政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
遠い日の記憶
父が亡くなったのは、風が強い秋の日だった。

始まりは、当たり前の風邪をこじらせたこと。
次第にひどくなる咳に、肺炎だと診断されて慌ただしく入院した。

……そしてその二日後に。

あっという間の出来事だった。
もともと身体の強い人ではなかったけれど、なによりも父の身体を弱らせたのは、長年の不摂生と本人の気力がなかったからだと由梨は思う。
この地を嫌い、一族を恨み。

可愛がってもらった記憶は、遥か昔、由梨がまだ小さかった頃で終わっている。
それでも巨大な旧家の中で、冷遇されている者同士、お互いに身を寄せ合って生きてきた。

その父がいなくなった今、由梨は言いようのない心細さに襲われている。

「由梨さま、お昼ご飯のご準備が整いました」

本家から派遣されている住み込みの家政婦が、リビングにいる由梨を呼びにくる。
窓際に立ちざわざわと風になびく庭の木々を見つめていた由梨は振り返り彼女に答えた。

「今行きます」

家政婦は無表情で頭を下げて去っていった。
由梨は鉛のように重い身体を引きずるようにして食堂へ向かう。

父の告別式は本家から来た親戚たちの采配で滞りなく営まれた。
一昨日ですべての日程が終わり、本家から来た親戚もスタッフも皆東京へ帰ったから、この大きな屋敷には彼女と由梨だけである。

戻った日常。

でも確実になにかが欠けている。
父はもういないのに、当たり前のように太陽が昇りいつも通りの朝が来ることが、由梨には不思議でたまらなかった。

食堂に準備されていた味のしない食事を機械的に口に運ぶ。
食欲はまったくなかったけれど、なにがしていないとどうにかなってしまいそうだった。

とそこで、由梨はあることを思い出し、カーディガンのポケットから携帯を出す。
画面にメールの受信を知らせるメッセージが表示されている。
由梨が所属している秘書室の室長、蜂須賀からだ。

今朝、由梨から送ったメールの返信である。
父の死亡に関して準備してほしいと言われていたいくつかの書類が準備できたとメッセージを送ったのだ。

慌ただしい時に申し訳ないと何度も詫びる文面から、父親を失ったばかりの由梨に対しての優しさが滲み出ていた。

先立って送ったメッセージで、由梨は書類について"急ぐようなら明日にでも会社の方へ届ける"と伝えた。
明日も休みをもらっているが、告別式が終わった今、特にやることはないからだ。

それに対する蜂須賀の返信を読み進めて、由梨は「え」と声を漏らす。

"それには及ばない。副社長が今日の外出の帰りに屋敷に取りに行く"

とあったからだ。

家をあける等、都合が悪ければおしえてほしいとも書いてある。

副社長とは、名ばかりの社長であった父に代わり実質的に会社を動かしている加賀隆之のことだ。
この地域に根ざしたたくさんの企業をとりまとめる名家加賀家の御曹司だ。

そんな彼に使いのようなことをさせるわけにいかないと、由梨は慌てて断りのメッセージを入れようとする。
でもメッセージを受け取った時間と、メッセージの中にある大体の彼の到着時刻を見て断念した。

今からだと、もうまもなく着くという時間だ。
断ると却って迷惑になってしまう。

由梨は慌てて食事を食べ終えて、空の食器を持ってキッチンへ向かう。
家政婦に来客があることを伝えた。
家政婦はめんどくさそうに眉をひそめて頷いた。

次に由梨は玄関を入ってすぐのところにある応接室へ向かう。
しばらく使っていなかったから、空気を入れ替えておこうと思ったのだ。

いくら書類を受け取りにくるだけだとはいえ、相手は副社長、社長である父亡き今名実ともに会社のトップに立つ人物なのだ。
玄関先で立ち話というわけにいかない。

普段父と由梨を訪ねてくる人はほとんどいないから応接室は滅多に使わない。
少しカビ臭く感じたものの、人を迎えることはできそうだと思い由梨はホッと息を吐く。
少しがたつく窓を開け、新鮮な空気を取り込んだその時、門の向こうに黒い車が停車した。

副社長、加賀隆之が到着したのだ。
< 34 / 46 >

この作品をシェア

pagetop