来た時にその友達、こっそりふたりの様子を観察してるんだって」
「……まさか、いちゃいちゃしてるの?」
「違う違う。ふたりとも言葉を交わしたりはしないんだけど……」
そこで意味深に言葉が切きれる。
由梨はドキドキとして続きを待った。
なにもやましいことはしていない。
他の社員が不快に思うようなことはないと自分自身に言い聞かせながら。
……その続きは、信じられない内容だった。
「見てるのよ」
「……は?」
「だから見てるんだって」
「……誰が?」
「社長が」
「……なにを」
「だから、奥さんを!」
え!と思わず声をあげそうになる口を由梨は慌てて手で押さえる。
とっても嫌な予感がした。話の続きを聞きたいような、でも聞くのが恐いような。
そんな由梨の内心をよそに、彼女がことの詳細を話し始めた。
「べつにふたりが話をしたりするわけじゃないんだけど、ふとした瞬間にさ、社長が奥さんを見つめてるんだって! 妊娠中なのに激務で有名なあの企画課にいるんだから心配なのはわかるけどさ。でもそれがもう完全に"愛おしい""大好き"って言っているみたいな視線なんだって! あれを見たら誰でも諦められるって話だよ」
「えー…、そうなんだー……」
心底ガッカリしたというような声と共に、場の空気が一気に沈む。ジャーと手を洗う音だけが聞こえてくる。
一方でそれとはまったく反対に、由梨の頬の温度は一気に上昇してしまっていた。
なんてこと!
まさかそんな風に言われていたなんて!
これじゃあ由梨が、会社で彼を見かけても平常心でいるように努めていた意味がないじゃないか。
そう、由梨だって。
会社だろうがどこだろうが、隆之の姿が目に入るとドキドキとしてしまう。それは気持ちが通じ合い本当の夫婦になってからしばらく経ってもまったく変わらなかった。
産休に入ったら彼の働く姿をしばらくは見られなくなるのだと思うと、今のうちにこの目に焼き付けておきたい。
本当は企画課に来た彼をじっと見つめていたいくらいなのだ。
でもその気持ちに一生懸命蓋をして、心を鬼にして、素知らぬふりを貫いているというのに‼︎
「……じゃあ今度備品配達のふりをして、企画課を覗いてみる?」などと言いながら、女性社員たちはトイレから出て行く。
すぐ隣の個室で由梨は愕然としてしまっていた。
ドアを一枚隔てた向こう側から聞こえてくる声に、由梨はドキリとして鍵を開けようとしていた手を止める。
別の声が応えた。
「いたいた、最近よく食堂に来るようになったよね」
息を潜めて身を固くしたまま、由梨は会話の内容に耳を傾ける。ずっと前にもこんなことがあったなと思いながら。
北部支社が加賀ホールディングスの傘下に入り北部物産と社名を変更してから、一カ月が経った。
由梨は、妊娠四カ月を過ぎたところ。
お腹も少し目立ってきた。
検診では毎回順調と太鼓判を押されるが、とにかく疲れやすくて強い眠気を感じる。
朝はぎりぎりまで起きられなくて、毎日作っていたお弁当はここのところすっかりご無沙汰だ。
でもそれで困るということは今の由梨にはない。
企画課の同僚と外に食べに行くか、食堂で食べればいいだけなのだから。
この会社で由梨が目立つ存在であることは以前も今も変わらないが、それを気にすることをやめてしまえば、食堂だってへっちゃらだ。
でも帰りに寄ったトイレの個室で、噂話を耳にしてしまうのはあまり気持ちのいいものではなかった。
さすがにこの状況で出て行く気にはなれないから、由梨はそのまま彼女たちがトイレから出て行くのを待つことにした。
「もう堂々としたものよね、奥さん。あんなことがあったんだもん。開き直ってるんだろうね」
「恐いものなしだよ」
由梨の頬が熱くなる。
彼女たちの言う"あんなこと"がなにを指しているのかすぐにわかったからだ。
隆之が北部支社に帰ってきた日、会社のエントランスで倒れそうになった由梨を彼が抱き止めたことである。
あの時由梨は、とにかくすべてがうまくいったことに対する安堵感で周りが見えなくなっていた。
それまでの出来事からしてみれば、あれくらいなんでもないことに思えたのだ。
けれど、あとになって考えたらやっぱりありえないことだった。
たくさんの社員が見守る中で社長である隆之と抱き合うだなんて。
ふたりが一緒にいるところを見慣れている企画課の仲間からも、しばらくはからかわれる始末だった。
一カ月経って、ようやく言われないようになってきたのに、完全に沈静化するのにはまだ時間がかかりそうだと由梨は心の中でため息をついた。
すると別の声が彼女たちを笑った。
「あんたたち、まだ社長に夢見てるの? ムダムダ、去年の忘年会で言われたじゃない。俺の片思いだったって。叶いっこない夢はさっさと捨てないと時間を無駄にするよ」
では、彼女たちは去年の忘年会で隆之が言いくるめた総務課の社員たちなのだ。
恥ずかしいところを二度も見られてしまっていて、いったいなにを言われるのやらと由梨は身構える。
ため息混じりの声が応えた。
「まぁ、それはそうなんだけど。でもあんなにかっこいい人滅多にいないじゃない? 見た目だけじゃなくて中身も抜群だし。だからなかなか諦められないんだよね。もちろん本気でどうにかなろうなんて思ってないけど、なんていうのかなー推しが結婚しちゃった感じ?」
「わかるー! 私の癒しを返せーって心の叫びがどうにもならない!」
彼女たちの掛け合いに由梨は思わず笑みを漏らす。どこか無邪気なやりとりにホッと胸を撫で下ろす。
「もーしょうがないなー。あ、でもそれなら、営業の友達が言ってたよ。社長と奥さんが一緒にいるところを見たら諦めがつくって」
でもその言葉には、眉をひそめる。
一緒にいるところを見れば諦められるとはいったいどういうことだろう。まったく身に覚えがない話だった。
基本的に由梨と隆之は会社では接触がない。 もちろん彼が企画課へ来ることはあるが、そんな時も由梨は意識して関係のないふりをしているし、彼の方も話しかけてくることはない。
由梨がそうお願いしているからだ。
「どういうこと?」
もうひとりの社員が問いかける。
由梨は耳を澄ませた。
「奥さん企画課にいるでしょう? 営業は企画課の隣だからさ、社長が企画課に来た時にその友達、こっそりふたりの様子を観察してるんだって」
「……まさか、いちゃいちゃしてるの?」
「違う違う。ふたりとも言葉を交わしたりはしないんだけど……」
そこで意味深に言葉が切きれる。
由梨はドキドキとして続きを待った。
なにもやましいことはしていない。
他の社員が不快に思うようなことはないと自分自身に言い聞かせながら。
……その続きは、信じられない内容だった。
「見てるのよ」
「……は?」
「だから見てるんだって」
「……誰が?」
「社長が」
「……なにを」
「だから、奥さんを!」
え!と思わず声をあげそうになる口を由梨は慌てて手で押さえる。
とっても嫌な予感がした。話の続きを聞きたいような、でも聞くのが恐いような。
そんな由梨の内心をよそに、彼女がことの詳細を話し始めた。
「べつにふたりが話をしたりするわけじゃないんだけど、ふとした瞬間にさ、社長が奥さんを見つめてるんだって! 妊娠中なのに激務で有名なあの企画課にいるんだから心配なのはわかるけどさ。でもそれがもう完全に"愛おしい""大好き"って言っているみたいな視線なんだって! あれを見たら誰でも諦められるって話だよ」
「えー…、そうなんだー……」
心底ガッカリしたというような声と共に、場の空気が一気に沈む。ジャーと手を洗う音だけが聞こえてくる。
一方でそれとはまったく反対に、由梨の頬の温度は一気に上昇してしまっていた。
なんてこと!
まさかそんな風に言われていたなんて!
これじゃあ由梨が、会社で彼を見かけても平常心でいるように努めていた意味がないじゃないか。
そう、由梨だって。
会社だろうがどこだろうが、隆之の姿が目に入るとドキドキとしてしまう。それは気持ちが通じ合い本当の夫婦になってからしばらく経ってもまったく変わらなかった。
産休に入ったら彼の働く姿をしばらくは見られなくなるのだと思うと、今のうちにこの目に焼き付けておきたい。
本当は企画課に来た彼をじっと見つめていたいくらいなのだ。
でもその気持ちに一生懸命蓋をして、心を鬼にして、素知らぬふりを貫いているというのに‼︎
「……じゃあ今度備品配達のふりをして、企画課を覗いてみる?」などと言いながら、女性社員たちはトイレから出て行く。
すぐ隣の個室で由梨は愕然としてしまっていた。