『政略結婚は純愛のように』番外編集
2
由梨が風呂から上がると、隆之はリビングにいた。ソファに座り、携帯の画面をジッと見ている。
いつになく表情が険しかった。由梨が入ってきたことにも気づかずに、眉を寄せて考え込んでいる。
その姿に、由梨は声をかけることもできずに足を止めて彼を見つめた。
しばらくすると彼は携帯をセンターテーブルに置き、ふーと息を吐いてソファに身を沈める。背もたれに置かれた右手の人差し指がソファをトントンと叩いていた。
会社でなにかあったのだ、と由梨は思う。
彼が家庭に仕事を持ち込むことはほとんどない。家にいる時は常に穏やかに沙羅を慈しむ父親の顔だ。外での激務を思わせるような振る舞いもあまりなかった。でも一歩外へ出れば、重要な決断を迫られる立場にいるのは確かなのだ。家に帰ってきたからといって、すぐに頭が切り替わらない日もあるのだろう。
せめて家にいる時くらいは、難しいことから解放されてリラックスしてもらいたいと心から思う。
由梨にできることは、本当に少ししかないけれど。
「お風呂、ありがとうございました。隆之さんもどうぞ」
遠慮がちに声をかけると、彼は由梨の方を向き、穏やかに微笑んだ。
「ああ、ありがとう」
そして少し首を傾げて、由梨に向かって問いかけた。
「今日の沙羅はどうだった?」
小さな沙羅との生活は、単調に思えて実のところそうではない。日に日に大きく成長し、表情もどんどん変わってゆく。それを時間のある時に、彼に報告するのが由梨の楽しみのひとつだった。
たいていはたわいもないことだ。
今日一日よく笑ったとか、拳をずっと見つめていたとか。
でも彼はそれらひとつひとつを嬉しそうに目を細めて聞いてくれる。
彼の意識が家庭に向いたことにホッとして、由梨は口を開いた。
「今日は秋元さんと一緒に、お義父さんのところへ行きました」
加賀隆信(たかのぶ)彼の父親である。
隆信は、脳梗塞で倒れて身体の自由が効かなくなって以来、同じ市内にある二十四時間看護付きの施設に住んでいる。そこへ行ってきたのである。
すぐ近くにいるとはいえ別々に住んでいることを、寂しいと由梨は思う。自分の父親をすでに亡くしているから尚更かもしれない。
看護と介護を担う人材を屋敷に派遣してもらえば、加賀家に帰ってくることもできなくはないようだが、それを本人は望んでいないのだという。
倒れた自分に代わって、若くして重責を背負う息子が仕事に専念するためだ。自宅に絶えず人が出入りする環境は避けたいと思っているようだ。
それ自体は由梨が口出しする問題ではないだろう。でも『新婚夫婦の邪魔になってはいけない』と言っていたと小耳に挟んでからは申し訳なく思っていた。
沙羅が生まれる前は隆之と一緒に時々顔を出していたが、出産後、沙羅が2カ月を過ぎてから、秋元とともにちょくちょく顔を見せに通っている。
「お義父さん、今日もお元気そうでした」
忙しくてなかなか行けない彼に父親の様子を報告すると、隆之が頷いた。
「ああ、……親父からも報告があったよ。ありがとう」
そしてすぐに由梨を気遣う。
「だけどあまり無理しなくていいからな。親父は喜ぶんだろうけど、由梨だってまだゆっくりしてた方がいいんだし」
「大丈夫です。秋元さんと一緒ですから。それにあちらにいる時は、お義父さんが沙羅を抱いてくださるから、かえってゆっくりできるくらいです」
隆信がいる施設は、施設といっても高台にある緑に囲まれた高級マンションのような佇まいだ。プライベートスペースはそれこそ普通のマンションよりもゆったりととられているから、訪問する側もゆったりとした気持ちで過ごすことができるのだ。
「……ならいいけど」
隆信はリハビリの甲斐あって、歩行以外は不自由のないところまで回復している。訪れると、ベッドの上で嬉しそうに沙羅を抱いている。
「今日もちょうど沙羅がご機嫌で、お義父さんが抱くとニコニコ笑うから、お義父さん喜んでくださって」
「……だけど出かけること自体が大変だろう? あまり負担にならないように」
「ありがとうございます。寒くなりはじめたら行きにくなるから、余計に今のうちにって思っちゃって、また明後日もお邪魔させてもらう予定です」
「うん……」
話をしながら由梨は、今日の彼はやはりどこかうわの空だと感じていた。話を合わせながら、なにか別のことに気を取られているような、心ここに在らずといった様子だ。
やはり会社のことが気にかかるのだろう。
でもだからといって、なにかあったんですか?と聞けなかった。
彼の抱える案件は会社にとってトップシークレットとなりうるものばかりで、由梨に話をしたところでどうなるものでもない。そもそも、話すべきではないものばかりなのだから。
「あ、そうだ。お昼にお義父さんと撮った写真があって……」
そう言って由梨は、ダイニングテーブルに置きっぱなしにしてあった自分の携帯を手に取る。
昼間に撮った沙羅の写真を見せようと思ったのだ。
ソファの彼の隣に腰を下ろし、写真を見せようと身を寄せる。
すると同時に、隆之が立ち上がった。
いつもなら喜んで写真を見たがるのになぜか黒い髪をぐしゃりとして向こう側を向いてしまう。その表情はわからなかった。
「隆之さん……?」
「……風呂に入ってくるよ。由梨は先に寝てて」
そう言って、由梨が返事をするより早く、リビングを出ていった。
由梨はその場に取り残されたまま、彼の背中を見送った。
普段はあまり動揺を表に出さない彼の珍しい振る舞いに、由梨の胸に不安な思いが広がっていく。
沙羅の話でも気持ちが切り替わらないほど深刻な案件を抱えているのだろうか。
あるいはよほど疲れているか。
……もちろん、そんな日もあるだろう。完璧だと言われている彼だって人間なのだから。
でもそこで。
センターテーブルに置かれたままの彼の携帯に目を留めて、由梨の胸がドキリとした。さっき彼が険しい表情で画面を開いていた携帯だ。
深刻な表情で彼が見ていた携帯は、仕事用のものではなく、プライベートで使っているものだった。
いつになく表情が険しかった。由梨が入ってきたことにも気づかずに、眉を寄せて考え込んでいる。
その姿に、由梨は声をかけることもできずに足を止めて彼を見つめた。
しばらくすると彼は携帯をセンターテーブルに置き、ふーと息を吐いてソファに身を沈める。背もたれに置かれた右手の人差し指がソファをトントンと叩いていた。
会社でなにかあったのだ、と由梨は思う。
彼が家庭に仕事を持ち込むことはほとんどない。家にいる時は常に穏やかに沙羅を慈しむ父親の顔だ。外での激務を思わせるような振る舞いもあまりなかった。でも一歩外へ出れば、重要な決断を迫られる立場にいるのは確かなのだ。家に帰ってきたからといって、すぐに頭が切り替わらない日もあるのだろう。
せめて家にいる時くらいは、難しいことから解放されてリラックスしてもらいたいと心から思う。
由梨にできることは、本当に少ししかないけれど。
「お風呂、ありがとうございました。隆之さんもどうぞ」
遠慮がちに声をかけると、彼は由梨の方を向き、穏やかに微笑んだ。
「ああ、ありがとう」
そして少し首を傾げて、由梨に向かって問いかけた。
「今日の沙羅はどうだった?」
小さな沙羅との生活は、単調に思えて実のところそうではない。日に日に大きく成長し、表情もどんどん変わってゆく。それを時間のある時に、彼に報告するのが由梨の楽しみのひとつだった。
たいていはたわいもないことだ。
今日一日よく笑ったとか、拳をずっと見つめていたとか。
でも彼はそれらひとつひとつを嬉しそうに目を細めて聞いてくれる。
彼の意識が家庭に向いたことにホッとして、由梨は口を開いた。
「今日は秋元さんと一緒に、お義父さんのところへ行きました」
加賀隆信(たかのぶ)彼の父親である。
隆信は、脳梗塞で倒れて身体の自由が効かなくなって以来、同じ市内にある二十四時間看護付きの施設に住んでいる。そこへ行ってきたのである。
すぐ近くにいるとはいえ別々に住んでいることを、寂しいと由梨は思う。自分の父親をすでに亡くしているから尚更かもしれない。
看護と介護を担う人材を屋敷に派遣してもらえば、加賀家に帰ってくることもできなくはないようだが、それを本人は望んでいないのだという。
倒れた自分に代わって、若くして重責を背負う息子が仕事に専念するためだ。自宅に絶えず人が出入りする環境は避けたいと思っているようだ。
それ自体は由梨が口出しする問題ではないだろう。でも『新婚夫婦の邪魔になってはいけない』と言っていたと小耳に挟んでからは申し訳なく思っていた。
沙羅が生まれる前は隆之と一緒に時々顔を出していたが、出産後、沙羅が2カ月を過ぎてから、秋元とともにちょくちょく顔を見せに通っている。
「お義父さん、今日もお元気そうでした」
忙しくてなかなか行けない彼に父親の様子を報告すると、隆之が頷いた。
「ああ、……親父からも報告があったよ。ありがとう」
そしてすぐに由梨を気遣う。
「だけどあまり無理しなくていいからな。親父は喜ぶんだろうけど、由梨だってまだゆっくりしてた方がいいんだし」
「大丈夫です。秋元さんと一緒ですから。それにあちらにいる時は、お義父さんが沙羅を抱いてくださるから、かえってゆっくりできるくらいです」
隆信がいる施設は、施設といっても高台にある緑に囲まれた高級マンションのような佇まいだ。プライベートスペースはそれこそ普通のマンションよりもゆったりととられているから、訪問する側もゆったりとした気持ちで過ごすことができるのだ。
「……ならいいけど」
隆信はリハビリの甲斐あって、歩行以外は不自由のないところまで回復している。訪れると、ベッドの上で嬉しそうに沙羅を抱いている。
「今日もちょうど沙羅がご機嫌で、お義父さんが抱くとニコニコ笑うから、お義父さん喜んでくださって」
「……だけど出かけること自体が大変だろう? あまり負担にならないように」
「ありがとうございます。寒くなりはじめたら行きにくなるから、余計に今のうちにって思っちゃって、また明後日もお邪魔させてもらう予定です」
「うん……」
話をしながら由梨は、今日の彼はやはりどこかうわの空だと感じていた。話を合わせながら、なにか別のことに気を取られているような、心ここに在らずといった様子だ。
やはり会社のことが気にかかるのだろう。
でもだからといって、なにかあったんですか?と聞けなかった。
彼の抱える案件は会社にとってトップシークレットとなりうるものばかりで、由梨に話をしたところでどうなるものでもない。そもそも、話すべきではないものばかりなのだから。
「あ、そうだ。お昼にお義父さんと撮った写真があって……」
そう言って由梨は、ダイニングテーブルに置きっぱなしにしてあった自分の携帯を手に取る。
昼間に撮った沙羅の写真を見せようと思ったのだ。
ソファの彼の隣に腰を下ろし、写真を見せようと身を寄せる。
すると同時に、隆之が立ち上がった。
いつもなら喜んで写真を見たがるのになぜか黒い髪をぐしゃりとして向こう側を向いてしまう。その表情はわからなかった。
「隆之さん……?」
「……風呂に入ってくるよ。由梨は先に寝てて」
そう言って、由梨が返事をするより早く、リビングを出ていった。
由梨はその場に取り残されたまま、彼の背中を見送った。
普段はあまり動揺を表に出さない彼の珍しい振る舞いに、由梨の胸に不安な思いが広がっていく。
沙羅の話でも気持ちが切り替わらないほど深刻な案件を抱えているのだろうか。
あるいはよほど疲れているか。
……もちろん、そんな日もあるだろう。完璧だと言われている彼だって人間なのだから。
でもそこで。
センターテーブルに置かれたままの彼の携帯に目を留めて、由梨の胸がドキリとした。さっき彼が険しい表情で画面を開いていた携帯だ。
深刻な表情で彼が見ていた携帯は、仕事用のものではなく、プライベートで使っているものだった。