聖女は新刊が読みたい
私はいつものように大神殿の聖堂で、男神シエラヴィータの像の前で膝をつき、祈りを捧げていた。
ステンドグラスが七色の光をこぼし、私のまとう白い衣装を染め上げる。
広い聖堂の壁際に下女達が並んでおり、彼女達の感嘆のため息が漏れ聞こえた。
「ミーナ様のなんと優美なこと」
「さすが聖女様ですわね」
ひそひそと交わされた言葉でも、静かな聖堂内ではよく響き、私の元まで聞こえた。
私は敬虔に祈りを捧げる。
──日下部春彦の新刊が読みたい。
しかし、それは不可能なことだ。そう思うと、頬に涙がつたい落ちていく。
それを見ていた下女達が、どよめきの声をあげた。
「ミーナ様が泣いていらっしゃる……!」
「きっと、民の苦しみに思いを馳せているのだわ……」
「なんと慈悲深い……」
私は居たたまれなくなって立ち上がると、ざわめく下女達を背に、聖堂から出ていく。
誤解されているのは知っていたが、真実を告げるつもりはなかった。
前世の愛読書の新刊が読めずに泣いているなんて、とても言えるはずがなかったからだ。
十年前まで、私は帝国リンドベルトの辺境に住む普通の六歳の男爵令嬢だった。
いくら貴族とはいえ男爵家──しかも六人兄妹の末っ子、四番目の娘ともなれば、家計の事情で持参金も用意できない。そのため修道院行きとなり、生涯独身で神に祈りを捧げて生きていくものだと思っていた。
しかし、そんな私に一年前、転機が訪れる。
中庭の花に水をあげていた時のことだ。
男神シエラヴィータの声が聞こえた。
『あなたは聖女として選ばれました』
そんな神の声がしたかと思えば、聖なる光が私の身体を包み込む。その衝撃で、私は突然前世を思い出した。
──私はかつて日本という国で、水無瀬葵という名前の大学生だった。
前世の私は体が弱かった。
幼い頃から二十歳になるまで入退院を繰り返し、あげくのガン発覚の余命宣告。
そんな前世の私には、ひとつだけ未練があった。
幼馴染で、初恋の人でもある日下部春彦。
彼の小説の新刊の発売日が、私の死ぬ一週間後に予定されていたのだ。
あと一週間長く生きていたら、新刊が手に入っていたのに。そう思うと悔しさが湧き上がる。
新進気鋭の小説家・日下部春彦。
彼のことをずっと、そばで応援してきた。私は彼自身のことが好きだったが、彼の小説の熱烈なファンでもある。
日下部春彦は恋愛からミステリまで幅広く書くエンタメ作家だったが、一番の人気作は作者と同じ主人公名を冠した探偵・日下部シリーズだろう。
……しかし、違う世界に生まれ変わってしまっては、どうしようもない。
ない袖は振れないし、作者が不在なら当然新刊は出せないのだ。
私は聖女となってから、王都の大神殿に住まわせてもらうことなった。
とはいえ、私は存在するだけで国の護りになるらしく、ほとんど仕事という仕事もない。
やることといえば、たまの祭事と一日一度の神への祈りくらいで、昼寝とおやつ付きの贅沢な暮らしをさせてもらっている。
そういえば、私が聖女になってから実家の人々が手のひら返しで私との血縁関係を主張して家に戻そうとしてきたけれど、私が世俗との縁は切ったと告げると、それ以降は何も言ってこなくなった。
私は暇にあかして、前世の日下部春彦の小説を書くことにした。
時間が経っても忘れないために、覚えていることをできるだけ記していく。
全三巻のシリーズを小説風に書き上げた後、私は泣いていた。
──どうして、この素晴らしい物語の続きがもう読めないのだろう? 理不尽すぎる。
その時、私の部屋の扉がノックされ、私の身の回りの世話をしてくれている下女が入室してきた。
「ミーナ様、どうされました? 泣いていらっしゃるのですか?」
恐る恐る問われた。
私はハンカチで頬をぬぐう。
私の部屋から漏れ聞こえる声を心配して、彼女は訪ねてきてくれたのだろう。
「ごめんなさい。起こしてしまったわね」
気づけば書き物に夢中になり、寝る時間を過ぎてしまっていた。
私は良いことを思いつき、彼女を手招きしてベッドに座らせた。
「ねぇ。良かったら、この物語を読んでみて」
オタク仲間が欲しかった。
どのキャラがどれだけ萌えるか、どのシーンが素晴らしいか等、この情熱を誰かと分かち合いたかったのだ。
数日後、下女は日下部シリーズにどっぷりと浸かっていた。彼女の熱狂ぶりに興味を引かれた他の下女達が小説を読みたそうにしていたので、私は快く彼女達に小説を貸し出した。
かくして、娯楽の少ない大神殿で急速に日下部春彦の小説が広まっていったのだ。
そしてある日、大神殿のトップである枢機卿ヴェルナー・グリューネベルト・ノイドハイムにそれが知られてしまう。
中庭で午前のティータイムをしていた時のことだ。
険しい顔をしたヴェルナーが小説を手にやってきた。
そばに控えていた下女達が彼の怒りの気配を察し、そろそろと席を外していく。
ヴェルナーは影で大神殿の小姑と呼ばれ、ささいなことも容赦なく追及してくる神経質な男である。
見た目は腰まである長い青銀色の髪と同色の瞳を持つ二十代前半くらいの美青年なのだが、私がこの大神殿にきた時からネチネチと細かいことをいびってくるため、彼に対して苦手意識があった。
彼はこの世界に五人しかいない枢機卿の一人であり、次の教皇と呼び声が高い将来有望な男なのだが……。
──黙っていればイケメンなんだけどなぁ。
出てくる言葉は嫌味なのである。残念なイケメンだ。
ヴェルナーは私が執筆した手作り本を掲げて、座っている私を見おろしてきた。
「この小説はなんでしょう?」
「何のことだか、さっぱりですわ」
私はしらばっくれた。
ヴェルナーはため息を吐く。
「朝ふらふらで働く下女達が日に日に増えていたので、問い詰めたらこの本が原因だと。彼女達の業務に支障が出ています」
日下部春彦の小説は大神殿の女達の間でまわし読みされ、寝る間も惜しんで読む者が現れたようだ。
ヴェルナーはその原因である本を広めた私を叱責にきたのだろう。
彼は私の目の前で、糸でまとめられただけの紙束をパラパラとめくる。そのもったいぶった態度が癪に障った。
「この小説は、細部まで作り込まれているのに、それでいて現実味があります。まるで本当に存在する世界のお話のようですね。……下女達を叱るために没収して、興味をそそられてなんとなく読んでしまったのですが……つい、私も読みふけってしまいました」
この世界の小説は竜に囚われたお姫様を救う騎士物話や、主との不倫の末に屋敷の井戸に落とされて化けて出る下働きの女の怪談話など、それはそれで面白いのだが、日下部春彦のような小説は今までになかった。
この世界の人々が新しいミステリーというジャンルに興味をそそられるのも無理はない。
「……それを読んだんですか?」
堅物の枢機卿が?
私の問いに、ヴェルナーは咳払いした。
「そりゃあ、読みますよ。私が聖書しか読まないとでも? 娯楽本だって読みます。……貴女は私のことには興味がないのでご存知ないでしょうが、私の趣味は読書です」
そういえば、大神殿の図書館や休憩室で彼が難しい顔をして書物を広げている姿を見かけることがあった。
てっきり仕事をしているのかと思っていたが、休憩中に本を読んでいたのか。
「これは貴女が書いた小説ですか?」
彼の問いに、私は首を振った。
「……違います。これはハルヒコ・クサカベの本です。表紙にもペンネームが書いてあるでしょう? 私は彼の物語を代筆したにすぎません」
ヴェルナーは眉をよせる。
「代筆……ですか?」
「ええ。もうこの世にいない方です」
「……貴女はその方の……ファンだったのですか? その方とは一体どのようなご関係です?」
「何故それを聞くのですか?」
「──いえ、ただの興味からです」
私は一瞬押し黙り、ため息を吐いてから正直に言った。
「私は……ただの一ファンです。幼馴染でもありましたが」
持病のために、告白もできずに終わった。
恋人になれなくても、せめて彼の小説だけは読んでいたかった。それが病床での心の支えになっていたのに……。
もう、いくら望んでも続きが読めない。
それを思うと胸が苦しくなり、無意識のうちに涙がにじむ。
その姿を見ていたヴェルナーがギョッとした顔をした。
「──その人は貴女にとって、大事な方……だったのですか?」
「……ええ。世界で一番好きな人でした」
どうして、こんなことを彼に話しているんだろう。
自分でも不思議だったが、その時は口がすべってしまった。
前世で幼馴染と話していた時のような、懐かしい感覚に陥っていたのかもしれない。
「……そうですか」
ヴェルナーは突如無表情になり、ぎこちなく私の前に日下部春彦の小説を置く。
「下女達に伝えて下さい。娯楽本も良いですが、お仕事には支障がでないように、と」
「──承知しましたわ。ご迷惑をおかけして、すみません。ノイドハイム枢機卿」
自分でも硬いなと思ったが、つんと返す。
ヴェルナーは黙って去って行った。
***
大神殿で流行っている小説がある。
下女達が夢中になっていたそれを没収して叱りつけると、それは聖女ミーナが執筆したものだと彼女達は白状した。
ミーナが書いたと知ると一気に興味が限界値を突破し、読んでみたくなった。
彼女のことが前から気になっていたのだ。
これまで幾度も話しかけようとしてきたが、何故か最終的に小言のような形で終わることが多くて、悲しいことに彼女から避けられてしまっている。なんとか共通の話題を持ちたい、汚名返上したいという気持ちがあった。
それは不思議な物語だった。
異世界のことなのに、細部が奇妙なほど作り込まれている。
そして読めば読むほど、登場人物やその世界に違和感を覚えはじめた。
──私は、この物語をどこかで読んだことがある。
異様な既視感と共に、私の中にかつての記憶がよみがえってきた。
──私はこの小説の作者、日下部春彦だ。
気づいた時は動揺した。妄想か、とも思った。
けれど、書かれていない続きの小説のシーンが次々と頭に浮かぶ。
私はその衝動が抑えきれなくなり、続きを執筆した。そして、それをミーナに返した小説の後半に潜り込ませてある。
──その人は貴女にとって、大事な方なのですか?
彼女の返答を思い出して、顔が熱くなる。
ふわふわした雲の上を歩いているような気分だ。
私の小説を書いたミーナは何者だろう、と思い、彼女の言動から押しはかろうと思っていたけれど、まさか幼馴染だったとは。
***
目を閉じれば思い出す。
遠い昔、私には幼馴染がいた。
家も近くて親同士も仲が良かったため、私達は頻繁にお互いの家を行き来していた。
私は言葉が少なく、友達と言える存在もいなかった。けれどミーナは私と積極的に仲良くなってくれた。
私の家で、私が書いた読書感想文をミーナが読んだ時のことだ。
『ハルくんが書いたこの感想文、とっても良かったよ!』
それは運良くクラスで選ばれ、県の展示会にも出品されて賞を取ることができたものだ。
褒められたことが嬉しく、照れ隠しに私は頭を掻く。
『べつにそんな……大したことじゃないし』
彼女は頬を膨らませた。
『大したことあるよ! お母さんも、クラスの子達も、皆そう言ってるもん! ハルくんは文章の才能があるって』
『そう……かな?』
彼女にそう言われると、心の奥を猫じゃらしでくすぐられているかのように、そわそわする。
ミーナは唇を尖らせた。
『それに……ハルくんは皆よりあまりお喋りしないから……読んでるとね、ハルくんのことをもっと知ったような気持ちになるの』
だから私の文章を読めるのが嬉しい、と。彼女は必死に言い募る。
何をどんなふうに感じているか、物事をどういうふうに捉えているのか、どんな世界が私の中にあるのか。もっと知りたいと彼女は言う。
それはまるで情熱的な告白のようで、私はたじたじになってしまった。
頬が熱をおびて、幼馴染の顔をまっすぐに見れなくなる。
『また書いて読ませてね!』
『……読書感想文を?』
私の問いに、彼女は首を振った。
『ううん。ハルくんが書いたものなら、何でも読みたいのっ!』
***
前世で私は彼女のために小説を書き始めた。そして次の世になっても、また彼女のために物語を書き始める。
なんという運命のめぐり合わせだろう。
私は密かな笑みをこぼす。
──彼女が小説の続きに気づいた時、どんな反応をするだろう?
それを想像すると、ただただ、愉快だった。
ステンドグラスが七色の光をこぼし、私のまとう白い衣装を染め上げる。
広い聖堂の壁際に下女達が並んでおり、彼女達の感嘆のため息が漏れ聞こえた。
「ミーナ様のなんと優美なこと」
「さすが聖女様ですわね」
ひそひそと交わされた言葉でも、静かな聖堂内ではよく響き、私の元まで聞こえた。
私は敬虔に祈りを捧げる。
──日下部春彦の新刊が読みたい。
しかし、それは不可能なことだ。そう思うと、頬に涙がつたい落ちていく。
それを見ていた下女達が、どよめきの声をあげた。
「ミーナ様が泣いていらっしゃる……!」
「きっと、民の苦しみに思いを馳せているのだわ……」
「なんと慈悲深い……」
私は居たたまれなくなって立ち上がると、ざわめく下女達を背に、聖堂から出ていく。
誤解されているのは知っていたが、真実を告げるつもりはなかった。
前世の愛読書の新刊が読めずに泣いているなんて、とても言えるはずがなかったからだ。
十年前まで、私は帝国リンドベルトの辺境に住む普通の六歳の男爵令嬢だった。
いくら貴族とはいえ男爵家──しかも六人兄妹の末っ子、四番目の娘ともなれば、家計の事情で持参金も用意できない。そのため修道院行きとなり、生涯独身で神に祈りを捧げて生きていくものだと思っていた。
しかし、そんな私に一年前、転機が訪れる。
中庭の花に水をあげていた時のことだ。
男神シエラヴィータの声が聞こえた。
『あなたは聖女として選ばれました』
そんな神の声がしたかと思えば、聖なる光が私の身体を包み込む。その衝撃で、私は突然前世を思い出した。
──私はかつて日本という国で、水無瀬葵という名前の大学生だった。
前世の私は体が弱かった。
幼い頃から二十歳になるまで入退院を繰り返し、あげくのガン発覚の余命宣告。
そんな前世の私には、ひとつだけ未練があった。
幼馴染で、初恋の人でもある日下部春彦。
彼の小説の新刊の発売日が、私の死ぬ一週間後に予定されていたのだ。
あと一週間長く生きていたら、新刊が手に入っていたのに。そう思うと悔しさが湧き上がる。
新進気鋭の小説家・日下部春彦。
彼のことをずっと、そばで応援してきた。私は彼自身のことが好きだったが、彼の小説の熱烈なファンでもある。
日下部春彦は恋愛からミステリまで幅広く書くエンタメ作家だったが、一番の人気作は作者と同じ主人公名を冠した探偵・日下部シリーズだろう。
……しかし、違う世界に生まれ変わってしまっては、どうしようもない。
ない袖は振れないし、作者が不在なら当然新刊は出せないのだ。
私は聖女となってから、王都の大神殿に住まわせてもらうことなった。
とはいえ、私は存在するだけで国の護りになるらしく、ほとんど仕事という仕事もない。
やることといえば、たまの祭事と一日一度の神への祈りくらいで、昼寝とおやつ付きの贅沢な暮らしをさせてもらっている。
そういえば、私が聖女になってから実家の人々が手のひら返しで私との血縁関係を主張して家に戻そうとしてきたけれど、私が世俗との縁は切ったと告げると、それ以降は何も言ってこなくなった。
私は暇にあかして、前世の日下部春彦の小説を書くことにした。
時間が経っても忘れないために、覚えていることをできるだけ記していく。
全三巻のシリーズを小説風に書き上げた後、私は泣いていた。
──どうして、この素晴らしい物語の続きがもう読めないのだろう? 理不尽すぎる。
その時、私の部屋の扉がノックされ、私の身の回りの世話をしてくれている下女が入室してきた。
「ミーナ様、どうされました? 泣いていらっしゃるのですか?」
恐る恐る問われた。
私はハンカチで頬をぬぐう。
私の部屋から漏れ聞こえる声を心配して、彼女は訪ねてきてくれたのだろう。
「ごめんなさい。起こしてしまったわね」
気づけば書き物に夢中になり、寝る時間を過ぎてしまっていた。
私は良いことを思いつき、彼女を手招きしてベッドに座らせた。
「ねぇ。良かったら、この物語を読んでみて」
オタク仲間が欲しかった。
どのキャラがどれだけ萌えるか、どのシーンが素晴らしいか等、この情熱を誰かと分かち合いたかったのだ。
数日後、下女は日下部シリーズにどっぷりと浸かっていた。彼女の熱狂ぶりに興味を引かれた他の下女達が小説を読みたそうにしていたので、私は快く彼女達に小説を貸し出した。
かくして、娯楽の少ない大神殿で急速に日下部春彦の小説が広まっていったのだ。
そしてある日、大神殿のトップである枢機卿ヴェルナー・グリューネベルト・ノイドハイムにそれが知られてしまう。
中庭で午前のティータイムをしていた時のことだ。
険しい顔をしたヴェルナーが小説を手にやってきた。
そばに控えていた下女達が彼の怒りの気配を察し、そろそろと席を外していく。
ヴェルナーは影で大神殿の小姑と呼ばれ、ささいなことも容赦なく追及してくる神経質な男である。
見た目は腰まである長い青銀色の髪と同色の瞳を持つ二十代前半くらいの美青年なのだが、私がこの大神殿にきた時からネチネチと細かいことをいびってくるため、彼に対して苦手意識があった。
彼はこの世界に五人しかいない枢機卿の一人であり、次の教皇と呼び声が高い将来有望な男なのだが……。
──黙っていればイケメンなんだけどなぁ。
出てくる言葉は嫌味なのである。残念なイケメンだ。
ヴェルナーは私が執筆した手作り本を掲げて、座っている私を見おろしてきた。
「この小説はなんでしょう?」
「何のことだか、さっぱりですわ」
私はしらばっくれた。
ヴェルナーはため息を吐く。
「朝ふらふらで働く下女達が日に日に増えていたので、問い詰めたらこの本が原因だと。彼女達の業務に支障が出ています」
日下部春彦の小説は大神殿の女達の間でまわし読みされ、寝る間も惜しんで読む者が現れたようだ。
ヴェルナーはその原因である本を広めた私を叱責にきたのだろう。
彼は私の目の前で、糸でまとめられただけの紙束をパラパラとめくる。そのもったいぶった態度が癪に障った。
「この小説は、細部まで作り込まれているのに、それでいて現実味があります。まるで本当に存在する世界のお話のようですね。……下女達を叱るために没収して、興味をそそられてなんとなく読んでしまったのですが……つい、私も読みふけってしまいました」
この世界の小説は竜に囚われたお姫様を救う騎士物話や、主との不倫の末に屋敷の井戸に落とされて化けて出る下働きの女の怪談話など、それはそれで面白いのだが、日下部春彦のような小説は今までになかった。
この世界の人々が新しいミステリーというジャンルに興味をそそられるのも無理はない。
「……それを読んだんですか?」
堅物の枢機卿が?
私の問いに、ヴェルナーは咳払いした。
「そりゃあ、読みますよ。私が聖書しか読まないとでも? 娯楽本だって読みます。……貴女は私のことには興味がないのでご存知ないでしょうが、私の趣味は読書です」
そういえば、大神殿の図書館や休憩室で彼が難しい顔をして書物を広げている姿を見かけることがあった。
てっきり仕事をしているのかと思っていたが、休憩中に本を読んでいたのか。
「これは貴女が書いた小説ですか?」
彼の問いに、私は首を振った。
「……違います。これはハルヒコ・クサカベの本です。表紙にもペンネームが書いてあるでしょう? 私は彼の物語を代筆したにすぎません」
ヴェルナーは眉をよせる。
「代筆……ですか?」
「ええ。もうこの世にいない方です」
「……貴女はその方の……ファンだったのですか? その方とは一体どのようなご関係です?」
「何故それを聞くのですか?」
「──いえ、ただの興味からです」
私は一瞬押し黙り、ため息を吐いてから正直に言った。
「私は……ただの一ファンです。幼馴染でもありましたが」
持病のために、告白もできずに終わった。
恋人になれなくても、せめて彼の小説だけは読んでいたかった。それが病床での心の支えになっていたのに……。
もう、いくら望んでも続きが読めない。
それを思うと胸が苦しくなり、無意識のうちに涙がにじむ。
その姿を見ていたヴェルナーがギョッとした顔をした。
「──その人は貴女にとって、大事な方……だったのですか?」
「……ええ。世界で一番好きな人でした」
どうして、こんなことを彼に話しているんだろう。
自分でも不思議だったが、その時は口がすべってしまった。
前世で幼馴染と話していた時のような、懐かしい感覚に陥っていたのかもしれない。
「……そうですか」
ヴェルナーは突如無表情になり、ぎこちなく私の前に日下部春彦の小説を置く。
「下女達に伝えて下さい。娯楽本も良いですが、お仕事には支障がでないように、と」
「──承知しましたわ。ご迷惑をおかけして、すみません。ノイドハイム枢機卿」
自分でも硬いなと思ったが、つんと返す。
ヴェルナーは黙って去って行った。
***
大神殿で流行っている小説がある。
下女達が夢中になっていたそれを没収して叱りつけると、それは聖女ミーナが執筆したものだと彼女達は白状した。
ミーナが書いたと知ると一気に興味が限界値を突破し、読んでみたくなった。
彼女のことが前から気になっていたのだ。
これまで幾度も話しかけようとしてきたが、何故か最終的に小言のような形で終わることが多くて、悲しいことに彼女から避けられてしまっている。なんとか共通の話題を持ちたい、汚名返上したいという気持ちがあった。
それは不思議な物語だった。
異世界のことなのに、細部が奇妙なほど作り込まれている。
そして読めば読むほど、登場人物やその世界に違和感を覚えはじめた。
──私は、この物語をどこかで読んだことがある。
異様な既視感と共に、私の中にかつての記憶がよみがえってきた。
──私はこの小説の作者、日下部春彦だ。
気づいた時は動揺した。妄想か、とも思った。
けれど、書かれていない続きの小説のシーンが次々と頭に浮かぶ。
私はその衝動が抑えきれなくなり、続きを執筆した。そして、それをミーナに返した小説の後半に潜り込ませてある。
──その人は貴女にとって、大事な方なのですか?
彼女の返答を思い出して、顔が熱くなる。
ふわふわした雲の上を歩いているような気分だ。
私の小説を書いたミーナは何者だろう、と思い、彼女の言動から押しはかろうと思っていたけれど、まさか幼馴染だったとは。
***
目を閉じれば思い出す。
遠い昔、私には幼馴染がいた。
家も近くて親同士も仲が良かったため、私達は頻繁にお互いの家を行き来していた。
私は言葉が少なく、友達と言える存在もいなかった。けれどミーナは私と積極的に仲良くなってくれた。
私の家で、私が書いた読書感想文をミーナが読んだ時のことだ。
『ハルくんが書いたこの感想文、とっても良かったよ!』
それは運良くクラスで選ばれ、県の展示会にも出品されて賞を取ることができたものだ。
褒められたことが嬉しく、照れ隠しに私は頭を掻く。
『べつにそんな……大したことじゃないし』
彼女は頬を膨らませた。
『大したことあるよ! お母さんも、クラスの子達も、皆そう言ってるもん! ハルくんは文章の才能があるって』
『そう……かな?』
彼女にそう言われると、心の奥を猫じゃらしでくすぐられているかのように、そわそわする。
ミーナは唇を尖らせた。
『それに……ハルくんは皆よりあまりお喋りしないから……読んでるとね、ハルくんのことをもっと知ったような気持ちになるの』
だから私の文章を読めるのが嬉しい、と。彼女は必死に言い募る。
何をどんなふうに感じているか、物事をどういうふうに捉えているのか、どんな世界が私の中にあるのか。もっと知りたいと彼女は言う。
それはまるで情熱的な告白のようで、私はたじたじになってしまった。
頬が熱をおびて、幼馴染の顔をまっすぐに見れなくなる。
『また書いて読ませてね!』
『……読書感想文を?』
私の問いに、彼女は首を振った。
『ううん。ハルくんが書いたものなら、何でも読みたいのっ!』
***
前世で私は彼女のために小説を書き始めた。そして次の世になっても、また彼女のために物語を書き始める。
なんという運命のめぐり合わせだろう。
私は密かな笑みをこぼす。
──彼女が小説の続きに気づいた時、どんな反応をするだろう?
それを想像すると、ただただ、愉快だった。