政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
「それはそれは、大変だったんですから! やんちゃなんてものじゃありませんでした!」
夕食後のくつろいた雰囲気が漂う加賀家のリビングに、秋元の声が響く。
由梨はそれをソファに座り、くすくすと笑いながら聞いていた。
小さい頃の隆之の話である。
食後のお茶を飲みながら出産準備について話をしていたら、いつのまにかそういう話になったのだ。
さっきから彼女は、小さい頃の隆之がいかに怖い物知らずで、やんちゃだったかについて熱弁している。
「あれは、五歳でしたか。端午の節句に、親戚方が集まって鎧兜を飾ってのお祝いの席が設けられたんです。加賀家といえば、大名家に繋がる家柄ですから、先祖代々伝わるそれはそれは立派な鎧兜があるんですよ。それに、ぼっちゃまは興味深々で……」
きっと気持ちが完全に昔に戻っているのだろう、呼び方がぼっちゃまに戻っている。それが微笑ましかった。
「どうしても、着てみたいと言い張って、駄々をこねられたんです。旦那様が貴重な物だからダメだといくら言っても聞きませんでした。それで大人がちょっと目を離した隙に、勝手に刀を抜いて兜に切り掛かってしまわれたんです!」
そう言ってため息をついた。
「兜の飾りが折ってしまったんですよ。貴重な物なのに……本当にあの時は大騒ぎでした。ねぇぼっちゃま?」
そう言って、ダイニングテーブルに座りコーヒーを飲んでいる隆之をジロリと睨む。
隆之が肩をすくめた。
「そんなの覚えてるわけがないだろう」
「んまぁ! でも兜の飾りが折れているのは知ってるでしょう? 何回も聞かされているはずです!」
その言葉には目を逸らして、答えなかった。
その様子がおかしくて、由梨はまたくすくす笑う。
秋元と接する時の隆之は、いつもより少しぶっきらぼうで子供っぽい。
それが新鮮で由梨の心をくすぐった。
「あまりにも、怖いもの知らずなんで、大旦那さまが心配されて、何か怖いものを作った方がいいとおっしゃってお化け屋敷に連れて行かれたこともあったんですよ」
隆之を見て秋元がまた続きを話しだす。
どうやらエピソードはまだまだあるようだ。
「県内で一番怖いと評判だったお化け屋敷です。劇団の方がお化け役をやられるという本格的なもので」
「それで、どうなったんですか?」
由梨は興味深々で尋ねた。
怖がらせるためにお化け屋敷に連れて行くなんて、ちょっとかわいそうな気もするけれど……。
秋元が残念そうに首を横に振った。
「全然ダメだったそうですよ。むしろ正体を暴いてやるとか言ってお化けに突進していきそうになるのを止めるのが大変だったそうです。本当に気が強くて……」
「それは……大変だったんですね」
そういえばアルバムの中の隆之はやんちゃそうな目をしていた。
話を聞いている分には可愛いなと思うけれど、実際に毎日そうだと大変だったのだろう。
「で、厳しいと評判の先生の剣道教室へ行くことになったんです。それがぴたりとはまりまして、ようやく落ち着いたんです。なんとかなってよかったです。本当に」
やれやれといった様子で秋元は言う。
「それで剣道なんだ」
と、由梨は声をあげた。
学生時代の彼の写真は剣道の防具をつけたものが多かった。
「だから私、由梨さんの赤ちゃんが女の子で少し安心した部分もあるんですよ。男の子だったからまた同じことを繰り返すのかと内心心配だったんです」
秋元はそう言って胸を撫で下ろしている。
「女だからって、暴れないとは限らないだろう」
隆之が呆れたような声を出した。
「それはそうですけど」
「男でも女でも気が強くても弱くてもどっちだろうとかまわないよ。性別もべつに生まれるまでわからなくてもよかったくらいだ」
そう言って立ち上がり、由梨と秋元がいるソファのところへやってきて、由梨の隣に腰を下ろした。
『生まれるまでわからなくてもかまわなかった』
その言葉に由梨の胸がコツンと鳴る。
お腹の子の性別については、由梨の場合実はなかなかわからなかった。
男の子よりも女の子の方が判定が難しいようで、今でも"多分そうだろう"と言われているだけなのだ。
どちらでもいいけれど早く知りたいと言う由梨に、彼はいつもわからないならわからないままでいいと言っていた。
そこに温度差を感じてしまい寂しく思うのは考えすぎなのだろう。
いや、そもそも温度差なんてあって当たり前なのかもしれない。
十ヶ月間ずっとお腹の中に子を抱えている母親の子供に対する気持ちと、父親のそれとはまた違うだろうから。
一方で、秋元は隆之の言葉を肯定的にとったようだ。
「ふふふ、ま、そうですね。とはいえ、どちらかわかれば、準備はしやすくなるものですよ」
隆之がこちらに来たのを潮に立ち上がる。
そして「由梨さん、また一緒に百貨店に行きましょうね」とにっこりして、自分の部屋へ帰っていった。
「……この頃、勤務時間なんてあってないようなものだな」
隆之の呆れたような呟きに、由梨は笑みを浮かべた。
「私にとっては、ありがたいです」
本当なら彼女の勤務時間は午後七時までで、夜ご飯の準備をしたら下がっていいことになっている。
でも妊娠中で体調によっては家事どころか自分のこともできない日がある由梨のことを考えて、最近は臨機応変に残ってくれることも多かった。
なにもしないでもただそばにいて話しをしているだけでも由梨にとっては安心だ。
「母が生きてたらこんな感じだったのかなぁって思って嬉しいんです」
産院で開かれている母親教室に行くと、出産後は体調を第一に考えて旦那さんだけじゃなくて赤ちゃんのおじいちゃんおばあちゃんにも頼れるなら頼るようにと指導される。
両親が既にいない由梨にとっては本当なら寂しく感じる場面だが、そんな時頭に浮かぶのが秋元だった。
頼っていいかと言葉に出して聞いたことはまだないが、さっきの様子だと大丈夫そうだ。
「まぁ、由梨がいいならいいけど。……あの昔話はなんとかならないかな」
うんざりしたように言う隆之に、由梨はぷっと吹き出した。
「それも、私の楽しみの一つです」
彼女の口から語られる昔の隆之についての話はいつも微笑ましくて胸が温かくなる。
彼のいないところで、もっと話してほしいとせがんだこともあるくらいだ。
「小さい頃から隆之さんは、隆之さんだったんですね。怖いものは今でもないんですか?」
ふいに思いついて尋ねると彼は首を傾げた。
「怖いもの? うーん、そうだなぁ。パッとは思いつかないな」
それもそうか、と由梨は思う。
今井財閥という巨大な権力にだってたったひとりで立ち向かうことができる人なのだ。
怖いものなんてあるはずがない。
「ふふふ、……長坂先輩とか?」
完全に冗談でそんなことを言ってみる。
隆之が苦笑した。
「いや長坂は、ただ苦手なだけだよ。でもそうだな……」
と、そこで少し考えて、なぜか真面目な表情になる。そして由梨をジッと見つめて口を開いた。
「由梨だな。俺は君が怖い」
「え?」
意外すぎる返答に由梨は目をパチパチとさせた。
「私ですか……?」
とっさに頭に浮かんだのは、"恐妻家"あるいは"鬼嫁"という言葉だった。
自分に自覚はないけれど、そう思われているのだろうか。
忙しい彼に毎日毎日朝ごはんを作ってもらっているから……?
「私、隆之さんに何かしましたか?」
「いや、そうじゃなくて」
彼は首を横に振る。
そして、由梨との距離をグッと詰めて由梨を背後から包み込むように腕に抱く。
大きな手が由梨のお腹に添えられた。
「君の存在が怖いっていうのかな」
肩に顔を埋めた隆之がくぐもった声を出す。
「由梨が出産することが……少し怖い」
「隆之さん?」
「出産は……命がけだっていうじゃないか」
そう言って隆之が顔を上げる。
弱気な表情の彼と目が合った。
妊娠の経過は順調で、今のところなんの問題もないと医者には言われている。
それは彼も知っているはずなのに……。
その由梨の疑問は彼に伝わったようだ。
目を伏せて、一段声を落としてつぶやいた。
「……俺は一度由梨を失いかけた」
ハッとして由梨は目を見開いた。
由梨が誘拐された時のことを言っているのだ。
「……あの日、由梨を見つけた時の目の前が真っ暗になるような気持ちが忘れられないんだ。あの時、少しでも駆けつけるのが遅れていたら、ひとつでも判断を間違っていたら、今君を腕に抱くことはできなかった。今でも時々夢に見て飛び起きることがあるくらいだ。隣に君が眠っていることを確認して、安心するんだよ」
「隆之さん……」
あの時の経験は、由梨にとっても恐怖だが、薬を使われていて意識がもうろうとしていた分、夢の中の出来事のようにも感じている。
しばらく時間が経った今思い出すこともあまりない。
でも彼の方は、由梨に異変を感じてから救い出してくれるまで、さらにいうと病院に搬送されるまでをずっと正気だったのだ。
由梨よりも、はっきりと覚えているのだろう。
忘れられなくて悪夢にうなされていてもおかしくはない。
それを今まで黙っていたのは、由梨を気遣ってくれていたのだろう。
「俺は、由梨に何かあったらと考えるのが怖い。怖くてたまらない」
そう言って彼は、由梨のお腹を優しくなでた。
「男でも女でも、暴れてもいいから元気で生まれてきてほしい。由梨にも元気でいてほしい。できるなら代わりたいくらいだよ」
その言葉を聞いて、ようやく由梨は彼がお腹の子の性別について興味を示さなかった理由を理解する。
本当に、性別についてはどっちでもいいと思っていたのだ。
ただ母子ともに無事であれば。
それだけを願ってくれているのだろう。
「隆之さん」
お腹の上の彼の手に、由梨はそっと手を添えた。
「大丈夫です」
絶対は、ない。
出産はいつだって命がけで、どんなに最新の設備が整っている病院でだって、百パーセントの安全は保証されない。
でも今の彼には、この言葉が必要な気がして由梨はきっぱりと言い切った。
「私、絶対に元気な子を生みます。私も、無事に乗り越えます。大丈夫」
言葉に力を込めてそう言うと、彼は綺麗な目を瞬かせる。
そして額と額をくっつけて目を閉じた。
「……情けないな。出産に臨むのは由梨なのに、俺が怖がっているなんて」
でもそれは仕方がないと由梨は思う。
愛する人が危険な目に遭うならば、代わりに自分が立ち向かう。
そこに迷いは一切ない。
彼はそういう人なのだ。
でも今回ばかりは、そうするわけにはいかなくて、それに不安を感じているのだろう。
「隆之さんも応援してくれるでしょう?」
「ああ、もちろんだ」
「ふふふ、それだけで私、普段の何倍も力が出る気がします」
隆之がゆっくりと目を開いた。
「隆之さんに似た暴れん坊の女の子が生まれるんじゃないかな」
少し戯けてそう言うと、隆之がホッと息を吐き、柔らかく微笑んだ。
「ああ、楽しみだ」
夕食後のくつろいた雰囲気が漂う加賀家のリビングに、秋元の声が響く。
由梨はそれをソファに座り、くすくすと笑いながら聞いていた。
小さい頃の隆之の話である。
食後のお茶を飲みながら出産準備について話をしていたら、いつのまにかそういう話になったのだ。
さっきから彼女は、小さい頃の隆之がいかに怖い物知らずで、やんちゃだったかについて熱弁している。
「あれは、五歳でしたか。端午の節句に、親戚方が集まって鎧兜を飾ってのお祝いの席が設けられたんです。加賀家といえば、大名家に繋がる家柄ですから、先祖代々伝わるそれはそれは立派な鎧兜があるんですよ。それに、ぼっちゃまは興味深々で……」
きっと気持ちが完全に昔に戻っているのだろう、呼び方がぼっちゃまに戻っている。それが微笑ましかった。
「どうしても、着てみたいと言い張って、駄々をこねられたんです。旦那様が貴重な物だからダメだといくら言っても聞きませんでした。それで大人がちょっと目を離した隙に、勝手に刀を抜いて兜に切り掛かってしまわれたんです!」
そう言ってため息をついた。
「兜の飾りが折ってしまったんですよ。貴重な物なのに……本当にあの時は大騒ぎでした。ねぇぼっちゃま?」
そう言って、ダイニングテーブルに座りコーヒーを飲んでいる隆之をジロリと睨む。
隆之が肩をすくめた。
「そんなの覚えてるわけがないだろう」
「んまぁ! でも兜の飾りが折れているのは知ってるでしょう? 何回も聞かされているはずです!」
その言葉には目を逸らして、答えなかった。
その様子がおかしくて、由梨はまたくすくす笑う。
秋元と接する時の隆之は、いつもより少しぶっきらぼうで子供っぽい。
それが新鮮で由梨の心をくすぐった。
「あまりにも、怖いもの知らずなんで、大旦那さまが心配されて、何か怖いものを作った方がいいとおっしゃってお化け屋敷に連れて行かれたこともあったんですよ」
隆之を見て秋元がまた続きを話しだす。
どうやらエピソードはまだまだあるようだ。
「県内で一番怖いと評判だったお化け屋敷です。劇団の方がお化け役をやられるという本格的なもので」
「それで、どうなったんですか?」
由梨は興味深々で尋ねた。
怖がらせるためにお化け屋敷に連れて行くなんて、ちょっとかわいそうな気もするけれど……。
秋元が残念そうに首を横に振った。
「全然ダメだったそうですよ。むしろ正体を暴いてやるとか言ってお化けに突進していきそうになるのを止めるのが大変だったそうです。本当に気が強くて……」
「それは……大変だったんですね」
そういえばアルバムの中の隆之はやんちゃそうな目をしていた。
話を聞いている分には可愛いなと思うけれど、実際に毎日そうだと大変だったのだろう。
「で、厳しいと評判の先生の剣道教室へ行くことになったんです。それがぴたりとはまりまして、ようやく落ち着いたんです。なんとかなってよかったです。本当に」
やれやれといった様子で秋元は言う。
「それで剣道なんだ」
と、由梨は声をあげた。
学生時代の彼の写真は剣道の防具をつけたものが多かった。
「だから私、由梨さんの赤ちゃんが女の子で少し安心した部分もあるんですよ。男の子だったからまた同じことを繰り返すのかと内心心配だったんです」
秋元はそう言って胸を撫で下ろしている。
「女だからって、暴れないとは限らないだろう」
隆之が呆れたような声を出した。
「それはそうですけど」
「男でも女でも気が強くても弱くてもどっちだろうとかまわないよ。性別もべつに生まれるまでわからなくてもよかったくらいだ」
そう言って立ち上がり、由梨と秋元がいるソファのところへやってきて、由梨の隣に腰を下ろした。
『生まれるまでわからなくてもかまわなかった』
その言葉に由梨の胸がコツンと鳴る。
お腹の子の性別については、由梨の場合実はなかなかわからなかった。
男の子よりも女の子の方が判定が難しいようで、今でも"多分そうだろう"と言われているだけなのだ。
どちらでもいいけれど早く知りたいと言う由梨に、彼はいつもわからないならわからないままでいいと言っていた。
そこに温度差を感じてしまい寂しく思うのは考えすぎなのだろう。
いや、そもそも温度差なんてあって当たり前なのかもしれない。
十ヶ月間ずっとお腹の中に子を抱えている母親の子供に対する気持ちと、父親のそれとはまた違うだろうから。
一方で、秋元は隆之の言葉を肯定的にとったようだ。
「ふふふ、ま、そうですね。とはいえ、どちらかわかれば、準備はしやすくなるものですよ」
隆之がこちらに来たのを潮に立ち上がる。
そして「由梨さん、また一緒に百貨店に行きましょうね」とにっこりして、自分の部屋へ帰っていった。
「……この頃、勤務時間なんてあってないようなものだな」
隆之の呆れたような呟きに、由梨は笑みを浮かべた。
「私にとっては、ありがたいです」
本当なら彼女の勤務時間は午後七時までで、夜ご飯の準備をしたら下がっていいことになっている。
でも妊娠中で体調によっては家事どころか自分のこともできない日がある由梨のことを考えて、最近は臨機応変に残ってくれることも多かった。
なにもしないでもただそばにいて話しをしているだけでも由梨にとっては安心だ。
「母が生きてたらこんな感じだったのかなぁって思って嬉しいんです」
産院で開かれている母親教室に行くと、出産後は体調を第一に考えて旦那さんだけじゃなくて赤ちゃんのおじいちゃんおばあちゃんにも頼れるなら頼るようにと指導される。
両親が既にいない由梨にとっては本当なら寂しく感じる場面だが、そんな時頭に浮かぶのが秋元だった。
頼っていいかと言葉に出して聞いたことはまだないが、さっきの様子だと大丈夫そうだ。
「まぁ、由梨がいいならいいけど。……あの昔話はなんとかならないかな」
うんざりしたように言う隆之に、由梨はぷっと吹き出した。
「それも、私の楽しみの一つです」
彼女の口から語られる昔の隆之についての話はいつも微笑ましくて胸が温かくなる。
彼のいないところで、もっと話してほしいとせがんだこともあるくらいだ。
「小さい頃から隆之さんは、隆之さんだったんですね。怖いものは今でもないんですか?」
ふいに思いついて尋ねると彼は首を傾げた。
「怖いもの? うーん、そうだなぁ。パッとは思いつかないな」
それもそうか、と由梨は思う。
今井財閥という巨大な権力にだってたったひとりで立ち向かうことができる人なのだ。
怖いものなんてあるはずがない。
「ふふふ、……長坂先輩とか?」
完全に冗談でそんなことを言ってみる。
隆之が苦笑した。
「いや長坂は、ただ苦手なだけだよ。でもそうだな……」
と、そこで少し考えて、なぜか真面目な表情になる。そして由梨をジッと見つめて口を開いた。
「由梨だな。俺は君が怖い」
「え?」
意外すぎる返答に由梨は目をパチパチとさせた。
「私ですか……?」
とっさに頭に浮かんだのは、"恐妻家"あるいは"鬼嫁"という言葉だった。
自分に自覚はないけれど、そう思われているのだろうか。
忙しい彼に毎日毎日朝ごはんを作ってもらっているから……?
「私、隆之さんに何かしましたか?」
「いや、そうじゃなくて」
彼は首を横に振る。
そして、由梨との距離をグッと詰めて由梨を背後から包み込むように腕に抱く。
大きな手が由梨のお腹に添えられた。
「君の存在が怖いっていうのかな」
肩に顔を埋めた隆之がくぐもった声を出す。
「由梨が出産することが……少し怖い」
「隆之さん?」
「出産は……命がけだっていうじゃないか」
そう言って隆之が顔を上げる。
弱気な表情の彼と目が合った。
妊娠の経過は順調で、今のところなんの問題もないと医者には言われている。
それは彼も知っているはずなのに……。
その由梨の疑問は彼に伝わったようだ。
目を伏せて、一段声を落としてつぶやいた。
「……俺は一度由梨を失いかけた」
ハッとして由梨は目を見開いた。
由梨が誘拐された時のことを言っているのだ。
「……あの日、由梨を見つけた時の目の前が真っ暗になるような気持ちが忘れられないんだ。あの時、少しでも駆けつけるのが遅れていたら、ひとつでも判断を間違っていたら、今君を腕に抱くことはできなかった。今でも時々夢に見て飛び起きることがあるくらいだ。隣に君が眠っていることを確認して、安心するんだよ」
「隆之さん……」
あの時の経験は、由梨にとっても恐怖だが、薬を使われていて意識がもうろうとしていた分、夢の中の出来事のようにも感じている。
しばらく時間が経った今思い出すこともあまりない。
でも彼の方は、由梨に異変を感じてから救い出してくれるまで、さらにいうと病院に搬送されるまでをずっと正気だったのだ。
由梨よりも、はっきりと覚えているのだろう。
忘れられなくて悪夢にうなされていてもおかしくはない。
それを今まで黙っていたのは、由梨を気遣ってくれていたのだろう。
「俺は、由梨に何かあったらと考えるのが怖い。怖くてたまらない」
そう言って彼は、由梨のお腹を優しくなでた。
「男でも女でも、暴れてもいいから元気で生まれてきてほしい。由梨にも元気でいてほしい。できるなら代わりたいくらいだよ」
その言葉を聞いて、ようやく由梨は彼がお腹の子の性別について興味を示さなかった理由を理解する。
本当に、性別についてはどっちでもいいと思っていたのだ。
ただ母子ともに無事であれば。
それだけを願ってくれているのだろう。
「隆之さん」
お腹の上の彼の手に、由梨はそっと手を添えた。
「大丈夫です」
絶対は、ない。
出産はいつだって命がけで、どんなに最新の設備が整っている病院でだって、百パーセントの安全は保証されない。
でも今の彼には、この言葉が必要な気がして由梨はきっぱりと言い切った。
「私、絶対に元気な子を生みます。私も、無事に乗り越えます。大丈夫」
言葉に力を込めてそう言うと、彼は綺麗な目を瞬かせる。
そして額と額をくっつけて目を閉じた。
「……情けないな。出産に臨むのは由梨なのに、俺が怖がっているなんて」
でもそれは仕方がないと由梨は思う。
愛する人が危険な目に遭うならば、代わりに自分が立ち向かう。
そこに迷いは一切ない。
彼はそういう人なのだ。
でも今回ばかりは、そうするわけにはいかなくて、それに不安を感じているのだろう。
「隆之さんも応援してくれるでしょう?」
「ああ、もちろんだ」
「ふふふ、それだけで私、普段の何倍も力が出る気がします」
隆之がゆっくりと目を開いた。
「隆之さんに似た暴れん坊の女の子が生まれるんじゃないかな」
少し戯けてそう言うと、隆之がホッと息を吐き、柔らかく微笑んだ。
「ああ、楽しみだ」