政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
隆之の企み
大きな窓の向こうに雪国の夜景が浮かんでいる。
会社からほど近いホテルの最上階にある和食料理店の個室で由梨は隆之を待っている。
老舗料亭の支店であるこの店は、立地がいいからよく接待などで使われる。
それこそ隆之などしょっちゅう来ているはず。でも由梨自身が訪れるのははじめてだった。
今由梨がいるこの和室はおそらく特別な部屋なのだろう。
このまま泊まれるのではないかと思うほど十分な広さがあり、前室までついているから、訪れた客はゆったりとリラックスして食事をすることができるのだ。
でも今、由梨は少しソワソワした気持ちで彼を待っていた。
《夕食は外で食べないか?》というメッセージが隆之から届いたのが、今日のお昼休みだった。
特に残業しなくてはならないような急ぎの案件を抱えていない由梨は、それを了承した。すると指定されたのがこの店だったのだ。
もちろん財閥の家系に生まれた由梨だから、このように高級な店に来たことくらいはある。
ただ特別な記念日というわけでもないのにここまで高級な店で夫婦で外食しようという彼の意図がわからなくて少し不安だった。
その彼からは、ついさっき会社を出たというメッセージが来たから、もうすぐ着く頃だろう。
ちょうどその時、前室から人の気配がして、開いた襖の先に店員に案内されて隆之が現れた。
「遅れてごめん」
彼はそう言って、ジャケットを脱ぎ、由梨の向かいの席に腰を下ろす。そして「おつかれさま」と言って微笑んだ。
「おつかれさまです」
頬が熱くなるのを感じながら由梨は答えた。
今更だ、と自分でも思う。
彼のスーツ姿など見慣れている。それでもまだどこかオフィスの空気感をまとっている彼と会社帰りに待ち合わせをするというはじめてのシチュエーションにドキドキと胸が高鳴った。
料理についてはあらかじめお願いしてあったようで、すぐに運ばれてくる。
飲み物と前菜を並べ終えた中居が出て行ったところで、緊張気味の由梨に隆之が気がついた。
「どうかした?」
由梨は遠慮がちに口を開いた。
「……あの、今日は急にどうしたんですか? 突然外食しようって……」
外食自体を不思議に思ったわけではない。夫婦ならこういうことは珍しくないだろう。でもそれにしてもこんなに特別な部屋でというのはなんとなく不可解で不安だった。
まだ実家にいた頃のくせだろうか、改まった席といえば、なにか自分についてよくない決定を告げられるという気がしてしまう。
不安な気持ちを隠しきれずに由梨は彼に問いかける。
「どうしてわざわざこんな個室で……?」
すると彼は少し意外そうに瞬きをして、由梨を安心させるように微笑んだ。
「今夜予定が一件キャンセルになったから、せっかくなら外で食事でもと思っただけだ。由梨がゆっくりできるように個室にしたんだけど」
「あ……そうなんですね」
由梨はホッと息を吐いて納得した。
せっかくなら外で食事でも、という思いつきに使うにしては店が高級すぎると思ったけれど、どうやら考えすぎだったようだ。
「ここの料理は由梨も気に入ると思うよ。一度連れて来たいと思っていたんだ」
そう言って彼は箸を取る。
「そうなんですね。確かにとっても美味しそう」
由梨もすっかり安心して手を合わせ、ふたりゆっくりと料理を楽しんだ。
そして、デザートを運んできた中居が下がっていったのを見届けた後、不意に隆之が思い出したように口を開いた。
「そういえば、今日長坂と西野さんと一緒に昼休憩を過ごしただろう」
「はい、久しぶりに社食で。おふたりから聞いたんですか?」
「ああ、ふたりも一緒に社食に行くのは随分久しぶりだと言って嬉しそうに秘書室を出ていったよ」
由梨はふふふと笑みを漏らした。
「そうなんです。企画課は外出が多いですから。他の課と一緒にランチはなかなか……でも妊娠してから、外出は減らしてもらっていますし、今日はふたりから渡したい物があるからって誘われ……」
とそこで、由梨は口を閉じる。
隆之が首を傾げた。
「渡したいもの?」
すかさず尋ねられて、由梨は気まずい思いで彼から目を逸らした。
「なにかもらったのか?」
重ねて問いかけられてもすぐには答えられない。
ちらりと隆之を見ると眉を上げていたずらっぽい笑みを浮かべていた。その表情に、由梨は彼がすでにお見通しだと確信する。
「……隆之さん、知ってるんですね? 私がなにをもらったか」
今日の昼休み、一緒にランチをした際に由梨はふたりからプレゼントだとある雑誌を渡された。表紙には特集記事のタイトル。
『産後クライシスを乗り越えるために』
付箋に書かれたふたりからのアドバイス付きだ。
『この雑誌、私毎号買ってるんだけど、時々私にはまったく関係ない特集の時があるのよね。せっかくだから関係ありそうな人に』
『あ、ありがとうございます……』
『前回のプレゼントはお役に立ちました? 由梨先輩』
『……』
……もちろんふたりの気持ちはありがたい。けれど前回ふたりにアドバイス付きの雑誌をもらった時は、彼に見つかって随分と大変な目にあったのだ。
だから今回は絶対に彼に見つからないようにこっそり読もうと思っていたのに。
「……おふたりから聞いたんですか?」
尋ねると隆之は首を横に振った。
「いや、ただ数日前に長坂の机の上に雑誌が置いてあったのは目撃した。表紙に由梨へっていうメッセージの付箋が貼ってあったから今日もらったんだと思っただけだよ」
「そうですか……」
当然特集記事のタイトルも見ただろうと思い由梨は気まずい気持ちになった。
産後クライシス。
まだざっとしか読んでいないから由梨も詳しくは知らないが、子供が産まれることによって生じる変化に、夫婦関係が悪化することをいうようだ。
「俺にも見せてくれる?」
隆之はそう言って立ち上がる。そして机を回り込み由梨の隣へ腰を下し、由梨を抱き寄せた。
「た、隆之さん⁉︎」
あっというまに腕の中に閉じ込められてしまい由梨はドギマギして声をあげる。同時に前室へ続く襖に視線を送った。
デザートは済んだから、中居が次の料理を持ってくることはないけれど、いつ来てもおかしくはない状況だ。
すると由梨の視線の先に気がついた隆之が口を開いた。
「大丈夫だ。呼ぶまでは誰も来ないように言ってある」
「え……ええ⁉︎」
「ここの部屋は多少の融通がきくんだよ」
そう言って彼は実に楽しげに微笑んだ。
「で? 記事はどうだったんだ? 読んでみたら出産前に俺に言っておきたいことがたくさんできたんじゃないか?」
その問いかけに由梨はブンブンと首を横に振った。
「な、なにも……!」
隆之が疑わしげに目を細める。
「本当です!」
実際のところ、子供が産まれてからのことは想像でしかわからないのだから、そうなってみなくてはなんともいえない。だから彼に言っておきたいことなどなにもなかった。
でもそこで、ひとつだけ気になることが頭に浮かび由梨は視線を彷徨わせる。それに隆之がめざとく気がついた。
「由梨?」
うつむいて、由梨は少し考える。そして迷いながら口を開いた。
「言いたいことなんてなにもありません。でも……隆之さんの方には、あるのかもって思いました」
「俺の方に?」
「はい。隆之さん……我慢してることないですか?」
産後クライシスというタイトルの記事を読んでの由梨の感想は、お互いに思いやりが大切なのだということだった。人生がガラリと変わる時なのだ。
ぶつかり合いや、すれ違いはあるだろう。それでも相手を思いやり行動することで乗り越えられることも多いはず。
やや赤裸々に書かれた記事の内容はまだまだ実感できることは少なかったけれど、一点だけ今自分が反省すべき点を見つけたのだ。
つまり記事で指摘されていたのは、妊娠中あるいは産後の夫婦生活についてだった。
当然妊娠前と同じようにというわけにはいかなくなる。それに関して夫側にフラストレーションが溜まっているかもしれないという指摘だった。
もちろんだからといって妻側が無理をする必要はない。妻の心と身体が第一だと記事には書いてあった。
でも夫側の欲求はそもそも愛情からくるものなのだということを心に留めておくべきで、間違っても、冷たくしたり馬鹿にしたりはしないように、と書いてあったのだ。
耳が痛い話だった。
もちろん由梨は隆之に冷たくしたり、馬鹿にしたりはしていない。でもそれはそういうシチュエーションにならなかったからだ。
妊娠してからの隆之は、由梨にそういうことを求めなくなった。抱きしめたりキスしたり、スキンシップはしょっちゅうだが、その先を予感させるような触れ合いはない。
眠くなったり体力が落ちたりした由梨の体調を慮ってくれたのだろう。
だから由梨は今までそのことについて、深く考えてはこなかった。考える必要がなかったのだ。
でも改めて思い返してみると、配慮が足りなかったかもしれないと反省したのだ。
由梨はうつむいて言葉を続ける。
「私が妊娠したことで……その……いろいろ……できなくなったこともあったりして……」
最後の方はごにょごにょと言う。
さすがに具体的なことまでは言えなかった。でもそれで、彼には言いたいことが伝わったようだ。フッと笑みを漏らして「今さらだな」と呟いた。
「え? 今さら?」
少し意外な彼の答えに由梨は目をパチパチさせる。
隆之が頷いた。
「確かに今は、由梨の体調を考えて抱くのは控えている。由梨も不安だろうし、俺自身もはじめての経験だから万が一にでもなにかあったらと思うと、怖いからね。でもそれを不満に思ったりはしていない」
由梨が言いたかったことを、躊躇なく言葉にする隆之に、由梨の頬が熱くなる。
隆之が肩をすくめた。
「そもそも俺からしてみれば、由梨との付き合いは、はじめからずっと我慢の連続だ。つまり、慣れているんだな」
「え? 我慢の連続……⁉︎」
由梨は目を丸くした。
いったい自分は彼になにをしてしまったのだろうと急に不安になってしまう。
その由梨を見下ろして、隆之がやや大袈裟にため息をついた。
「君が入社してから結婚にこぎつけるまで、五年も待ったんだ。俺はかなり早い段階で君を好きになっていたが、流石に役員が新入社員に手を出すわけにはいかないからね。しかも結婚してからも、君の気持ちが追いつくまで随分と待った。俺から言わせれば、由梨との付き合いイコール忍耐だ」
そう言って、くっくと肩を揺らして笑っている。
「ななななんですか、それ……!」
彼の言葉に由梨は頬を膨らませた。
「本当のことだろう?」
「でも……!」
「だからそれについて今さら不安になる必要はないってことだよ」
笑いながら安心させるように隆之は言う。
その笑顔に由梨の中の不安が和らいで、心外だという気分もなくなっていった。
「……本当ですか?」
確認するように問いかけると、彼は「ああ」と力強く頷いた。
由梨は安心してホッと息を吐いた。
彼に我慢させてるかもしれないと思うと不安になって思わず口にしたけれど、だからといって不満だと言われても困ると思っていたからだ。
はじめての妊娠、それについて気軽に相談できる人が思い当たらない状況では、彼からの欲求に応える自信はない。
「よかった」
でもそこで由梨の顎に隆之の手が添えられる。不思議に思って見上げると、彼があの瞳で由梨を見つめている。
「隆之さん……?」
狼の群れの頂点に立つアルファの瞳。
この瞳に見つめられると、いつだって由梨の心と身体はひとりでに熱くなる。
「あの……」
戸惑い由梨は問いかける。
たった今、口にした言葉と真逆の行動のように思えたからだ。
隆之が口を開いた。
「ただ、なにもなしではキツくなってきたのも事実だ。あの頃とは違って、もう俺は由梨を知っているからね。君の唇と身体を……」
そう言う彼の親指が、由梨の唇をゆっくり辿る。
背中を甘い痺れが駆け抜けた。
「少しだけだ、危ないことはなにもしない」
「え? 隆之さん……? 少しだけって……」
どう意味ですかと尋ねようとする由梨の唇は、隆之の唇によって塞がれた。
「ん……!」
キスは、毎朝毎晩だ。
でもこんな風に"その先"を予感させられるような触れ方は妊娠して以来はじめてのことだった。
久しぶりの感覚に、由梨の身体は過剰反応してしまう。そしてその自分の反応に、我慢していたのは彼だけではなかったのだということに気がついた。
妊娠してからの彼はこれ以上ないくらいに由梨に優しくしてくれる。
それはとても嬉しいけれど本当はこんな風に触れてほしかった。まったくそれがないことに物足りなさを感じてた。
少し息苦しく感じた頃、ほんの少しだけ唇が離れる。すぐそばにある眼差しに獰猛な捕食者の色が浮かんでいる。
「由梨……まだだ」
そしてまた食べれるかのような口づけが開始する。
「……もう一度」
「ん……!」
「ほら口を開けて」
静かな部屋を、ふたりの荒い息遣いが秘密めいた色に染め上げていく。
ようやく解放された時には、由梨の身体の力は全部抜けて、くたりと彼の腕にもたれかかっていた。
すっかり火照った由梨の頬を隆之が優しく撫でる。
「ん。これでまたしばらくはもちそうだ」
「隆之さんったら……」
満足そうに微笑む彼に、由梨は力なく反論する。
「こんなところで、こんなこと……」
呼ぶまで来ないでと頼んであるといえあくまでもここは家の外。プライベート空間ではないのだ。それなのに、こんな濃厚なキスを交わしてしまったのが恥ずかしい。
隆之がニヤリと笑みを浮かべた。
「だからこそだ」
「……え?」
「こんな場所だからこそ、ここまでで踏みとどまれるんだ。家だったらどうなっていたか」
「隆之さん……?」
首を傾げる由梨を楽しげに見下ろして、隆之が種明かしのような言葉を口にする。
「ここの部屋、独立してるから人に聞かれたくない商談をするのに便利なんだ。よく利用するんだけど、こんな使い方もできるとはね」
そう言ってまたくっくと笑うものだから、由梨は心の底から呆れてしまう。
わざわざ個室を予約して彼がここへ由梨を呼び出したのには、やっぱり目的があったのだ。
つまり、いつもより長くて深いキスをするという……。
「もう……」
頬を膨らませて由梨は彼を睨む。でもそれ以上の文句は口から出てこなかった。
「我慢するのには慣れているが、家であそこまでして踏みとどまれる自信がなかったんだ」
悪びれることもなく彼は言う。
それを由梨は憎らしい気持ちで見つめていた。
好きなようにキスをして、しかもそこで踏みとどまれたことに彼は満足している。
でも由梨の方は……。
久しぶりに感じた彼の熱と、あの瞳に見つめられたことで、完全に心と身体に火がつけられてしまっている。その熱がなかなか引いてくれなくて困惑していた。
「由梨、そろそろ帰ろうか」
まだ熱い頬に手を当ててどこかわざとらしく隆之が言う。その感覚にすら由梨は反応してしまいそうだった。
そしてきっと彼は由梨のこの気持ちもお見通しなのだ。
「隆之さんたら……」
まだ少しぼんやりとしたまま由梨は呟く。視線の先で隆之がくすりと笑みを漏らした。
「俺ばっかり我慢するのは、フェアじゃないだろう?」
会社からほど近いホテルの最上階にある和食料理店の個室で由梨は隆之を待っている。
老舗料亭の支店であるこの店は、立地がいいからよく接待などで使われる。
それこそ隆之などしょっちゅう来ているはず。でも由梨自身が訪れるのははじめてだった。
今由梨がいるこの和室はおそらく特別な部屋なのだろう。
このまま泊まれるのではないかと思うほど十分な広さがあり、前室までついているから、訪れた客はゆったりとリラックスして食事をすることができるのだ。
でも今、由梨は少しソワソワした気持ちで彼を待っていた。
《夕食は外で食べないか?》というメッセージが隆之から届いたのが、今日のお昼休みだった。
特に残業しなくてはならないような急ぎの案件を抱えていない由梨は、それを了承した。すると指定されたのがこの店だったのだ。
もちろん財閥の家系に生まれた由梨だから、このように高級な店に来たことくらいはある。
ただ特別な記念日というわけでもないのにここまで高級な店で夫婦で外食しようという彼の意図がわからなくて少し不安だった。
その彼からは、ついさっき会社を出たというメッセージが来たから、もうすぐ着く頃だろう。
ちょうどその時、前室から人の気配がして、開いた襖の先に店員に案内されて隆之が現れた。
「遅れてごめん」
彼はそう言って、ジャケットを脱ぎ、由梨の向かいの席に腰を下ろす。そして「おつかれさま」と言って微笑んだ。
「おつかれさまです」
頬が熱くなるのを感じながら由梨は答えた。
今更だ、と自分でも思う。
彼のスーツ姿など見慣れている。それでもまだどこかオフィスの空気感をまとっている彼と会社帰りに待ち合わせをするというはじめてのシチュエーションにドキドキと胸が高鳴った。
料理についてはあらかじめお願いしてあったようで、すぐに運ばれてくる。
飲み物と前菜を並べ終えた中居が出て行ったところで、緊張気味の由梨に隆之が気がついた。
「どうかした?」
由梨は遠慮がちに口を開いた。
「……あの、今日は急にどうしたんですか? 突然外食しようって……」
外食自体を不思議に思ったわけではない。夫婦ならこういうことは珍しくないだろう。でもそれにしてもこんなに特別な部屋でというのはなんとなく不可解で不安だった。
まだ実家にいた頃のくせだろうか、改まった席といえば、なにか自分についてよくない決定を告げられるという気がしてしまう。
不安な気持ちを隠しきれずに由梨は彼に問いかける。
「どうしてわざわざこんな個室で……?」
すると彼は少し意外そうに瞬きをして、由梨を安心させるように微笑んだ。
「今夜予定が一件キャンセルになったから、せっかくなら外で食事でもと思っただけだ。由梨がゆっくりできるように個室にしたんだけど」
「あ……そうなんですね」
由梨はホッと息を吐いて納得した。
せっかくなら外で食事でも、という思いつきに使うにしては店が高級すぎると思ったけれど、どうやら考えすぎだったようだ。
「ここの料理は由梨も気に入ると思うよ。一度連れて来たいと思っていたんだ」
そう言って彼は箸を取る。
「そうなんですね。確かにとっても美味しそう」
由梨もすっかり安心して手を合わせ、ふたりゆっくりと料理を楽しんだ。
そして、デザートを運んできた中居が下がっていったのを見届けた後、不意に隆之が思い出したように口を開いた。
「そういえば、今日長坂と西野さんと一緒に昼休憩を過ごしただろう」
「はい、久しぶりに社食で。おふたりから聞いたんですか?」
「ああ、ふたりも一緒に社食に行くのは随分久しぶりだと言って嬉しそうに秘書室を出ていったよ」
由梨はふふふと笑みを漏らした。
「そうなんです。企画課は外出が多いですから。他の課と一緒にランチはなかなか……でも妊娠してから、外出は減らしてもらっていますし、今日はふたりから渡したい物があるからって誘われ……」
とそこで、由梨は口を閉じる。
隆之が首を傾げた。
「渡したいもの?」
すかさず尋ねられて、由梨は気まずい思いで彼から目を逸らした。
「なにかもらったのか?」
重ねて問いかけられてもすぐには答えられない。
ちらりと隆之を見ると眉を上げていたずらっぽい笑みを浮かべていた。その表情に、由梨は彼がすでにお見通しだと確信する。
「……隆之さん、知ってるんですね? 私がなにをもらったか」
今日の昼休み、一緒にランチをした際に由梨はふたりからプレゼントだとある雑誌を渡された。表紙には特集記事のタイトル。
『産後クライシスを乗り越えるために』
付箋に書かれたふたりからのアドバイス付きだ。
『この雑誌、私毎号買ってるんだけど、時々私にはまったく関係ない特集の時があるのよね。せっかくだから関係ありそうな人に』
『あ、ありがとうございます……』
『前回のプレゼントはお役に立ちました? 由梨先輩』
『……』
……もちろんふたりの気持ちはありがたい。けれど前回ふたりにアドバイス付きの雑誌をもらった時は、彼に見つかって随分と大変な目にあったのだ。
だから今回は絶対に彼に見つからないようにこっそり読もうと思っていたのに。
「……おふたりから聞いたんですか?」
尋ねると隆之は首を横に振った。
「いや、ただ数日前に長坂の机の上に雑誌が置いてあったのは目撃した。表紙に由梨へっていうメッセージの付箋が貼ってあったから今日もらったんだと思っただけだよ」
「そうですか……」
当然特集記事のタイトルも見ただろうと思い由梨は気まずい気持ちになった。
産後クライシス。
まだざっとしか読んでいないから由梨も詳しくは知らないが、子供が産まれることによって生じる変化に、夫婦関係が悪化することをいうようだ。
「俺にも見せてくれる?」
隆之はそう言って立ち上がる。そして机を回り込み由梨の隣へ腰を下し、由梨を抱き寄せた。
「た、隆之さん⁉︎」
あっというまに腕の中に閉じ込められてしまい由梨はドギマギして声をあげる。同時に前室へ続く襖に視線を送った。
デザートは済んだから、中居が次の料理を持ってくることはないけれど、いつ来てもおかしくはない状況だ。
すると由梨の視線の先に気がついた隆之が口を開いた。
「大丈夫だ。呼ぶまでは誰も来ないように言ってある」
「え……ええ⁉︎」
「ここの部屋は多少の融通がきくんだよ」
そう言って彼は実に楽しげに微笑んだ。
「で? 記事はどうだったんだ? 読んでみたら出産前に俺に言っておきたいことがたくさんできたんじゃないか?」
その問いかけに由梨はブンブンと首を横に振った。
「な、なにも……!」
隆之が疑わしげに目を細める。
「本当です!」
実際のところ、子供が産まれてからのことは想像でしかわからないのだから、そうなってみなくてはなんともいえない。だから彼に言っておきたいことなどなにもなかった。
でもそこで、ひとつだけ気になることが頭に浮かび由梨は視線を彷徨わせる。それに隆之がめざとく気がついた。
「由梨?」
うつむいて、由梨は少し考える。そして迷いながら口を開いた。
「言いたいことなんてなにもありません。でも……隆之さんの方には、あるのかもって思いました」
「俺の方に?」
「はい。隆之さん……我慢してることないですか?」
産後クライシスというタイトルの記事を読んでの由梨の感想は、お互いに思いやりが大切なのだということだった。人生がガラリと変わる時なのだ。
ぶつかり合いや、すれ違いはあるだろう。それでも相手を思いやり行動することで乗り越えられることも多いはず。
やや赤裸々に書かれた記事の内容はまだまだ実感できることは少なかったけれど、一点だけ今自分が反省すべき点を見つけたのだ。
つまり記事で指摘されていたのは、妊娠中あるいは産後の夫婦生活についてだった。
当然妊娠前と同じようにというわけにはいかなくなる。それに関して夫側にフラストレーションが溜まっているかもしれないという指摘だった。
もちろんだからといって妻側が無理をする必要はない。妻の心と身体が第一だと記事には書いてあった。
でも夫側の欲求はそもそも愛情からくるものなのだということを心に留めておくべきで、間違っても、冷たくしたり馬鹿にしたりはしないように、と書いてあったのだ。
耳が痛い話だった。
もちろん由梨は隆之に冷たくしたり、馬鹿にしたりはしていない。でもそれはそういうシチュエーションにならなかったからだ。
妊娠してからの隆之は、由梨にそういうことを求めなくなった。抱きしめたりキスしたり、スキンシップはしょっちゅうだが、その先を予感させるような触れ合いはない。
眠くなったり体力が落ちたりした由梨の体調を慮ってくれたのだろう。
だから由梨は今までそのことについて、深く考えてはこなかった。考える必要がなかったのだ。
でも改めて思い返してみると、配慮が足りなかったかもしれないと反省したのだ。
由梨はうつむいて言葉を続ける。
「私が妊娠したことで……その……いろいろ……できなくなったこともあったりして……」
最後の方はごにょごにょと言う。
さすがに具体的なことまでは言えなかった。でもそれで、彼には言いたいことが伝わったようだ。フッと笑みを漏らして「今さらだな」と呟いた。
「え? 今さら?」
少し意外な彼の答えに由梨は目をパチパチさせる。
隆之が頷いた。
「確かに今は、由梨の体調を考えて抱くのは控えている。由梨も不安だろうし、俺自身もはじめての経験だから万が一にでもなにかあったらと思うと、怖いからね。でもそれを不満に思ったりはしていない」
由梨が言いたかったことを、躊躇なく言葉にする隆之に、由梨の頬が熱くなる。
隆之が肩をすくめた。
「そもそも俺からしてみれば、由梨との付き合いは、はじめからずっと我慢の連続だ。つまり、慣れているんだな」
「え? 我慢の連続……⁉︎」
由梨は目を丸くした。
いったい自分は彼になにをしてしまったのだろうと急に不安になってしまう。
その由梨を見下ろして、隆之がやや大袈裟にため息をついた。
「君が入社してから結婚にこぎつけるまで、五年も待ったんだ。俺はかなり早い段階で君を好きになっていたが、流石に役員が新入社員に手を出すわけにはいかないからね。しかも結婚してからも、君の気持ちが追いつくまで随分と待った。俺から言わせれば、由梨との付き合いイコール忍耐だ」
そう言って、くっくと肩を揺らして笑っている。
「ななななんですか、それ……!」
彼の言葉に由梨は頬を膨らませた。
「本当のことだろう?」
「でも……!」
「だからそれについて今さら不安になる必要はないってことだよ」
笑いながら安心させるように隆之は言う。
その笑顔に由梨の中の不安が和らいで、心外だという気分もなくなっていった。
「……本当ですか?」
確認するように問いかけると、彼は「ああ」と力強く頷いた。
由梨は安心してホッと息を吐いた。
彼に我慢させてるかもしれないと思うと不安になって思わず口にしたけれど、だからといって不満だと言われても困ると思っていたからだ。
はじめての妊娠、それについて気軽に相談できる人が思い当たらない状況では、彼からの欲求に応える自信はない。
「よかった」
でもそこで由梨の顎に隆之の手が添えられる。不思議に思って見上げると、彼があの瞳で由梨を見つめている。
「隆之さん……?」
狼の群れの頂点に立つアルファの瞳。
この瞳に見つめられると、いつだって由梨の心と身体はひとりでに熱くなる。
「あの……」
戸惑い由梨は問いかける。
たった今、口にした言葉と真逆の行動のように思えたからだ。
隆之が口を開いた。
「ただ、なにもなしではキツくなってきたのも事実だ。あの頃とは違って、もう俺は由梨を知っているからね。君の唇と身体を……」
そう言う彼の親指が、由梨の唇をゆっくり辿る。
背中を甘い痺れが駆け抜けた。
「少しだけだ、危ないことはなにもしない」
「え? 隆之さん……? 少しだけって……」
どう意味ですかと尋ねようとする由梨の唇は、隆之の唇によって塞がれた。
「ん……!」
キスは、毎朝毎晩だ。
でもこんな風に"その先"を予感させられるような触れ方は妊娠して以来はじめてのことだった。
久しぶりの感覚に、由梨の身体は過剰反応してしまう。そしてその自分の反応に、我慢していたのは彼だけではなかったのだということに気がついた。
妊娠してからの彼はこれ以上ないくらいに由梨に優しくしてくれる。
それはとても嬉しいけれど本当はこんな風に触れてほしかった。まったくそれがないことに物足りなさを感じてた。
少し息苦しく感じた頃、ほんの少しだけ唇が離れる。すぐそばにある眼差しに獰猛な捕食者の色が浮かんでいる。
「由梨……まだだ」
そしてまた食べれるかのような口づけが開始する。
「……もう一度」
「ん……!」
「ほら口を開けて」
静かな部屋を、ふたりの荒い息遣いが秘密めいた色に染め上げていく。
ようやく解放された時には、由梨の身体の力は全部抜けて、くたりと彼の腕にもたれかかっていた。
すっかり火照った由梨の頬を隆之が優しく撫でる。
「ん。これでまたしばらくはもちそうだ」
「隆之さんったら……」
満足そうに微笑む彼に、由梨は力なく反論する。
「こんなところで、こんなこと……」
呼ぶまで来ないでと頼んであるといえあくまでもここは家の外。プライベート空間ではないのだ。それなのに、こんな濃厚なキスを交わしてしまったのが恥ずかしい。
隆之がニヤリと笑みを浮かべた。
「だからこそだ」
「……え?」
「こんな場所だからこそ、ここまでで踏みとどまれるんだ。家だったらどうなっていたか」
「隆之さん……?」
首を傾げる由梨を楽しげに見下ろして、隆之が種明かしのような言葉を口にする。
「ここの部屋、独立してるから人に聞かれたくない商談をするのに便利なんだ。よく利用するんだけど、こんな使い方もできるとはね」
そう言ってまたくっくと笑うものだから、由梨は心の底から呆れてしまう。
わざわざ個室を予約して彼がここへ由梨を呼び出したのには、やっぱり目的があったのだ。
つまり、いつもより長くて深いキスをするという……。
「もう……」
頬を膨らませて由梨は彼を睨む。でもそれ以上の文句は口から出てこなかった。
「我慢するのには慣れているが、家であそこまでして踏みとどまれる自信がなかったんだ」
悪びれることもなく彼は言う。
それを由梨は憎らしい気持ちで見つめていた。
好きなようにキスをして、しかもそこで踏みとどまれたことに彼は満足している。
でも由梨の方は……。
久しぶりに感じた彼の熱と、あの瞳に見つめられたことで、完全に心と身体に火がつけられてしまっている。その熱がなかなか引いてくれなくて困惑していた。
「由梨、そろそろ帰ろうか」
まだ熱い頬に手を当ててどこかわざとらしく隆之が言う。その感覚にすら由梨は反応してしまいそうだった。
そしてきっと彼は由梨のこの気持ちもお見通しなのだ。
「隆之さんたら……」
まだ少しぼんやりとしたまま由梨は呟く。視線の先で隆之がくすりと笑みを漏らした。
「俺ばっかり我慢するのは、フェアじゃないだろう?」