『政略結婚は純愛のように』番外編集
テーラーが来て物産展の話をして帰った日は由梨が寝る前に家に帰ることができた。
隆之がリビングのドアを開けると由梨はダイニングに座り、熱心に紙に何かを書き込んでいる。
そばにはオレンジ色のファイルがあった。
隆之が帰ってきたことにも気がつかないでペンを走らせている彼女に、隆之はくすりと笑みを漏らす。
「ただいま」
なるべく驚かさないように柔らかく声をかけるが、無駄だったようだ。
「ひゃっ!」
と言って彼女はびくりと肩を揺らした。
「た、隆之さん、お、おかえりなさい」
「ん、ただいま。驚かすつもりはなかったんだけど。随分と熱中してるから」
細い腕で隠してるつもりかもしれないが、熱心に書き込んでいた資料には隠しきれない"沖縄"の文字。
物産展のことを彼女お手製の記録に残しているのだろう。
「なにか新しい発見でもあったのか?」
隆之は素知らぬフリで問いかける。
テーブルの上のオレンジ色のファイルが彼女の趣味である日本各地の食材をまとめたものだということは夫婦の共通の認識だ。
夫婦ふたりの時間に、彼女が持ち出して来て話をすることも多かった。
隆之の問いかけに、由梨はあわあわとして口を開いた。
「こ、これは、そのあの……!」
そこへ隆之は畳み掛ける。
「隠さなくてもいいよ。沖縄物産展に行ったんだろう?」
「え……ええ⁉︎ 隆之さんどうして知ってるんですか⁉︎」
由梨は目を白黒させている。
その様子に、隆之はくっくと笑った。
秘密にしていたことをズバリ指摘されて、慌てているのがおかしかった。
隆之と予定を合わせて夫婦ふたりで出かけるか、それとも隆之なしで物産展を楽しむのか。
つまり彼女は物産展を選んだのだ。
でもそれが後ろめたくて隆之に物産展へ行ったことを言えなかったのだろう。
こういう時、少し前の隆之ならもっとゆっくりといろいろな角度から彼女を責めて、もう少し困らせただろう。
自分でも悪趣味だとは思うが、そうやって彼女をからかうのが、案外隆之は好きなのだ。
場合によってはその後に、普段は自制している"邪(よこしま)な"自分の中の欲求をひとつかふたつきいてもらうよう彼女に仕向けたかもしれない。
なにせ……物産展に負けたのだから。
でもなんといっても、今彼女は身重なのだ。身体に負担をかけるわけにはいかない。
隆之はすぐに種あかしをした。
「今日、百貨店のテーラーに来てもらったんだ。それで物産展の話を聞いた。由梨が行った日が最終日だって話だったから、ああ、あの時由梨が俺と一緒じゃなくていいと言ったのは、物産展に行きたかったからなんだなと気が付いたんだ」
とはいえ隆之としては少し安堵してもいた。
自分のせいで由梨の楽しみがひとつなくらなくてよかった。
彼女が物産展を楽しめたこと自体はよかったと思う。
一方で隆之の説明を聞きながら由梨はみるみるしぼんでゆく。
うつむいてしょんぼりとしてしまった。
「ごめんなさい、隆之さん」
「謝る必要はないよ。言いにくかったんだろう? 俺と買い物に行くよりも、物産展の方に行きたかったって。くくく」
言いながらまた笑いが込み上げてくる。
彼女のこういうところが可愛くて愛おしくてたまらなかった。
本当は物産展のことを彼女が黙っていたと知った時は、少しだけ胸が騒いだ。
彼女にとって隆之へのはじめての隠し事だったからだ。
どんな理由なんだろうと不安に思ったのも事実だ。
でも蓋を開けてみれば、やっぱり由梨は由梨だった。
物産展に行きたくてたまらない、でもそれを隆之には言えなかった。だから秋元からの申し出にこれ幸いと乗っかってはみたものの、後ろめたくては行ったことを隆之には言えなかった。
でもやっぱり行ったことの記録はちゃんと残しておきたいと夢中になってペンを走らせている…。
「ごめんなさい」
しょげる由梨をよそに隆之は笑い続ける。
「くくく、ごめん。おかしくて、笑いが止まらない」
そして由梨の隣の席に腰掛けて彼女の頭を優しく撫でた。
「本当に謝らなくていいよ。でも言ってくれればよかったのに」
すると彼女は上目遣いに隆之を見て、少し考えてから口を開いた。
「だって……。言ったら隆之さん、私に対してすごく申し訳ない気持ちになったでしょう? 行けなくなったのは仕事のせいなんだから仕方がないのに」
「……なるほど。俺の気持ちを考えてくれたのか」
確認するようにそう言うと、由梨はこくんと頷いた。
「秋元さんが一緒に行ってくれるって聞いた時は、ありがたかったです。……やっぱり、物産展にも行きたかったし。でも帰ってきてよく考えてみたら……」
と、そこで由梨は言葉を切って、くすくすと笑い出した。
「私、隆之さんよりも物産展を選んだんじゃない?って思ったら、言えなくなっちゃったんです。ふふふ、ごめんなさい」
つまりは隆之が考えていたよりも、もう少し由梨の心の中は複雑で、彼女は隆之のことを思いやってくれていたわけだ。
目の前でくすくす笑う彼女に隆之の胸は温かくなる。
隆之はこの屋敷を一歩出れば、常に重要な決断を迫られるという立場にいて、重圧を背負っている。
自ら選んだその道をつらいとは思わない。事実、彼女と結婚する前はずっとひとりで耐えてきたわけだが、もはや今の自分にはこうやって肩の力が抜ける彼女との時間は必要不可欠だと思う。
となると。
昼間に頭に浮かび気にかかっていたあのことを、尚更申し訳なく思った。
くすくす笑う彼女の黒い髪を優しくかきあげて、隆之は彼女を覗き込んだ。
「由梨、君にしてやれることが少なくて、ごめん」
由梨が笑うのをやめて隆之を見た。
「もっとそばいたいんだが……」
「隆之さん」
由梨が、少し真剣な表情になって口を開いた。
「私、隆之さんにはもうたくさんのことをしてもらっています」
「由梨。君が俺のことを思ってそう言ってくれるのはありがたいが、君の我慢の上に成り立つ関係ではダメだろう」
眉を寄せてそう言うと、由梨は首を横に振る。そして少し語気を強めた。
「そうじゃありません。我慢して言ってるわけじゃないです。本心です。だって隆之さんは会社を守ってくれたでしょう?」
「由梨」
「家では隆之さんがいない時は秋元さんが大切にしてくれます。とっても心強いんです。それから会社に行けば楽しく働けて、皆親切にしてくれます。それってみんな、隆之さんのおかげなんです。隆之さんがあの時、会社を守ってくれたから、私がいる場所があるんです。今だって、北部物産は今井コンツェルが株主だということに代わりはないわ。隆之さんに横槍を入れてるんでしょう? そこから一生懸命に守ってくれている。直接してくれることが少なくても、私いつだって隆之に守られているって思っています」
「由梨……」
胸が熱くなって、うまく言葉が出てこなかった。
守られている、彼女はそう言うがそれだけではないだろう。彼女がいるから隆之は外で戦えるのだ。
由梨が隆之の手を取り頬を寄せた。
「もちろん、こうやって一緒にいられる時間もとっても嬉しいですけどね。ふふふ、それに朝ごはんも美味しいし……毎日今日はなにかなーって楽しみで、私最近ちゃんと起きられるようになったでしょう?」
「ああ」
頷いて彼女を抱き寄せると、由梨の香りが隆之の心に染み渡る。腕の中にあるかけがえのないふたつの存在が自分を強くするのだと実感した。
「わかった、ありがとう。じゃあこうやってふたりでいられる時にしてほしいことがあれば、なんでも言ってくれ」
黒い髪にキスを落としてそう言うと、由梨は目を輝かせて
「本当ですか?」
と言う。
「ああ、なにをしてほしい?」
問いかけると、彼女はふふふと笑って頬を染めた。
「私、隆之さんのホットミルクが飲みたいです」
隆之がリビングのドアを開けると由梨はダイニングに座り、熱心に紙に何かを書き込んでいる。
そばにはオレンジ色のファイルがあった。
隆之が帰ってきたことにも気がつかないでペンを走らせている彼女に、隆之はくすりと笑みを漏らす。
「ただいま」
なるべく驚かさないように柔らかく声をかけるが、無駄だったようだ。
「ひゃっ!」
と言って彼女はびくりと肩を揺らした。
「た、隆之さん、お、おかえりなさい」
「ん、ただいま。驚かすつもりはなかったんだけど。随分と熱中してるから」
細い腕で隠してるつもりかもしれないが、熱心に書き込んでいた資料には隠しきれない"沖縄"の文字。
物産展のことを彼女お手製の記録に残しているのだろう。
「なにか新しい発見でもあったのか?」
隆之は素知らぬフリで問いかける。
テーブルの上のオレンジ色のファイルが彼女の趣味である日本各地の食材をまとめたものだということは夫婦の共通の認識だ。
夫婦ふたりの時間に、彼女が持ち出して来て話をすることも多かった。
隆之の問いかけに、由梨はあわあわとして口を開いた。
「こ、これは、そのあの……!」
そこへ隆之は畳み掛ける。
「隠さなくてもいいよ。沖縄物産展に行ったんだろう?」
「え……ええ⁉︎ 隆之さんどうして知ってるんですか⁉︎」
由梨は目を白黒させている。
その様子に、隆之はくっくと笑った。
秘密にしていたことをズバリ指摘されて、慌てているのがおかしかった。
隆之と予定を合わせて夫婦ふたりで出かけるか、それとも隆之なしで物産展を楽しむのか。
つまり彼女は物産展を選んだのだ。
でもそれが後ろめたくて隆之に物産展へ行ったことを言えなかったのだろう。
こういう時、少し前の隆之ならもっとゆっくりといろいろな角度から彼女を責めて、もう少し困らせただろう。
自分でも悪趣味だとは思うが、そうやって彼女をからかうのが、案外隆之は好きなのだ。
場合によってはその後に、普段は自制している"邪(よこしま)な"自分の中の欲求をひとつかふたつきいてもらうよう彼女に仕向けたかもしれない。
なにせ……物産展に負けたのだから。
でもなんといっても、今彼女は身重なのだ。身体に負担をかけるわけにはいかない。
隆之はすぐに種あかしをした。
「今日、百貨店のテーラーに来てもらったんだ。それで物産展の話を聞いた。由梨が行った日が最終日だって話だったから、ああ、あの時由梨が俺と一緒じゃなくていいと言ったのは、物産展に行きたかったからなんだなと気が付いたんだ」
とはいえ隆之としては少し安堵してもいた。
自分のせいで由梨の楽しみがひとつなくらなくてよかった。
彼女が物産展を楽しめたこと自体はよかったと思う。
一方で隆之の説明を聞きながら由梨はみるみるしぼんでゆく。
うつむいてしょんぼりとしてしまった。
「ごめんなさい、隆之さん」
「謝る必要はないよ。言いにくかったんだろう? 俺と買い物に行くよりも、物産展の方に行きたかったって。くくく」
言いながらまた笑いが込み上げてくる。
彼女のこういうところが可愛くて愛おしくてたまらなかった。
本当は物産展のことを彼女が黙っていたと知った時は、少しだけ胸が騒いだ。
彼女にとって隆之へのはじめての隠し事だったからだ。
どんな理由なんだろうと不安に思ったのも事実だ。
でも蓋を開けてみれば、やっぱり由梨は由梨だった。
物産展に行きたくてたまらない、でもそれを隆之には言えなかった。だから秋元からの申し出にこれ幸いと乗っかってはみたものの、後ろめたくては行ったことを隆之には言えなかった。
でもやっぱり行ったことの記録はちゃんと残しておきたいと夢中になってペンを走らせている…。
「ごめんなさい」
しょげる由梨をよそに隆之は笑い続ける。
「くくく、ごめん。おかしくて、笑いが止まらない」
そして由梨の隣の席に腰掛けて彼女の頭を優しく撫でた。
「本当に謝らなくていいよ。でも言ってくれればよかったのに」
すると彼女は上目遣いに隆之を見て、少し考えてから口を開いた。
「だって……。言ったら隆之さん、私に対してすごく申し訳ない気持ちになったでしょう? 行けなくなったのは仕事のせいなんだから仕方がないのに」
「……なるほど。俺の気持ちを考えてくれたのか」
確認するようにそう言うと、由梨はこくんと頷いた。
「秋元さんが一緒に行ってくれるって聞いた時は、ありがたかったです。……やっぱり、物産展にも行きたかったし。でも帰ってきてよく考えてみたら……」
と、そこで由梨は言葉を切って、くすくすと笑い出した。
「私、隆之さんよりも物産展を選んだんじゃない?って思ったら、言えなくなっちゃったんです。ふふふ、ごめんなさい」
つまりは隆之が考えていたよりも、もう少し由梨の心の中は複雑で、彼女は隆之のことを思いやってくれていたわけだ。
目の前でくすくす笑う彼女に隆之の胸は温かくなる。
隆之はこの屋敷を一歩出れば、常に重要な決断を迫られるという立場にいて、重圧を背負っている。
自ら選んだその道をつらいとは思わない。事実、彼女と結婚する前はずっとひとりで耐えてきたわけだが、もはや今の自分にはこうやって肩の力が抜ける彼女との時間は必要不可欠だと思う。
となると。
昼間に頭に浮かび気にかかっていたあのことを、尚更申し訳なく思った。
くすくす笑う彼女の黒い髪を優しくかきあげて、隆之は彼女を覗き込んだ。
「由梨、君にしてやれることが少なくて、ごめん」
由梨が笑うのをやめて隆之を見た。
「もっとそばいたいんだが……」
「隆之さん」
由梨が、少し真剣な表情になって口を開いた。
「私、隆之さんにはもうたくさんのことをしてもらっています」
「由梨。君が俺のことを思ってそう言ってくれるのはありがたいが、君の我慢の上に成り立つ関係ではダメだろう」
眉を寄せてそう言うと、由梨は首を横に振る。そして少し語気を強めた。
「そうじゃありません。我慢して言ってるわけじゃないです。本心です。だって隆之さんは会社を守ってくれたでしょう?」
「由梨」
「家では隆之さんがいない時は秋元さんが大切にしてくれます。とっても心強いんです。それから会社に行けば楽しく働けて、皆親切にしてくれます。それってみんな、隆之さんのおかげなんです。隆之さんがあの時、会社を守ってくれたから、私がいる場所があるんです。今だって、北部物産は今井コンツェルが株主だということに代わりはないわ。隆之さんに横槍を入れてるんでしょう? そこから一生懸命に守ってくれている。直接してくれることが少なくても、私いつだって隆之に守られているって思っています」
「由梨……」
胸が熱くなって、うまく言葉が出てこなかった。
守られている、彼女はそう言うがそれだけではないだろう。彼女がいるから隆之は外で戦えるのだ。
由梨が隆之の手を取り頬を寄せた。
「もちろん、こうやって一緒にいられる時間もとっても嬉しいですけどね。ふふふ、それに朝ごはんも美味しいし……毎日今日はなにかなーって楽しみで、私最近ちゃんと起きられるようになったでしょう?」
「ああ」
頷いて彼女を抱き寄せると、由梨の香りが隆之の心に染み渡る。腕の中にあるかけがえのないふたつの存在が自分を強くするのだと実感した。
「わかった、ありがとう。じゃあこうやってふたりでいられる時にしてほしいことがあれば、なんでも言ってくれ」
黒い髪にキスを落としてそう言うと、由梨は目を輝かせて
「本当ですか?」
と言う。
「ああ、なにをしてほしい?」
問いかけると、彼女はふふふと笑って頬を染めた。
「私、隆之さんのホットミルクが飲みたいです」