政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
ふたりだけの夜に
夜もふけた加賀家の家のリビングで、由梨はソファに座りあるものを広げている。
秋元は休みを取っていて、隆之はまだ帰宅していないから、今は完全にひとりきりだ。由梨の胸はまるで悪い事をしているかのようにドキドキとしていた。
その時。
突然、ガチャリとリビングのドアが開き、由梨は肩をびくりとさせた。
振り返ると、入ってきたのは夫である加賀隆之。
由梨は慌てて広げていた雑誌を閉じて裏返した。
「お、おかえりなさい……」
ネクタイを外しながら隆之が微笑んだ。
「ただいま」
「は、早かったんですね……」
今夜彼は、遅くなると言っていた。正確な帰宅時間を聞いたわけではないが、今はまだ午後九時にもなっていない。
彼の言う"遅くなる"時間ではないはずだ。
「予定がひとつキャンセルになったんだ」
「そ、そうなんですね」
由梨はぎこちなく頷いた。
「夕食はどうしますか。冷蔵庫にストックがあるので簡単なものならできますよ。今日は秋元さんがお休みだから私が作ったものになりますけど……」
平静を装いながらそう言って、由梨はこっそり雑誌を背中とソファの間に挟む。
隆之が首を横に振った。
「いや、ご飯は食べてきたから大丈夫だ」
「そうですか。……お風呂が沸いていますけど……」
「ありがとう、入るよ」
風呂に入ると言いながら、彼はソファを回り込み由梨のすぐそばまでやってくる。そして隣に腰を下ろして、由梨をジッと見つめた。
それだけで、由梨の頬が熱くなる。
ここのところお互いに忙しくて、あまり顔を合わせていなかったから、彼のこの瞳にこんな風に見つめられるのは、約一週間ぶりだった。
「あの……」
隆之の手が由梨の頬に添えられる。
「あ……、ん」
そして、唇を奪われた。
もう数えきれないくらい交わした彼とのキスは、いつもはじめての時のように胸が高鳴る。身体はすぐに甘い期待で熱くなる。
ほかのことはすべて吹き飛んで由梨の世界に彼しかいなくなるのだ。
「ん、ん……」
少しずつ力が抜けてゆく由梨の身体はいつのまにか隆之の腕に包まれる。唇が離れて由梨がぼんやりと彼を見つめた、その時。
「これか」
「きゃあ‼︎」
隆之の不意打ちに、由梨は大きな声をあげる。
油断した隙に背中の雑誌を取り上げられてしまった。
「なんだ、これ」
胡散臭そうに雑誌を見る隆之に、由梨は真っ赤になって抗議した。
「もう! 隆之さんひどい‼︎」
おそらく彼はもう初めから由梨がなにかを隠していることに気が付いていたのだろう。
とにかく彼は勘が鋭い。
でもだからって、キスに由梨が気を取られている隙に取り上げるなんて‼︎
「かかかか返してください!」
由梨は一生懸命に手を伸ばすが、隆之によって届かない位置に持ち上げられてしまい叶わない。
隆之が雑誌を見て舌打ちをした。
「やっぱり長坂だな」
その通りだった。
雑誌の表紙には黄色い大きな付箋が貼ってあって、彼女からのメッセージが書いてある。
『プレゼント! そろそろ必要な頃だと思って。私と西野さんのアドバイス付きよ』
隆之が訝しむように目を細めた。
雑誌自体はなんの変哲もない女性誌だが、アドバイスが書いてある付箋は、特集ページに貼ってある。
タイトルは。
《夫婦とセックス~いつまでも円満でいるために~》
「あいつ……」
隆之がため息をついた。
「やっぱりよからぬことを企んでたんだな。今日の帰り際、二人に『奥さまに新婚旅行土産のお返しを渡しました』と声をかけられたんだ。……やたらとニヤニヤして、気持ち悪かった。こういうことだったんだな」
そう言って隆之は雑誌を開こうとする。
それを由梨は慌てて止めた。
「た、隆之さん!」
再び手を伸ばすがひょいと避けられてしまう。それどころかバランスを崩して受け止められたと思っているうちに、あっというまに腕の中に閉じ込められてしまった。
後ろから抱え込むように膝に抱かれて、膝の上に雑誌が置かれる。
ちょうど小さな子供が絵本を読んでもらうような格好だ。
本の内容はとても子供に見せられるようなものではないけれど。
「た、隆之さん⁉︎」
「ちょうどいいから一緒に読もうか」
「い、一緒に⁉︎」
由梨の頭はパニックになる。
特集記事とふたりのアドバイスが書かれた付箋の内容をまだ由梨は読んでいないが、彼と一緒に読むようなものではないはずだ。
「い、嫌です。私、ひとりで……」
でも彼は許してくれなかった。
「由梨、夫婦のことは夫婦ふたりで解決しなくては。このふたりのアドバイスを俺も参考にさせてもらうよ。参考になれば、だけど」
なにやら不穏な言葉を口にして、隆之が雑誌を開いた。
まずは……ピンク色の奈々の付箋が付いたページだ。読者からの悩み相談に夫婦関係アドバイザーとやらが答える、という形式の記事だった。
《お悩み相談ケース3『求められすぎて、困っています! えっちの回数を減らして欲しいと夫を傷付けずに伝えるには?』》
そこに貼り付けられた付箋には奈々の文字でアドバイスが書いてある。
『由梨先輩も求められすぎて困ってませんか? 嫌な時は嫌ってはっきり言わなくちゃだめですよ‼︎ 社長の体力に付き合っていたら由梨先輩がつぶれちゃいます』
「……心外だな」
隆之が呟いた。
「俺はいつも由梨の身体のことを考えている。特に由梨が異動してからは」
隆之が由梨の耳に唇を寄せて主張する。
彼の吐息が耳にかかり、由梨の背中が小さく震えた。
「次の日に響くようなことはしていない。そうだろう? 由梨」
甘い刺激に耐えながら、由梨はこくこくとうなずいた。
それはその通りだった。
隆之が由梨を求めるのは大抵は休日の日の前の夜。隆之に抱かれた後の由梨がクタクタになってしまって次の日は必ず寝坊をしてしまうからだ。
ちゃんと考えてもらっているという実感はある。
「ただでさえ、企画課は忙しいからな。由梨に無理をさせたくない。……それでもつらい?」
由梨は慌てて首を振った。
「つ、つらくはないです。……だ、大丈夫」
「それはよかった」
隆之が安堵したように囁いた。
「……ところで由梨、企画課の仕事はどうだ? もう慣れたか?」
「え? あ、えーと」
少し唐突に話題が変わったような気がして、由梨は一生懸命に頭を切り替える。そして少し考えてから頷いた。
「は、はい、慣れました。最近では要領よくやれることも多くなってきて……」
「それはよかった」
満足そうにそう言って、隆之が突然由梨の耳を口に含んだ。
「きゃっ! ん……! 隆之さ……」
由梨は身体を震わせる。話題が仕事のことに変わったのだと思ったのに、どうして彼がそんなことをするのか、まったくわけがわからないままに。
隆之が甘く囁いた。
「……ならそろそろ増やしてもよさそうだな」
「…………え?」
「では次のアドバイス」
隆之の手が雑誌のページをぺらりとめくる。
「次も、西野さんだ」
ピンク色の付箋が貼ってあるのは、お悩み相談ケース6。
《最近、夫がエッチの時以外キスをしてくれません! 前はもっと普段からスキンシップがあったのに……》
付箋に書かれた奈々からのアドバイスはこうだった。
『これ本当にムカつきますよね! 男って普段のスキンシップがどれだけ大事かわかっていないんです。もし社長がこんな感じなら由梨先輩ガツンと言っちゃってください!』
その内容に由梨が目を剥いていると、顎に手が添えられる。
「あ」
ぐいっと上を向かせられて、そのまま唇を奪われた。
「ん」
いつもより長い、荒々しいキス。
息も絶え絶えになってから由梨はようやく解放される。
ぼんやりとする視線の先で、隆之がペロリと唇を舐めた。
「これは心配無用だな」
そしてまたページをめくる。
「次は……長坂のアドバイスか」
くたりと隆之に身を預けたまま、由梨は雑誌に視線を落とす。そしてまたもや目を剥いた。
お悩み相談ケース7は衝撃的な内容だ。
《夫とのエッチがマンネリです。毎回同じことの繰り返し、刺激がなくてつまらない!》
付箋には長坂の文字。
『こんなの旦那失格ね。でももし殿がこうなら、あなたからは言えないだろうから、私から言ってあげる』
「あいつ……」
隆之が苦々しい口調で呟いて付箋を剥がしぐしゃりと握る。そして上から由梨を覗き込んだ。
由梨は慌ててぶんぶんと首を振った。
「わわわ私、そそそそんなこと、おおお思っていません!」
毎回同じことの繰り返し。
たしかに"その時に"やること自体はそう大きくは変わらない。でも刺激がなくてつまらないなんて、とんでもない話だった。
毎回由梨はそれに応えるだけで、精一杯だというのに。
「ほほほ本当に!」
言葉に力を込めて由梨が言うと、隆之が目を細める。
そしてなぜか突然、胡散臭いくらいに優雅に微笑んだ。
「でもこのアドバイスはあながち間違いでもないかもしれないな。何事もルーティーン化してしまうと、新鮮さがなくなるというのは当然のことだ。そう思わないか、由梨?」
まるで仕事の話をしているかのように話を進めてゆく隆之に由梨は素直に頷くことができないでいる。
なんだかものすごく嫌な予感がする。
そしてその予感は的中した。
「だから、これからは少しバリエーションを増やそうか。……由梨が退屈しないように。俺も頑張るよ」
「え! バババ、バリエーションって……⁉︎」
「では次、最後のページだ」
由梨が目を白黒させているうちに、また隆之がページをめくる。
最終ページは特集記事を書いた記者からのメッセージだった。
《時にはあなたも大胆に。彼からのえっちなお願いにも応えてみては?》
ここにはふたつの付箋が貼ってあった。
ピンク色の付箋には奈々からのメッセージ。
『これはやってみるべきです。コスプレがおすすめですよ。社長がどの衣装を選んだかおしえてくださいね!』
黄色い付箋は長坂から。
『男を甘やかすようなことは私は反対。主導権は常に自分にあるべきよ』
隆之がくっくと笑った。
「俺は、西野さん派だな」
「……た、隆之さん?」
由梨は絶句して彼を振り返る。
奈々の付箋の『コスプレ』の文字が、頭の中をぐるぐるした。
隆之が由梨を抱いたまま立ち上がる。
「きゃっ‼︎」
そしてにっこりと微笑んだ。
「安心して。俺はコスプレの趣味はない。でも西野さんのアドバイスに従って、今から由梨には俺のお願いをひとつきいてもらうことにする」
勝手なことを宣言する隆之に、由梨は慌てて口を開く。
「そんな……隆之さん……」
「旦那さまに隠れてよからぬ本を読んでいた罰だよ」
いつのまにか、お願いを罰にすり替えて、隆之は歩き出す。広いリビングを横ぎって、出口へ向かう。
「私はそんなつもりじゃ……。あの、隆之さん、どこへ……?」
由梨からの問いかけに、隆之が嬉しそうに答えた。
「バスルームだ。今日こそ一緒に入ってもらう」
「ええっ⁉︎」
理不尽なその要求に由梨は大きな声をあげる。
由梨と一緒にお風呂に入りたがるのは、もやは彼のクセみたいなものだった。
はじめての夜もそう言って由梨を困らせたのだから。
今までで由梨がその彼のお願いをきいたのは二回だけ。
東京出張でのことだ。
あの時はホテルのスイートルームという非日常の世界が由梨を少し大胆にした。
でもだからといってこの家のバスルームでと言われると、それはまた別の話だと由梨は思う。
ここはあくまでも日常の世界。
そんな場所では、なにやら悪いことをしているような気分で、どうしても躊躇してしまうのだ。
彼もそれを無理強いするわけではなかったのに……。
「た、隆之さん‼︎ そんな勝手に決めないでください」
もはやリビングを出ようとする隆之の胸を由梨はポカポカと叩く。
すると隆之は足を止めて信じられない言葉を口にした。
「じゃあ、ナース服でも着てくれるか?」
「っ……⁉︎」
由梨はもうなにも言い返せずに彼の胸に顔を埋める。信じられないと呟きながら。
隆之がはははと声をあげてまた歩き出した。
真っ赤になって彼の腕に揺られながら、でも由梨は胸の奥に温かいものが広がってゆくのを感じていた。
会社ではカリスマ社長として、完璧なリーダーシップを発揮する隆之。
彼は家では時々こんな風に少し傍若無人に振る舞うことがある。
由梨はそれを心から嬉しいと思う。
彼がリラックスできる場所、素顔の彼でいられる場所をずっとずっと守り続けたい。
そうすればきっと、雑誌の中の夫婦のようにはならないはずだ。
ずっとずっとふたり肩を並べていられるはず。
「ほらついたよ。大丈夫だって、なにもしないから」
まったく信用できない約束をして、隆之がバスルームのドアを開いた。
秋元は休みを取っていて、隆之はまだ帰宅していないから、今は完全にひとりきりだ。由梨の胸はまるで悪い事をしているかのようにドキドキとしていた。
その時。
突然、ガチャリとリビングのドアが開き、由梨は肩をびくりとさせた。
振り返ると、入ってきたのは夫である加賀隆之。
由梨は慌てて広げていた雑誌を閉じて裏返した。
「お、おかえりなさい……」
ネクタイを外しながら隆之が微笑んだ。
「ただいま」
「は、早かったんですね……」
今夜彼は、遅くなると言っていた。正確な帰宅時間を聞いたわけではないが、今はまだ午後九時にもなっていない。
彼の言う"遅くなる"時間ではないはずだ。
「予定がひとつキャンセルになったんだ」
「そ、そうなんですね」
由梨はぎこちなく頷いた。
「夕食はどうしますか。冷蔵庫にストックがあるので簡単なものならできますよ。今日は秋元さんがお休みだから私が作ったものになりますけど……」
平静を装いながらそう言って、由梨はこっそり雑誌を背中とソファの間に挟む。
隆之が首を横に振った。
「いや、ご飯は食べてきたから大丈夫だ」
「そうですか。……お風呂が沸いていますけど……」
「ありがとう、入るよ」
風呂に入ると言いながら、彼はソファを回り込み由梨のすぐそばまでやってくる。そして隣に腰を下ろして、由梨をジッと見つめた。
それだけで、由梨の頬が熱くなる。
ここのところお互いに忙しくて、あまり顔を合わせていなかったから、彼のこの瞳にこんな風に見つめられるのは、約一週間ぶりだった。
「あの……」
隆之の手が由梨の頬に添えられる。
「あ……、ん」
そして、唇を奪われた。
もう数えきれないくらい交わした彼とのキスは、いつもはじめての時のように胸が高鳴る。身体はすぐに甘い期待で熱くなる。
ほかのことはすべて吹き飛んで由梨の世界に彼しかいなくなるのだ。
「ん、ん……」
少しずつ力が抜けてゆく由梨の身体はいつのまにか隆之の腕に包まれる。唇が離れて由梨がぼんやりと彼を見つめた、その時。
「これか」
「きゃあ‼︎」
隆之の不意打ちに、由梨は大きな声をあげる。
油断した隙に背中の雑誌を取り上げられてしまった。
「なんだ、これ」
胡散臭そうに雑誌を見る隆之に、由梨は真っ赤になって抗議した。
「もう! 隆之さんひどい‼︎」
おそらく彼はもう初めから由梨がなにかを隠していることに気が付いていたのだろう。
とにかく彼は勘が鋭い。
でもだからって、キスに由梨が気を取られている隙に取り上げるなんて‼︎
「かかかか返してください!」
由梨は一生懸命に手を伸ばすが、隆之によって届かない位置に持ち上げられてしまい叶わない。
隆之が雑誌を見て舌打ちをした。
「やっぱり長坂だな」
その通りだった。
雑誌の表紙には黄色い大きな付箋が貼ってあって、彼女からのメッセージが書いてある。
『プレゼント! そろそろ必要な頃だと思って。私と西野さんのアドバイス付きよ』
隆之が訝しむように目を細めた。
雑誌自体はなんの変哲もない女性誌だが、アドバイスが書いてある付箋は、特集ページに貼ってある。
タイトルは。
《夫婦とセックス~いつまでも円満でいるために~》
「あいつ……」
隆之がため息をついた。
「やっぱりよからぬことを企んでたんだな。今日の帰り際、二人に『奥さまに新婚旅行土産のお返しを渡しました』と声をかけられたんだ。……やたらとニヤニヤして、気持ち悪かった。こういうことだったんだな」
そう言って隆之は雑誌を開こうとする。
それを由梨は慌てて止めた。
「た、隆之さん!」
再び手を伸ばすがひょいと避けられてしまう。それどころかバランスを崩して受け止められたと思っているうちに、あっというまに腕の中に閉じ込められてしまった。
後ろから抱え込むように膝に抱かれて、膝の上に雑誌が置かれる。
ちょうど小さな子供が絵本を読んでもらうような格好だ。
本の内容はとても子供に見せられるようなものではないけれど。
「た、隆之さん⁉︎」
「ちょうどいいから一緒に読もうか」
「い、一緒に⁉︎」
由梨の頭はパニックになる。
特集記事とふたりのアドバイスが書かれた付箋の内容をまだ由梨は読んでいないが、彼と一緒に読むようなものではないはずだ。
「い、嫌です。私、ひとりで……」
でも彼は許してくれなかった。
「由梨、夫婦のことは夫婦ふたりで解決しなくては。このふたりのアドバイスを俺も参考にさせてもらうよ。参考になれば、だけど」
なにやら不穏な言葉を口にして、隆之が雑誌を開いた。
まずは……ピンク色の奈々の付箋が付いたページだ。読者からの悩み相談に夫婦関係アドバイザーとやらが答える、という形式の記事だった。
《お悩み相談ケース3『求められすぎて、困っています! えっちの回数を減らして欲しいと夫を傷付けずに伝えるには?』》
そこに貼り付けられた付箋には奈々の文字でアドバイスが書いてある。
『由梨先輩も求められすぎて困ってませんか? 嫌な時は嫌ってはっきり言わなくちゃだめですよ‼︎ 社長の体力に付き合っていたら由梨先輩がつぶれちゃいます』
「……心外だな」
隆之が呟いた。
「俺はいつも由梨の身体のことを考えている。特に由梨が異動してからは」
隆之が由梨の耳に唇を寄せて主張する。
彼の吐息が耳にかかり、由梨の背中が小さく震えた。
「次の日に響くようなことはしていない。そうだろう? 由梨」
甘い刺激に耐えながら、由梨はこくこくとうなずいた。
それはその通りだった。
隆之が由梨を求めるのは大抵は休日の日の前の夜。隆之に抱かれた後の由梨がクタクタになってしまって次の日は必ず寝坊をしてしまうからだ。
ちゃんと考えてもらっているという実感はある。
「ただでさえ、企画課は忙しいからな。由梨に無理をさせたくない。……それでもつらい?」
由梨は慌てて首を振った。
「つ、つらくはないです。……だ、大丈夫」
「それはよかった」
隆之が安堵したように囁いた。
「……ところで由梨、企画課の仕事はどうだ? もう慣れたか?」
「え? あ、えーと」
少し唐突に話題が変わったような気がして、由梨は一生懸命に頭を切り替える。そして少し考えてから頷いた。
「は、はい、慣れました。最近では要領よくやれることも多くなってきて……」
「それはよかった」
満足そうにそう言って、隆之が突然由梨の耳を口に含んだ。
「きゃっ! ん……! 隆之さ……」
由梨は身体を震わせる。話題が仕事のことに変わったのだと思ったのに、どうして彼がそんなことをするのか、まったくわけがわからないままに。
隆之が甘く囁いた。
「……ならそろそろ増やしてもよさそうだな」
「…………え?」
「では次のアドバイス」
隆之の手が雑誌のページをぺらりとめくる。
「次も、西野さんだ」
ピンク色の付箋が貼ってあるのは、お悩み相談ケース6。
《最近、夫がエッチの時以外キスをしてくれません! 前はもっと普段からスキンシップがあったのに……》
付箋に書かれた奈々からのアドバイスはこうだった。
『これ本当にムカつきますよね! 男って普段のスキンシップがどれだけ大事かわかっていないんです。もし社長がこんな感じなら由梨先輩ガツンと言っちゃってください!』
その内容に由梨が目を剥いていると、顎に手が添えられる。
「あ」
ぐいっと上を向かせられて、そのまま唇を奪われた。
「ん」
いつもより長い、荒々しいキス。
息も絶え絶えになってから由梨はようやく解放される。
ぼんやりとする視線の先で、隆之がペロリと唇を舐めた。
「これは心配無用だな」
そしてまたページをめくる。
「次は……長坂のアドバイスか」
くたりと隆之に身を預けたまま、由梨は雑誌に視線を落とす。そしてまたもや目を剥いた。
お悩み相談ケース7は衝撃的な内容だ。
《夫とのエッチがマンネリです。毎回同じことの繰り返し、刺激がなくてつまらない!》
付箋には長坂の文字。
『こんなの旦那失格ね。でももし殿がこうなら、あなたからは言えないだろうから、私から言ってあげる』
「あいつ……」
隆之が苦々しい口調で呟いて付箋を剥がしぐしゃりと握る。そして上から由梨を覗き込んだ。
由梨は慌ててぶんぶんと首を振った。
「わわわ私、そそそそんなこと、おおお思っていません!」
毎回同じことの繰り返し。
たしかに"その時に"やること自体はそう大きくは変わらない。でも刺激がなくてつまらないなんて、とんでもない話だった。
毎回由梨はそれに応えるだけで、精一杯だというのに。
「ほほほ本当に!」
言葉に力を込めて由梨が言うと、隆之が目を細める。
そしてなぜか突然、胡散臭いくらいに優雅に微笑んだ。
「でもこのアドバイスはあながち間違いでもないかもしれないな。何事もルーティーン化してしまうと、新鮮さがなくなるというのは当然のことだ。そう思わないか、由梨?」
まるで仕事の話をしているかのように話を進めてゆく隆之に由梨は素直に頷くことができないでいる。
なんだかものすごく嫌な予感がする。
そしてその予感は的中した。
「だから、これからは少しバリエーションを増やそうか。……由梨が退屈しないように。俺も頑張るよ」
「え! バババ、バリエーションって……⁉︎」
「では次、最後のページだ」
由梨が目を白黒させているうちに、また隆之がページをめくる。
最終ページは特集記事を書いた記者からのメッセージだった。
《時にはあなたも大胆に。彼からのえっちなお願いにも応えてみては?》
ここにはふたつの付箋が貼ってあった。
ピンク色の付箋には奈々からのメッセージ。
『これはやってみるべきです。コスプレがおすすめですよ。社長がどの衣装を選んだかおしえてくださいね!』
黄色い付箋は長坂から。
『男を甘やかすようなことは私は反対。主導権は常に自分にあるべきよ』
隆之がくっくと笑った。
「俺は、西野さん派だな」
「……た、隆之さん?」
由梨は絶句して彼を振り返る。
奈々の付箋の『コスプレ』の文字が、頭の中をぐるぐるした。
隆之が由梨を抱いたまま立ち上がる。
「きゃっ‼︎」
そしてにっこりと微笑んだ。
「安心して。俺はコスプレの趣味はない。でも西野さんのアドバイスに従って、今から由梨には俺のお願いをひとつきいてもらうことにする」
勝手なことを宣言する隆之に、由梨は慌てて口を開く。
「そんな……隆之さん……」
「旦那さまに隠れてよからぬ本を読んでいた罰だよ」
いつのまにか、お願いを罰にすり替えて、隆之は歩き出す。広いリビングを横ぎって、出口へ向かう。
「私はそんなつもりじゃ……。あの、隆之さん、どこへ……?」
由梨からの問いかけに、隆之が嬉しそうに答えた。
「バスルームだ。今日こそ一緒に入ってもらう」
「ええっ⁉︎」
理不尽なその要求に由梨は大きな声をあげる。
由梨と一緒にお風呂に入りたがるのは、もやは彼のクセみたいなものだった。
はじめての夜もそう言って由梨を困らせたのだから。
今までで由梨がその彼のお願いをきいたのは二回だけ。
東京出張でのことだ。
あの時はホテルのスイートルームという非日常の世界が由梨を少し大胆にした。
でもだからといってこの家のバスルームでと言われると、それはまた別の話だと由梨は思う。
ここはあくまでも日常の世界。
そんな場所では、なにやら悪いことをしているような気分で、どうしても躊躇してしまうのだ。
彼もそれを無理強いするわけではなかったのに……。
「た、隆之さん‼︎ そんな勝手に決めないでください」
もはやリビングを出ようとする隆之の胸を由梨はポカポカと叩く。
すると隆之は足を止めて信じられない言葉を口にした。
「じゃあ、ナース服でも着てくれるか?」
「っ……⁉︎」
由梨はもうなにも言い返せずに彼の胸に顔を埋める。信じられないと呟きながら。
隆之がはははと声をあげてまた歩き出した。
真っ赤になって彼の腕に揺られながら、でも由梨は胸の奥に温かいものが広がってゆくのを感じていた。
会社ではカリスマ社長として、完璧なリーダーシップを発揮する隆之。
彼は家では時々こんな風に少し傍若無人に振る舞うことがある。
由梨はそれを心から嬉しいと思う。
彼がリラックスできる場所、素顔の彼でいられる場所をずっとずっと守り続けたい。
そうすればきっと、雑誌の中の夫婦のようにはならないはずだ。
ずっとずっとふたり肩を並べていられるはず。
「ほらついたよ。大丈夫だって、なにもしないから」
まったく信用できない約束をして、隆之がバスルームのドアを開いた。