『政略結婚は純愛のように』番外編集
子育て編
1
天使のような可愛い寝息がすぴすぴと規則的になったのを確認して、由梨はそっと身を離す。長いまつ毛とふっくらとした頬に口もとに笑みが浮かんだ。
思わずもう一度、頬を近づけるとお日さまのような懐かしいような匂いがする。ふわふわした黒い髪にキスを落として、音を立てないようにベッドを出る。
今沙羅が寝ているのは、もともとは隆之とふたりで使っていた大きな夫婦のベッド。ここに沙羅が落ちないようにぐるりと柵をつけて、今は夫婦三人で寝ている。
なるべく音を立てないように由梨は寝室を出る。
生後三カ月になった沙羅は睡眠のリズムが整いつつある。この時間に寝れば、夜中までは起きないはず。でも念のため彼女が泣いたらすぐにわかるように少しだけドアを開けたままにして、振り返るとキッチンから人の気配がする。行ってみると隆之だった。
まだスーツのまま由梨が作っておいた夕食を温めているようだ。
「おかえりなさい」
声をかけると振り返り微笑んだ。
「ただいま、沙羅は寝た?」
「はい、隆之さん、帰ってたんですね。気がつかなくてごめんなさい」
沙羅を寝かしつけるために小一時間、寝室にいた。どのタイミングで彼が帰ってきていたのかは不明だが、まったく気がつかなかった。
「謝る必要はないよ。そのまま一緒に寝てしまっていいんだからな」
彼はそう言って、夕食のスープをかき混ぜている。
実際そういう日も少なくはない。由梨自身、出産でダメージを受けている身体で少しも目が離せない沙羅優先の生活なのだ。彼女に合わせて寝られる時に寝ているようにと、厳命されている。
「起こしてしまったんだったらごめん」
隆之が言った。
彼が帰ってきたことに由梨が気がつかなかったのは、彼が意識して静かに家に入ってきたからだ。この時間、沙羅を寝かしつけていることが多い由梨の邪魔にならないように。
それはとてもありがたいけれど、一日中働いて疲れて帰ってきた彼を出迎えられないのが申し訳なかった。由梨にとっても一日のうちで大好きな瞬間だったのに。
なにもかもがガラリと変わったふたりの生活、戸惑うことだらけだけれど、それを凌駕する喜びに包まれていることも事実で……。
「夕食は、私がやりますから隆之さんは着替えてきてください」
帰ってきた時に由梨がリビングにいなければ、彼は夕食を温めてひとりで食べて片付けまでしておいてくれる。
でもせめて起きている時くらいは、と思いそう言うと、彼は一瞬迷うような表情になった。由梨に負担をかけたくないと思ってるのだろう。
大丈夫、というように微笑むと、途端に彼は嬉しそうな表情になる。
「じゃあ、お願いするよ」と言って、いそいそとキッチンを出ていった。その背中を見送って由梨は思わずくすりと笑ってしまう。
彼の衣服が保管してあるウォークインクローゼットへは寝室から入る。途中、沙羅の寝顔を見るつもりなのだろう。
もちろん、由梨としてはそんな理由がなくてもいくらでも寝顔を見てほしい。でも一度、たまたま彼が寝室へ行ったタイミングで彼女が起きてしまった、という出来事があってからは彼は少し遠慮してしまっているのだ。
案の定、由梨がダイニングテーブルに夕食を並べ終えても彼は寝室から戻ってこなかった。スーツから部屋着に着替えるためだけにこんなに時間がかかるわけがないから、やはり沙羅の寝顔を見ているのだろう。
由梨は静かに寝室へ向かう。少し開いたドアをもう少しだけ開けて中を覗くと、予想通り彼はベッドにいた。呆れたことにまだスーツ姿である。
着替えるために寝室へ行っておきながら、当初の目的を忘れて沙羅に夢中になっているようだ。広いベッドの上にちまっと寝ている彼女の両脇に手をついて、優しい目で見つめている。
由梨がドアを開いた分、部屋が少し明るくなったはずなのに、そのことにも気がついていないようだ。
由梨は笑みを浮かべて、小さな声で彼を呼んだ。
「隆之さん、夕食できましたよ」
忙しい彼の癒しの時間、そっとしておいてあげたいような気もするが、このままではせっかく温めた夕食がまた冷めてしまう。なにせ彼は、まだ着替えてすらいないのだから。
隆之がようやくこちらに気がついて、にっこりと笑って頷いた。
「ああ、すぐ行く」
それを見届けてから、由梨はそっと寝室を離れる。キッチンへ戻り、彼のために飲み物をとってくる。
沙羅が生まれてからも彼の仕事が激務なのは相変わらず。朝早くに出ていくことも、夜遅いこともある。でも業務ではない付き合いの会食はほぼ断っているようだ。
言うまでもなく起きている沙羅に会いたいからだ。実際彼女が新生児の頃は、朝と夜の区別なく起きたり寝たりだったから、そういうこともできた。
でも月齢三ヶ月を過ぎた今は、朝と夜のリズムが整いつつあるから、彼の帰宅時間に寝ていることが多かった。
それでも時々、彼女が起きている時間に帰って来られる日があって、そんな時はこっちまで嬉しくなるくらいに喜んでいつまでも彼女を抱いている。
冷たいビールとグラスを持って由梨はダイニングに戻ってくる。テーブルの上に置いた時、ちょうど隆之が寝室から出てきた。
「ビール飲みますか?」
尋ねると、「ああ、ありがとう」と言う。そして由梨のところまでやってきて、大きな腕で由梨を包み込み、温かい声音で囁いた。
「由梨、お疲れさま」
「隆之さんこそ、お疲れさまです」
目を閉じて答えると、由梨の胸に温かいものが広がった。
帰宅時、彼は毎日こうやって由梨に労いの言葉をくれる。沙羅が生まれてからできた夫婦の新しい習慣だ。昼間に沙羅を見ていることに対する言葉だった。
隆之だって毎日会社のために激務をこなしているのに、その彼に「お疲れさま」と言ってもらうなんて、まるであべこべだ。
でもそれを、由梨はありがたいと思い受け止めている。
沙羅が生まれてからの生活は、柔らかな幸せに満ちている。その反面、やっぱり大変だと感じることも多いからだ。
そもそも出産を経験した身体が完全にはもとに戻っていない中、沙羅からは片時も目が離せないのだから。
慣れないことばかりで失敗することも多く、小さな命に対する心配は尽きない。こんなことでちゃんと母親をやれているのだろうかと、自信をなくしてしまうこともあるくらいだ。
でも一日の終わりに彼のこの「お疲れさま」を聞くと心がふわっと軽くなる。沙羅を育てているのは自分ひとりではないのだという安心感に包まれるのだ。
彼の背中に腕を回して、頬ずりをして目を閉じる。全身で彼体温を感じると、昼間の育児疲れが吹き飛んでいくような心地がした。
「由梨」
優しく呼ばれて顔を上げると、彼の視線がゆっくりと下りてくる。
「んっ……」
柔らかくて優しいキス、でもすぐにそれでは満足できなくなってしまう。顎に添えられた彼の指が由梨の唇に割って入り、そのまま彼は由梨の中に侵入する。
おかえりなさいのキスにしては少し荒いふたりの息遣いが、静かなダイニングに響く。
「ん……隆之さ……」
由梨を包む腕の力がいつもより強いように感じて目を開くと、由梨の背中がチリリと痺れる。彼のあの瞳が自分を見つめていたからだ。
「あ」
途端に、身体がかぁっと熱くなる。
——もう一度、深いキス。
「ん……」
目を閉じると自分の力で立っているのかさえもわからなくなってしまう。彼の香りと温もりで頭がいっぱいになっていく……。
大きな手が欲しがるように自分を強く抱く感覚も由梨のなにかをおかしくさせた。
甘い息を吐いて目を開くと、同時に隆之が由梨から目を逸らした。肩のあたりに顔を埋めて、ふーと長い息を吐きそのまましばらく沈黙する。
「隆之さん……?」
顔を上げた時は、いつもの優しい彼だった。
そっと由梨から身を離し、ダイニングテーブルに目をやった。
「夕食、ありがとう。沙羅は俺が見てるから、由梨は今のうちに風呂に入ってきたら?」
由梨を気遣っての言葉だ。
風呂は毎日夕方、沙羅と一緒に入っている。でもまだ慣れない彼女とのお風呂はバタバタで、自分の髪と身体などろくに洗えたものじゃない。たいていはこうやって彼がいる時間に、もう一度入りなおすのだ。
その彼の気遣いを、どこか寂しいと感じてしまう自分が恥ずかしかった。いつ沙羅が起きてくるともわからないのだ、生活のすべてを彼女優先にしなくてはいけないのに、もう少し彼の腕の中にいたかったと思うなんて。
火照る身体を持て余したまま、由梨は「はい」と答えた。
思わずもう一度、頬を近づけるとお日さまのような懐かしいような匂いがする。ふわふわした黒い髪にキスを落として、音を立てないようにベッドを出る。
今沙羅が寝ているのは、もともとは隆之とふたりで使っていた大きな夫婦のベッド。ここに沙羅が落ちないようにぐるりと柵をつけて、今は夫婦三人で寝ている。
なるべく音を立てないように由梨は寝室を出る。
生後三カ月になった沙羅は睡眠のリズムが整いつつある。この時間に寝れば、夜中までは起きないはず。でも念のため彼女が泣いたらすぐにわかるように少しだけドアを開けたままにして、振り返るとキッチンから人の気配がする。行ってみると隆之だった。
まだスーツのまま由梨が作っておいた夕食を温めているようだ。
「おかえりなさい」
声をかけると振り返り微笑んだ。
「ただいま、沙羅は寝た?」
「はい、隆之さん、帰ってたんですね。気がつかなくてごめんなさい」
沙羅を寝かしつけるために小一時間、寝室にいた。どのタイミングで彼が帰ってきていたのかは不明だが、まったく気がつかなかった。
「謝る必要はないよ。そのまま一緒に寝てしまっていいんだからな」
彼はそう言って、夕食のスープをかき混ぜている。
実際そういう日も少なくはない。由梨自身、出産でダメージを受けている身体で少しも目が離せない沙羅優先の生活なのだ。彼女に合わせて寝られる時に寝ているようにと、厳命されている。
「起こしてしまったんだったらごめん」
隆之が言った。
彼が帰ってきたことに由梨が気がつかなかったのは、彼が意識して静かに家に入ってきたからだ。この時間、沙羅を寝かしつけていることが多い由梨の邪魔にならないように。
それはとてもありがたいけれど、一日中働いて疲れて帰ってきた彼を出迎えられないのが申し訳なかった。由梨にとっても一日のうちで大好きな瞬間だったのに。
なにもかもがガラリと変わったふたりの生活、戸惑うことだらけだけれど、それを凌駕する喜びに包まれていることも事実で……。
「夕食は、私がやりますから隆之さんは着替えてきてください」
帰ってきた時に由梨がリビングにいなければ、彼は夕食を温めてひとりで食べて片付けまでしておいてくれる。
でもせめて起きている時くらいは、と思いそう言うと、彼は一瞬迷うような表情になった。由梨に負担をかけたくないと思ってるのだろう。
大丈夫、というように微笑むと、途端に彼は嬉しそうな表情になる。
「じゃあ、お願いするよ」と言って、いそいそとキッチンを出ていった。その背中を見送って由梨は思わずくすりと笑ってしまう。
彼の衣服が保管してあるウォークインクローゼットへは寝室から入る。途中、沙羅の寝顔を見るつもりなのだろう。
もちろん、由梨としてはそんな理由がなくてもいくらでも寝顔を見てほしい。でも一度、たまたま彼が寝室へ行ったタイミングで彼女が起きてしまった、という出来事があってからは彼は少し遠慮してしまっているのだ。
案の定、由梨がダイニングテーブルに夕食を並べ終えても彼は寝室から戻ってこなかった。スーツから部屋着に着替えるためだけにこんなに時間がかかるわけがないから、やはり沙羅の寝顔を見ているのだろう。
由梨は静かに寝室へ向かう。少し開いたドアをもう少しだけ開けて中を覗くと、予想通り彼はベッドにいた。呆れたことにまだスーツ姿である。
着替えるために寝室へ行っておきながら、当初の目的を忘れて沙羅に夢中になっているようだ。広いベッドの上にちまっと寝ている彼女の両脇に手をついて、優しい目で見つめている。
由梨がドアを開いた分、部屋が少し明るくなったはずなのに、そのことにも気がついていないようだ。
由梨は笑みを浮かべて、小さな声で彼を呼んだ。
「隆之さん、夕食できましたよ」
忙しい彼の癒しの時間、そっとしておいてあげたいような気もするが、このままではせっかく温めた夕食がまた冷めてしまう。なにせ彼は、まだ着替えてすらいないのだから。
隆之がようやくこちらに気がついて、にっこりと笑って頷いた。
「ああ、すぐ行く」
それを見届けてから、由梨はそっと寝室を離れる。キッチンへ戻り、彼のために飲み物をとってくる。
沙羅が生まれてからも彼の仕事が激務なのは相変わらず。朝早くに出ていくことも、夜遅いこともある。でも業務ではない付き合いの会食はほぼ断っているようだ。
言うまでもなく起きている沙羅に会いたいからだ。実際彼女が新生児の頃は、朝と夜の区別なく起きたり寝たりだったから、そういうこともできた。
でも月齢三ヶ月を過ぎた今は、朝と夜のリズムが整いつつあるから、彼の帰宅時間に寝ていることが多かった。
それでも時々、彼女が起きている時間に帰って来られる日があって、そんな時はこっちまで嬉しくなるくらいに喜んでいつまでも彼女を抱いている。
冷たいビールとグラスを持って由梨はダイニングに戻ってくる。テーブルの上に置いた時、ちょうど隆之が寝室から出てきた。
「ビール飲みますか?」
尋ねると、「ああ、ありがとう」と言う。そして由梨のところまでやってきて、大きな腕で由梨を包み込み、温かい声音で囁いた。
「由梨、お疲れさま」
「隆之さんこそ、お疲れさまです」
目を閉じて答えると、由梨の胸に温かいものが広がった。
帰宅時、彼は毎日こうやって由梨に労いの言葉をくれる。沙羅が生まれてからできた夫婦の新しい習慣だ。昼間に沙羅を見ていることに対する言葉だった。
隆之だって毎日会社のために激務をこなしているのに、その彼に「お疲れさま」と言ってもらうなんて、まるであべこべだ。
でもそれを、由梨はありがたいと思い受け止めている。
沙羅が生まれてからの生活は、柔らかな幸せに満ちている。その反面、やっぱり大変だと感じることも多いからだ。
そもそも出産を経験した身体が完全にはもとに戻っていない中、沙羅からは片時も目が離せないのだから。
慣れないことばかりで失敗することも多く、小さな命に対する心配は尽きない。こんなことでちゃんと母親をやれているのだろうかと、自信をなくしてしまうこともあるくらいだ。
でも一日の終わりに彼のこの「お疲れさま」を聞くと心がふわっと軽くなる。沙羅を育てているのは自分ひとりではないのだという安心感に包まれるのだ。
彼の背中に腕を回して、頬ずりをして目を閉じる。全身で彼体温を感じると、昼間の育児疲れが吹き飛んでいくような心地がした。
「由梨」
優しく呼ばれて顔を上げると、彼の視線がゆっくりと下りてくる。
「んっ……」
柔らかくて優しいキス、でもすぐにそれでは満足できなくなってしまう。顎に添えられた彼の指が由梨の唇に割って入り、そのまま彼は由梨の中に侵入する。
おかえりなさいのキスにしては少し荒いふたりの息遣いが、静かなダイニングに響く。
「ん……隆之さ……」
由梨を包む腕の力がいつもより強いように感じて目を開くと、由梨の背中がチリリと痺れる。彼のあの瞳が自分を見つめていたからだ。
「あ」
途端に、身体がかぁっと熱くなる。
——もう一度、深いキス。
「ん……」
目を閉じると自分の力で立っているのかさえもわからなくなってしまう。彼の香りと温もりで頭がいっぱいになっていく……。
大きな手が欲しがるように自分を強く抱く感覚も由梨のなにかをおかしくさせた。
甘い息を吐いて目を開くと、同時に隆之が由梨から目を逸らした。肩のあたりに顔を埋めて、ふーと長い息を吐きそのまましばらく沈黙する。
「隆之さん……?」
顔を上げた時は、いつもの優しい彼だった。
そっと由梨から身を離し、ダイニングテーブルに目をやった。
「夕食、ありがとう。沙羅は俺が見てるから、由梨は今のうちに風呂に入ってきたら?」
由梨を気遣っての言葉だ。
風呂は毎日夕方、沙羅と一緒に入っている。でもまだ慣れない彼女とのお風呂はバタバタで、自分の髪と身体などろくに洗えたものじゃない。たいていはこうやって彼がいる時間に、もう一度入りなおすのだ。
その彼の気遣いを、どこか寂しいと感じてしまう自分が恥ずかしかった。いつ沙羅が起きてくるともわからないのだ、生活のすべてを彼女優先にしなくてはいけないのに、もう少し彼の腕の中にいたかったと思うなんて。
火照る身体を持て余したまま、由梨は「はい」と答えた。