キミは海の底に沈む【完】
「そうなのですね、本当に、全く分からないので困っていたんです」


潮という人は、私の手を握ったまま。
私は記憶が無くなる病気らしい。彼氏らしい目の前にいる人も忘れているみたいで。


「何でも聞いて、何でも答えるから」


まるで私を安心させるようなその言い方に、落ち着いている心が、もっと穏やかにさせる。


「えっと…、ここはどこですか?」


私は部屋の中を見渡した。


「ここはホテル」

「ホテル?家ではなくて?」

「昨日、君が、君の記憶が無いことに戸惑ってちょっと不安定になったから。落ち着くように家じゃなくてここに泊まったんだよ」

「……不安定?」

「うん、たまにある。住んだ覚えのない家を自分の家とは思えないって」

「わたしがですか?」


昨日?本当に?


「そう、昨日は俺の事も彼氏とは思えないって言ってたかな」


笑いながら、話してくれる潮という人。


「そう、ですか、」


昨日の私は、いったい──


「けど、俺の好きな君だった」


彼の好きな私?


「……昨日は泣かせてごめんな」


笑っている顔から、本当に申し訳なさそうに謝ってくる彼に、私こそ申し訳なかった。
私は覚えていないから。
何をどう返事をすればいいか分からない。


「本当に悪かった」

「…、」

「昨日、君がすげぇ戸惑ってたから、絶対に寝ないって決めてたのに寝て……」


朝、起きてすぐに謝ってきた事を思い出す。
そんなの──……。
この人は何も悪くないのに。


「いえ、悪いのは私です。不安定になった私が悪いんです」

「君は何も悪くない」

「私」

「悪くない、お願いだから絶対悪いと思わないで欲しい」

「……でも」

「……俺が悪い。……君が起こしてくれて良かった……ありがとう」



起こしてくれて良かった?
もしかしたら昨日の私は、起きた時、彼が言う〝不安定の状態〟で何かをしてしまったのかもしれず。
覚えていないから分からないけど。


「あなたが、ずっと、私の手を握っていたので」


今も握ったままだけど。
やっぱり離そうとしなく。


「起きて、外を見ようと思ったのですが出来ませんでした」


そう言うと、潮という人は「…これは、癖で…。マジで癖があって良かった」と、ほっとしたように笑った。


手を繋ぐ事が、彼にとっての癖らしく。
だとすればそれぐらい、私たちは今までも手を繋いでいたということだろうか。


「……私、あなたのこと、何て呼んでましたか?」

「潮くんが多かったと思う。でも、なんでもいい。呼び捨てでも、あなたでも。呼びやすいように呼べばいい」


呼びやすいように?
呼びやすいなら、呼び捨てだけど。
潮くんが多かったのなら、潮くんでいいかと思い。


「私のことは?あ……私の名前って……」

「澤田凪。俺は呼び捨てで呼んでた」


澤田凪。
あまり、ピンと来なかった。


「昨日、君は自分の名前も嫌がってた。嫌がってたってより、知らない名前を自分の名前というのに抵抗があった」

「……抵抗……」

「だから、もし君がいいなら、また呼び捨てで呼んでもいいか?」

「え?」

「嫌なら、絶対に名前は言わない。約束する」


そういえば、この人は私の名前を呼んでいない。ずっとずっと私のことを〝君〟って呼んでる。
昨日の私のことを思って、名前を呼んでいないようで。


「凪でいいです……」

「嫌じゃないか?」

「いえ……、私の名前ですよね。呼んでください。その方が私も嬉しいです」


少し、ほんの少しだけ口角を上げて笑うと、また柔らかく笑った潮くんが「ありがとう」と癖らしい手を握った。


「凪? 他に質問はない?」


さっきはあんまりピンと来なかったのに、こうして呼ばれるとなんだかすんなりと耳に入ってきて。


記憶が無いのに、ああ、私は何度もこの人に名前を呼ばれてるんだな……って思った。
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