政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
 来園客は皆帰り、静まり返った夢の世界はところどころライトアップされていて、どこか幻想的だった。

 由梨はそれをホテルのバルコニーから眺めている。
 海の香りが混じる少し冷たい秋の風が心地よかった。

「寒くないか?」

 声をかけられて振り返ると、沙羅を寝かしつけた隆之が部屋から出てくるところだった。
 由梨はパークの赤く照らされた火山に視線を戻して、首を横に振った。

「ううん、気持ちいい」

 隆之が由梨を後ろから包み込むように抱きしめる。

「沙羅は寝た?」

 身体全体を包む彼の体温を心地よく感じながら尋ねると、隆之が由梨の髪に頬ずりをした。

「ああ、すぐだったよ。疲れてたんだな。今日は大はしゃぎだったからあたりまえか」

 沙羅はあれから由梨の膝の上でも、お風呂の中でもずっと、興奮気味にパレードのことを話し続けていた。
 よほど今日一日が楽しかったのだろう。まだ寝たくないと言い張って。

 明日もまたパークに行けると説得して、ようやく寝室へ行ったのだ。

「小さなプリンセスに、おやすみのキスはしてもらった? ……もうドレスは脱いだけど」

 ふふふと笑って由梨は尋ねる。

 わざと意味深な言葉で、昼間に沙羅から聞いた話を知っていると暗に告げる。

 隆之が由梨の耳元でくすりと笑う気配がした。

「なんとかね。寝るまでがお父さんのプリンセスだって説得して。……明日からはどうしようかな」

 そんなことを言う彼に由梨はくすくす笑い出してしまう。
 隆之が首筋に顔を埋めるのがくすぐったくて心地よかった。

「それにしても、私が復職する前に来られてよかった」

 息を吐いて由梨は呟く。
 沙羅を産み、一度仕事に復帰した由梨は隼人の出産で再び産休を取った。今は育休中である。隼人が一才を過ぎたら、また仕事に戻ることになっている。

 そしたら、しばらくはこんな風に両親ふたりの休暇を合わせるのは難しくなるかもしれない。

「そういえば、復職面接はもうすぐだろう? 復帰後の希望は出したのか?」

 思い出したような隆之からの問いかけに、由梨は首を横に振った。

「まだなの。ちょっと迷っちゃって。面接までには決めなくちゃいけないんだけど」

 北部物産では、育休復帰にあたって人事部の担当者が面接をする復職面接という制度がある。復帰後のキャリアプランについて本人の希望を聞くためである。
 もちろん会社の意向とすり合わせる必要があるから、希望がすべて叶うわけではないけれど、由梨の周りの社員の話を聞く限りおおむね、好評だった。
 第二子、第三子と子供が増えてもあたりまえに働き続ける女性社員を、目にすることも増えてきた。

「企画課はやりがいはあるけど、沙羅を産んでからは少し大変だったから。お休みも多かったから戦力になれなくて悔しかった」

 想像していたのとはまったく違っていた沙羅を育てながらの勤務期間を思い出し、由梨はため息をついた。

 もちろん隆之も可能な限り都合をつけて協力してくれてはいたけれど、なんといっても彼は社長なのだ。

 由梨と同等の時間を割くわけにはいかない。

「山辺さんってすごいな……」

 由梨の気持ちを静かに聞いていた隆之が口を開いた。

「確かに彼女はすごいけど、人と比べる必要はない」

 その言葉に、由梨は素直に頷いた。

「うん。だから今度はもう少しじっくり仕事ができる部署を希望しようかなって思ってるの。縁の下の力持ちじゃないけど、他の課をサポートするような総務課とか、人事課とか」

「……秘書課とか?」

 隆之の言葉に、由梨はくすりと笑った。

「それはさすがに。夫婦一緒は……」

「嫌?」

「そうじゃないけど、周りが気を使うでしょう?」

 今の秘書課は、由梨がいた頃に比べて随分と大所帯になった。

 今井コンツェルン本社から出向していた取締役の代わりに、北部物産に長年勤めているはえぬきの取締役が選任されたからだ。

 彼らは実際に隆之とともに働くから、必然的に秘書課の人数がもっと必要になる。

 由梨がいた頃のメンバーだったらいざ知らず、新しく入った社員にしてみれば、由梨と隆之が同じ場所で働いているなんてやりにくいに違いない。

 そしてそのたくさん入った新しい社員をまとめているのは……。

「長坂室長の下で働けるのは嬉しいけど」

 由梨が言うと、今度は隆之がため息をついた。

「そんな風に言えるのは、由梨だけだ。間に入る西野さんがかわいそうになる時があるよ」

 今秘書室は、定年退職した蜂須賀に代わり、長坂が室長をしている。

 そして課自体の人数が増えたことにより、新たに主任という役職ができ、奈々がそれに昇格した。
 確かによく、

『長坂先輩と若い子の調整がすっごく大変なんですよ〜』

と嘆いていた。

 長坂室長の厳しさは由梨の耳にも届いているほどだから、大変そうではある。

 でもあのふたりなら隆之を支える秘書室をうまく回せると由梨は思う。

 長坂が人に厳しくするのは相手を思ってのことだと奈々がよく知っているからだ。二人はもはや隆之の業務に欠かせない敏腕ペアと呼ばれている。

 一方でプライベートでの彼女たちは、ふたりでよく家に遊びに来てくれて子供たちとも仲良しだ。
 
 子育ての悩み、仕事の悩み、なんでも話せる由梨にとっては本当の姉妹のような存在だ。
 彼女たちが家を訪れた時、長坂が隆之とくだらないことで言い合いになるのは、もはや加賀家ではお約束となりつつある。

「夫婦で同じ部署は周りが気を使うっていうけど……企画課のあの夫婦はうまくいってるんだろう?」

 隆之の言葉に、由梨はぷっと吹き出した。

「あの二人は別格!」

 あの夫婦。
 黒瀬と天川のことだ。
 なんと二人は半年前に電撃入籍をしたのである。
 結婚どころか二人が付き合っているなんて話もまったく誰も知らなかったから、企画課のみならず会社全体に激震が走った。

 由梨自身は育休中だから実際に目にしたわけではないけれど、山辺の話では結婚後もふたりは平然として今まで通り同じチームで働いているという。

 結婚後も同じ部署で働く夫婦としては由梨と隆之に続く第二号だ。

 なんでもどちらも部署異動を譲らなかったのでこうなったのだという話だが、それにしてもふたりとも相変わらず喧嘩ばかりだから、実は結婚は嘘だったのでは? という噂が流れているという。

「でも天川さんに聞いたら、どうして結婚なんてことになったのかわからないって言うんだから、不思議……」

 呟いて由梨は首を傾げた。
 あるプロジェクトの打ち上げ後、なぜか二人だけで二次会に行くことになって気がつけば黒瀬のマンションで朝を迎えていたのだという。そしてそのまま結婚することになってしまった。
 そんなシチュエーション、ドラマか小説の中だけの話だと思っていた由梨は、それを聞いてびっくり仰天してしまったのだ。

「だって……そんなことって、ある?」

「男と女なんてそんなもんだろう。だいたいあれだけ喧嘩しても一緒にいられるんだから、よっぽど相性がいいんだよ」

 訳知り顔で隆之が答えた。

「でもよくわからないうちに……なんて」

「結婚なんて、この人だって直感したら相手がよくわかっていないうちに決めてしまう方がいいんだよ、… …黒瀬らしいじゃないか」

 そう言って彼はくっくと笑う。

 なんだか自分たちの結婚を彷彿とさせる言葉に、由梨は頬を膨らませた。

「もう……」

「大事なのは、その後どれだけ幸せにするかだろう?」

 隆之が低い声で甘く由梨の耳に囁いた。

「由梨は、よくわからないうちに決めた俺との結婚を後悔してるのか?」

 試すような彼の言葉に、由梨は首を横にふった。

「まさか…。すごく幸せ。沙羅と隼人にも恵まれて、隆之さんのそばにいられるんだもの。あの時、隆之さんのプロポーズを受けてよかったって思う」

 頭で考えたというよりは、ほとんど本能で頷いたようなものだけど、それで幸せになれたのだから、直感にしたがって本当によかった。

「ノーと言わせるつもりはなかったけど」

 隆之がそんなことを言うものだから由梨また「もう」と頬を膨らませた。
 目を細めて幻想的な景色を見つめて今度は由梨が問いかける。

「隆之さんは、幸せ?」

「ああ、すごく幸せだ」

 隆之が頷いた。

「由梨がいて沙羅と隼人がいる。家族の時間があるから、俺は外で戦える」

 その言葉に、由梨はこの夏の隆之を思い出していた。
 今年の夏は酷暑だった上に、彼のスケジュールはとてもハードだった。
 業務の内容までは由梨の預かり知らないことだけれど、帰りは遅く出張もしょっちゅうだった。
 そうやって思い返してみると、やっと取れた休暇に彼が家族に癒しを求めて、沙羅をベタベタに甘やかしているのも納得だ。

「隆之さん、この旅行で、子供たちとすごして少しは癒されているといいけど」

「もちろん、癒されてるよ。でもそうだな……今で半分充電できたくらいだな」

 その言葉に、由梨は「ええ?」と声をあげる。
 だってあんなに甘やかしていたのに、まだ半分だなんて。

 だったら明日も彼は子供たちをベタベタに甘やかすつもなの?と少し由梨は不安に思う。
 
 一緒に遊んだり優しくするのはともかくとして、さすがにあれ以上おもちゃを買いあたえるのは……。

 そんなことをあれこれと考える由梨の耳に、隆之が一段低い声で囁いた。

「後の半分は、由梨でしか充電できないんだ」

 そしてそのまま、由梨の耳を甘噛みする。

「つっ……!」

 由梨は吐息を噛み殺す。

 くるりと身体を回されて、彼と向かい合わせにされてしまう。驚いて顔を上げると、そのまま唇を奪われた。
 素早く入り込んだ彼の熱が、由梨の身体に火をつけて、頭から母親の部分をあっという間に消し去ってゆく。
 
 彼のことしか考えられなくされてしまう。

 いつだってこうなのだ。

 子どもたちの前で、どんなに穏やかな母の顔をしていても、彼にこうやってキスされると、一瞬でただ彼に恋をしているだけの自分に戻ってしまうのだ。

 それを嫌だなどとは思わないけれど、なんだかとても恥ずかしい。

 子もできてもう母親になったのに、いつまで経っても旦那さまに恋をしたままなんて。

「由梨で充電させてくれるだろう?」

 濡れた唇をぺろりと舐めて彼は言う。

 笑みを浮かべるその顔は、子供たちに見せる父親のそれではなかった。

 ——この瞳に。

 きっとずっと、自分は恋をしたままなのだ。
 なにがあっても、どれだけ時が過ぎても、それだけは変わらない。

「由梨、愛してるよ」

 隆之が、由梨の唇を親指で辿る。その指に促されるように、由梨も自らの思いを口にする。

「隆之さん、私も」

 大好きな瞳を見つめたまま。
 視線の先で隆之が、極上の笑みを浮かべた。

「中へ入ろう」

〈完〉
< 45 / 46 >

この作品をシェア

pagetop